2024年1月5日金曜日

秋月 胤永

 あきづき かずひさ、文政7(1824)年7月2日~明治33(1900)年1月5日

 幕末まで:悌次郎。 号:韋軒。 字:子錫。

 藩士/丸山四郎右衛門胤道の次男として下米代二之丁西 (秋月梯次郎生誕之地) で誕生、秋月姓を継ぐ。

 日新館で成績優秀により19歳で江戸留学、23歳からは昌平坂学問所(昌平黌)で学び、27歳で書生寮助役、30歳で舎長となる。

 安政3(1856)年、33歳で昌平黌を卒業すると藩命により九州などの西国諸藩を遊歴、途中で長岡藩/河井継之助と行動をともにしている。

 帰国後、「観光集/七巻」「列藩名君賢臣事実」を著し藩主に献上。

 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、公用方・諸藩周旋方 (外交官) に抜擢され、会薩同盟の切っ掛けをつくる。

 慶応元(1865)年に蝦夷地代官となるが、翌年には京に召喚される。

 軍事奉行添役として越後方面に出陣したが裏方に徹する。

 開城を取り仕切り、戦争責任を問われ終身禁固刑となる。

 明治5(1972)年1月6日、幽囚が解かれ招聘され左院少議、文部省御用掛、東京大学予備門の教諭、第一高等中学の教諭などを歴任する。

 明治21(1888)年、妻/美枝子が死去。

 明治23(1890)年、67歳で招聘され熊本第五高等学校の教授となる。

 同僚であったラフカディオ・ハーン (小泉八雲)は、秋月を

 「神のような人、神が姿を表すとしたら秋月先生のような姿だろう」

と崇敬していたことは良く知られている。

 晩年は東京に戻り、享年77歳で死去、墓は青山霊園にある。

 市内にも、墓碑/善龍寺や詩碑などがある。

 http://www.aizue.net/siryou/tyomeijin-a.html#akizuki-kazuhisa

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