2024年4月24日水曜日

斯蘆国

日本の弥生時代、現在の慶州市に斯蘆国(サロ・シロ)があり、6つの村があった。

そこに赫居世(ヒョッコセ)たちが北の方から動乱を逃れて鉄器を持ってやって来た。

紀元前57年のことだ。 

農耕社会の中に優れた鉄器を持って来たことから、赫居世がその支配者になったが、彼はその時13歳。


支配者とは6村の連合社会のリーダー的な形態だったようだ。

それはこの時代は支配者が世襲でなく、村間の持ち回りだった事から分かるという。

その称号は居西干・次次雄(コソガン・チャチャウン)と言った。


「居西干」とは君長、「次次雄」とは巫(シャーマン)を意味する事から、

支配者は政治を司り、かつシャーマンでもあった事になる。


紀元前37年。赫居世(ヒョッコセ)は慶州平野に京城を築き、金城と名付けた。

彼の重臣に瓢公(ひょうこう)がいた。彼は倭人だった。その役職名は大輔。

この時代に倭人が侵攻して来たが、赫居世の説得に応じて倭軍は撤退した。

(赫居世も倭人と言う説があった。)


西暦101年。婆裟尼師今(バサ・イサグム)が月城を築いて居城を金城から月城に移す。

(この王が日本書紀で神功皇后軍に降伏した波沙寢錦(ハサムキム)という説がある。

そうすると100年の誤差が出て来る。)

西暦100年以降、国力をつけた斯蘆国は周囲の国々に侵攻して拡大して行く。


さて、倭人の伝承を見てみましょう。

稲飯命

『新撰姓氏録』では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとする。

アメノヒボコ (ウィキペディアより)

アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。

(新羅王族であった昔氏は、倭の但馬地域から新羅に渡り王となったとされており、新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている。)


大矢田宿禰 おおやだのすくね (コトバンクより)

仲哀天皇9年。神功皇后の新羅遠征にしたがう。新羅にとどまり、鎮守将軍となる。

国王・猶搨(ゆうとう)の娘と結婚し、佐久命と武義命をもうけた。

(王の名前がハサムキムではない事に注目)


三人ほど採り挙げて見ました。後世の創作が加わっているとしても、

新羅の王族に倭人の血が入っている可能性が出てきました。

新羅に対する倭国のこだわりの原因はこれが要因の一つかも。

『古事記の神々』で訳したアカル姫が新羅の王子アメノヒボコと結婚して愛想を尽かして、

さっさと倭国に帰って来たのもそれほど特異な話ではないんですね。

人々の暮らし

さて、彼らはどんな暮らしをしていたのでしょうか。

これと前後する時代の記録が「『三国志』魏書・韓伝」にあるので

その一部を抜粋してみましょう。

韓の人々の風俗は、法律規則は少なく、諸国の都に主帥(しゅすい)がいるけれども、村落は入り混じっていてなかなか統括できない。

人々の間に跪拝の礼はない。住居として、屋根を草で葺いた土の家をつくるが、その形は中国のはかのようである。家の戸口は上にあって家族は全部その中で暮らしている。年齢や男女による区別はない。

死んだ者を葬るときには、墓には槨はあるが棺はない。牛馬を乗用に使う事は知らない。牛馬はみな副葬に使用してしまう。

珠玉を財宝とし、衣服に縫いつけて飾りとしたり、首飾りとしたり、耳飾りとしたりする。金や銀や縫いとりのある綾絹などを珍重することはない。

韓の人々は性格は強く勇敢で、頭に何も被らずまげを見せていることろは、狼火(のろし)を扱う兵のようである。そして麻布の衣服を着、足に底の厚い革ぞうりを履いている。

毎年5月には作物の種を播き終え、そこで鬼神を祭る。多数が集まって歌い踊り酒を飲んで昼夜休まず遊ぶ。その踊りは、数十人が一緒に起ち上がってお互いに調子をあわせ、地を踏んで高く低く、手足はそれに応じて動き、リズムは中国の鐸舞(たくぶ)のようである。

