2017年7月4日火曜日

角館


角館の歴史

1 戸沢氏による統治


 14、5世紀頃岩手県雫石地方の豪族であった戸沢氏が仙岩峠を越えて仙北郡に進出し、領内の宝仙台(旧田沢湖町)や戸沢(旧西木村)の金山による財力に助けられ、天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めに、奥州から最初に参陣し、その功で本領を安堵されたが、そのときの領地は仙北郡のほとんどと平鹿郡の一部であったと考えられている。

 その後、慶長5年(1600) 家康の会津上杉景勝攻めに参陣したことから、徳川方に地歩を築き、慶長7年に常陸松岡へ、その後山形県新庄市へ転封されたが、大名として明治維新を迎えている。
2 芦名氏による統治

 戸沢氏の常陸松岡への転封により、水戸の佐竹氏が秋田一円の領主となった。

 佐竹氏は清和源氏義光の流れで、義光の孫・源昌義に始まる。義光は「後三年の役」に際して、左兵衛尉の官職を投げ打って奥州へ赴き、兄の義家を助けた。役後、その功績が認められ、常陸介や甲斐守などの官職を得て、陸奥国や常陸国に領地を賜り、常陸国では佐竹郷を領有した。

 義光には数人の男子があったが、義業が佐竹郷を領有し下向してきたという。そして、常陸国に勢力を有していた平繁幹の娘を妻に迎え、常陸平氏と同盟を結ぶことで常陸に勢力を拡大する基礎を固めた。

 秋田への転封当時の佐竹氏当主は義宣で、彼は角館城を、自分の弟で会津の芦名氏の養子になっていた芦名盛重(のちの義勝)に統治させた。
芦名氏は、桓武平家の流れをくむ名家で、文治5年(1189)藤原泰衡追討の功により会津を領した。

 関東以北の屈指の豪族で、公称百八十万石の大名であったが、盛重16歳の天正17年(1589)、伊達政宗との摺上原合戦に敗れ、会津を去った。

 その後、兄義宣を頼って水戸に落ち、江戸崎に居を構え、秀吉の小田原攻めに参陣して功をあげ、竜ヶ崎城48000石を得たが、、兄の秋田転封により自身も所領を取り上げられ秋田に移り、慶長8年、角館を知行地として与えられて1万5000石で角館城に入り、この際、義勝と改名した。

 芦名氏の角館城は、100名ほどの武士で構成されており、うち38名は、会津以来の譜代であって、中心的存在であり、30名は江戸崎以来の譜代で、さらに10名ほどが佐竹氏から佐竹衆として加わっていた。

 居住地は、戸沢氏の残した古城山の北麓一帯で、武士に加えて、会津・江戸崎時代からの商人も住み着き、密集状態となった。

 そこで、元和6年(1620)、前年に起こった洪水の被害をきっかけに、この地を捨て、古城山野真南に新たな町づくりを始めた。

 町づくりは、古城山の南麓に芦名氏の館を設け、これを中心に、南北に3本の道路を通し、中央の道路をメインとし、350mで、マス形地形とし、更に同じ長さの道路を延ばす、そこまでが武士の居住区で、ここより南に商人、さらに東、南の端に寺を建てるという設計であった。

 武士の居住区と商人居住区との分離帯は幅21mの広場に土塁と掘り割りを設けて「火除け」と呼び、この地域と、隣接する商人町の横町のみが町の東から西へ直線で通ずるようになっているほかは、南北、東西共に、直線でつながることのないようになっている。

 中央の道路は幅11mで、家老以下の上級武士が居住し、東側にはこれに準ずる武士、西側には、徒士や足軽の居住地域に区分されていて、階級や知行高によって敷地居住にも規模に差異があった。 住居は原則として平屋で、茅葺きであった。

 現在までおよそ380年余を経過したが、基本的な道路配置、屋敷区分は変わっていない。

 佐竹支配下の城下には、別系統で直臣武士団を配置するのが通例で、角館にも今宮摂津守が配置され、居住地域は田町に設けられた。375mの道路の両側に屋敷地が設けられたが、この地域にマス形地形は設けられなかった。
3 北家による統治