10月に収穫が終わったときも、またこのようにする。鬼神を信じ、国の都ごとに一人を立てて天神を祭る司祭とし、天君と名づけている。

また国ごとにそれぞれ、蘇塗(そと)と呼ばれる特別な村がある。そこには大木を立て、鈴と鼓を懸けて、鬼神に仕えている。いろいろな理由をもった逃亡者がこの村に逃げ込めば、追っ手に彼を引き渡すことはしない。そのため盗賊が多くなっている。

辰韓の老人たちは代々こう言い伝えている。

「昔、中国の秦の代に、労役を避けて韓国に逃げてきたものがいて、馬韓が東部の地域を割(さ)いてその人々に与えた。それが我々である」

辰韓には砦がある。言葉は馬韓とは異なり、国を邦といい、弓を弧(こ)といい、賊を寇といい、酒を杯にそそいですすめることを行觴(こうしょう)という。お互いを呼び合うには徒(と)という。これらは秦人の言葉に似ているところがあり、ただ燕(えん)や斉(せい)の物の名称が伝わったのではないことを示している。

弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊(わい)・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。

『倭国伝』(藤堂明保ほか 講談社学術文庫)より


面白い内容が盛りだくさんです。蘇塗(ソッティ)も出て来ました。

秦から逃げて来た人たちの邑があるのが分かったのも収穫です。

この続きに有名な「倭人伝」が出て来ますよ。

(これ以上は話が逸れるのでまた別の機会に。)

以上、考え併せると、神功皇后軍が新羅攻撃をしたのは「唐突な」事件ではなく、

それまでに多くの交流や戦いの歴史があった事が分かりました。

その中の一つの戦いがたまたま日本書紀に採り上げられたようですね。


https://lunabura.exblog.jp/17931953/ 

2024年4月19日金曜日

斗南藩ゆかりの地

 

【出典】

佐藤 史隆

季刊あおもりのき発行人

https://shimokita-tabi.jp/himitsu/shirabetemita_13


会津若松市の木「アカマツ」とむつ市の花「ハマナス」が碑を包む

1870(明治3)年春、斗南藩の人々約1万7千人は、会津をはじめ東京や越後高田など各地から陸路や海路など複数のルートで藩領にやってきました。廃藩からの復活。石高は低くとも、新天地での再出発という淡い期待もあったかもしれません。しかし、待っていたのは、寒冷で、痩せた土地での厳しい生活でした。

むつ市大湊には斗南藩士上陸の地の記念碑があります。ここは、主に新潟からの海路で来た斗南藩士たちが上陸した場所です。

石碑は、会津鶴ヶ城の石垣に使用されている慶山石で造られ、碑文は会津松平家13代当主松平保定(もりさだ)による揮ごうです。斗南藩の人々のふるさと会津若松市の方角に向けて建てられています。


移住した人々の生活は困窮を極めました。

食料は、政府から米が支給されたものの、ひどい品質のものでした。人々は草や木の根もあさり、飢えをしのごうとしました。冬になると炉に焚火をしても寒風が部屋を吹き抜け、部屋は氷点下10度から20度という寒さ。食べ物も布団も満足なものはなく、弱者である子供や老人が次々と息を引き取ったといいます。


≪柴五郎一家居住跡≫むつ市中央2-32-52


自慢記事で紹介した柴五郎一家の住居跡です。斗南藩士上陸の地から車で約5分のところにあります。むつ運動公園テニスコートのすぐ近くです。2020(令和2)年に建てられた記念碑が、ひっそりと林の緑に包まれていました。

会津で、敵軍に攻め込まれた際に命を絶った祖母、母、姉、妹。家族を失った深い悲しみの中、父・柴佐多蔵と兄嫁・すみ子と共にここにたどり着いた若干12歳の五郎少年は、どんな気持ちで生活したのでしょう。


五郎の父は、犬の肉を食べられなかった五郎に対して、「ここは戦場なるぞ、会津の国辱を雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」と叱ったといいます。気持ちを強く持ち、歯を食いしばって極貧を耐えたことを伝えるエピソードです。


徳玄寺の山門

柴五郎一家居住跡から田名部方面へ車で約10分。むつ市中心街の一角に浄土真宗の徳玄寺があります。ここは、まだ乳幼児だった斗南藩藩主・松平容大の生活の場であり、重臣たちが会議を行った場所です。


斗南藩主だった松平容大の揮ごうによる石碑

徳玄寺から歩いてすぐのところに曹洞宗の円通寺があります。円通寺は、恐山菩提寺の本坊です。(下北のヒミツでは特別編として恐山菩提寺院代の南直哉さんのインタビューを公開していますので、ぜひご覧ください。)

円通寺には、斗南藩の仮館として藩庁が置かれました。これは、重臣たちが、現在のむつ市を拠点にまちづくりをしようと考えていたことを示しています。

また円通寺は、藩主・容大と父・容保がわずかひと月ながら、一緒に過ごした場所です。境内には、1900(明治33)年に建てられた会津藩士の招魂碑があります。容大の揮ごうによるものです。

訪ねた日、白くもやがかかっていた白亜の尻屋埼灯台

斗南藩士たちが下北に移住を開始したのは1870(明治3)年4月からですが、翌年7月には廃藩置県により斗南藩は突然終わりを迎えます。1年あまりの短い期間の中でしたが、それでも彼らは産業基盤、生活基盤を整えようと行動していました。


1876(明治9)年に建設された尻屋埼灯台。第2回深掘り記事でも触れていますが、建設に際し、斗南藩士が深くかかわっています。


明治政府は、国策として国際的な貿易を活発化させることを目的に、日本各地で灯台の整備を進め、尻屋崎も選ばれました。そこには、1871(明治4)年の斗南藩士による熱心な設置運動があったからだといわれています。航行の安全が図られることで、港が活性化し、厳しい生活からの脱却につながると考えたのです。

斗南藩の市街設計計画などを解説する案内板

田名部市街と尻屋を結ぶ県道6号沿いに、斗南藩史跡地があります。

斗南藩は政策として、丘陵地帯を開拓し、街を建設しようとしました。街は、一番町から六番町までの大通りによって屋敷割をし、東西には門を配置、1戸建約30棟、2戸建約80棟、深井戸18か所などが建設されました。現在もこの場所には、井戸跡や土塀跡が残されています。

斗南藩の人々はここを「斗南ヶ丘」と呼び、開拓を推し進めようとしましたが、自然条件が過酷だったことと、廃藩置県による藩の終焉により頓挫しました。


斗南藩史跡地には、秩父宮両殿下が1936(昭和11)年にこの地を訪れたことを記念し、1943(昭和18)年に会津相携会(現・斗南會津会)によって記念碑が建てられています。


小高い丘と墓石を包むように立つ木々が印象的

斗南藩史跡地から車で1分のところに旧斗南藩墳墓の地があります。

小さな丘の上にあり、歩いてのぼると木々が墓碑を守るように生い茂っています。

斗南藩廃止後、藩主・容大は政府の命令により東京に行くことになり田名部を去ります。1873(明治6)年には、米の配給の打ち切り、転業資金の交付があったことから、斗南藩士の多くが下北からふるさと会津や東京などへと転出し、残った斗南藩士は50戸ほどだったそうです。

この斗南藩墳墓の地には、わずかに残った斗南藩の人々の墓碑があり、また会津ゆかりの人々が碑を建立しています。


いつか報われることを信じ、艱難に耐え抜いた斗南藩の人々。藩の廃止後も各地で活躍しており、柴五郎や広沢安任などが特に知られています。その力強い姿は、今を生きる私たちをも勇気づけてくれます。