 義宣の跡を継ぐべき盛泰が22歳で没し、その子盛俊も21歳で没し、その3年後、その子千鶴丸も3歳で不慮の死を遂げ、芦名氏が断絶したたことから、明暦2年(1656)北家佐竹義隣が芦名邸に入り、所領として角館地方を領した。

 北家は、常陸(茨城県)佐竹氏16代義治の3男義信が分流して、宗家太田城(常陸太田市)の北に居を構えたので、北家と称された。北家は、その後一時断絶の時期があったが、明治の廃藩に至るまで角館を支配した。

(基幹産業・手工業)
 角館の幕藩時代の基幹産業は農業であった。久保田藩(秋田藩)は新田開発を奨励し、角館でも芦名氏、北家を通して新田開発が続けられ、新田村8か村を成立させている。

 角館の手工業を代表するものは、白岩焼きと樺細工である。

 白岩焼きは明和8年(1771)、角館の武士小高蔵人らの招請を受けた相馬焼の陶工松本運七が白岩に築窯して始めたもので、主にカメ、スズ、すり鉢等の日用品を生産したが、極めて質の高いことから、武士の求めに応じて茶器等も生産した。しかし、明治に至り、経済情勢の変化に対応できず、衰退した。

 樺細工は、天明年中(1781~88)北家家臣藤村彦六が角館に広めたもので、主に北家の下級武士の手内職として発達した。

 桜の樹皮を、その色や光沢を利用して細工するもので、印籠やたばこ入れ等を生産した。北家の援助もあって次第に盛況となり、明治にはいると棒禄を失った士族の中には樺細工を専業化して職人になるものが多かった。

 白岩焼き、樺細工とも、当時、凶作や藩財政の窮迫による俸禄米の借り上げが恒常化していたため、困窮していた武士の生活を、大いに支えたものと思われる。

(久保田藩の財政窮乏状況)
 久保田藩の財政は早くも寛文末~延宝年間(1670年代)以降窮乏し、正徳・享保年間(1711~1735)には財政窮乏は決定的になり、農民への年貢の強化、家臣に対する知行借り上げ、富裕商人への御用金の賦課などが頻繁に出された。

 宝暦6年(1756)には角館で飢人300人に達し、さらに天明4年には東北一帯が大飢饉に襲われ、これを機会に角館では白岩焼きが発展し、樺細工が始まった。

(京文化の影響・教育・秋田蘭画)
角館は久保田藩の文教の地として称揚された。
北家初代の佐竹義隣は京都の公家の出自であり、2代義明の室も三条西家の娘であり、文化の面でも大きな影響を受けた。北家の代々の当主は芸文を好む者が多かった。家臣や組下武士にも学問や芸術に優れた人材を出している。

 久保田(秋田市)に藩校が設置された4年後の寛政5年(1793)に、角館にその分校として弘道書院が開設されている。私塾は、これより先に数個ができており、武士の子弟の学問熱が高まっていた。

 安永3年(1774)我が国初の近代的医学書「解体新書」が刊行されたが、その挿絵を描いたのは角館の武士小田野直武で、彼は安永年間藩の招きで来藩していた平賀源内に西洋画を学び、のち江戸に出府して本格的に西洋画を学び、日本画に西洋画を取り入れた独自の画法を確立し、彼の画業は秋田蘭画と呼ばれ、日本における西洋画の魁となった。

(戊辰戦争)
 慶応4年(1868)朝廷は奥羽諸藩に会津藩及び庄内藩の追討を命じた。奥羽25藩は奥羽列藩同盟を結成して追討の中止を奥羽鎮撫総督に嘆願したが、却下され、久保田藩は同盟を離脱して、追討の兵を挙げた。このため、久保田藩は奥羽諸藩を敵に回して戦うことになったが、肥前鍋島藩、大村藩、平戸藩、小倉藩などの援軍を得て、1か月の激戦の後、同盟軍の撤退で終結した。

 翌明治2年藩主佐竹義堯(よしたか)は藩籍奉還を許され、久保田県知事に任命された。

参考文献:仙北市教育委員会編「図録角館の武家屋敷」(平成19年4月発行):角館町教育委員会編「角館の武家屋敷 河原田家」(平成10年発行))

http://ito-sokyu.art.coocan.jp/19kaku.htm

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