斗南藩上陸



会津から新しい藩庁が置かれた田名部を目指し、新潟港から新政府借り上げのアメリカ蒸気船ヤンシー号に乗り、日本海回りに海路をとって移住してきた藩士とその家族の一団1,800名が明治3年6月10日に大平浦(現 大湊新町)に上陸しました。斗南藩移住の経路を後世に伝えるため平成2年に建てられた記念碑は、会津鶴ヶ城の石垣と同じ物が使われ、会津若松市を望む方向に設置されています。碑文の揮ごうは会津松平家13代当主松平保定氏によるものです。

 

https://shimokita-tabi.jp/spot/tonami_zyouriku

2024年4月18日木曜日

二つの家紋

 

由緒を物語る二つの家紋


 ご本堂の屋根やお寺のあちこちに足利家の家紋「円に二引きの紋」と近衛家の家紋「近衛牡丹紋」が多く見られます。ご開山が足利尊氏の第四子英仲法俊、第二代が関白近衛道嗣の第三子牧翁性欽であることに拠ります。

 当時の武門と公家の最高位者の子弟を送り込んだことは、創建当時の尋常ならざる事情が伺えます。

塀の5本線は天皇家との縁が深いことを表します
 

【出典】

https://tannbaenntuuji.sakura.ne.jp/syoukai-page/syoukai.html#kamon

2024年4月13日土曜日

丹羽五郎

【出典】

https://seuru.pupu.jp/ezoti/ezoti.htm

 

旧会津藩士で、あった丹羽五郎が瀬棚に拓いた村は、現在「丹羽村」と呼ばれている。

 丹羽五郎は、一千石を録する丹羽本家の分家である丹羽族の嫡男として生まれ、唯一の男子であった五郎は殊の外可愛がられて育てられた。しかし、五郎が12歳の時、京都守護職拝命中、本家の唯一の跡取りである丹羽寛次郎が京都黒谷にて病死、その為、宗家の隠居丹羽喜四郎より「五郎をして宗家を相続せしむべし」との厳達があり、族一家にとっては晴天の霹靂、唯一の男子を奪われた一家は夜を徹して悲嘆に暮れたといい、家を出る時は、あたかも「秘蔵の息子の葬式」のようであったという。こうして、僅か12歳の丹羽五郎は一躍一千石丹羽家の主となった
 戊辰戦争の際、五郎はまだ16歳の若年であった為、藩主喜徳公に扈従して御使番を命じられ、白河口や大寺口の戦況視察をし帰城。実父族は、野尻代官として野尻にあったが、越後口の戦いで長岡城が落城し、長岡より遁れてきた会津兵と避難民が野尻に殺到、丹羽族は農民を諭して避難民の食料調達に奔走したが、中々思うように食料は集まらず飢餓状態は悪化、万策尽きた丹羽族は、身を殺して数千の将兵を救おうと決意し、8月7日遺書を認め自決。農民は代官自害を聞き、家を空にしてまで米穀を差し出したという。
 この悲報を聞いた五郎は、昼夜を問わず野尻に急行し、父の遺骸を駕籠に乗せ、夜を徹して博士峠を越え若松に着き大龍寺に葬ったという。

 戊辰後は東京にて謹慎、謹慎が解かれた後も、五郎は東京に残って学問を続けたいと望み、相馬直登の斡旋で、会津出身の幕臣で淀藩士になっていた増山家に寄寓し勉学を続ける。しかし、一千石を賜っていた丹羽家はドン底の生活を余儀なくされ、五郎は懇意の長州人三輪信吉の斡旋により、背に腹は変えられぬと羅卒となる。しかし、羅卒は当時「人の最も嫌悪、侮蔑する職業」と見られており、会津藩の家老まで勤めた名家の当主としては、プライドが許さず、名前を「田村五郎」と変名して羅卒となった。
 其の後、順調に出世を重ね、西南戦争にも出兵、そして明治19年頃、五郎は曽祖父丹羽能教の影響もあり(丹羽能教は、寛政二年に私財を投じて、新潟の打越と富永の住民を移住させ猪苗代を開拓させ、藩に祭田として献じたのである) 開拓を決意。


 まず、
開拓資金を獲得する為、「いろは辞典」の出版を思いつき、職務の傍ら着手。明治21年1月『漢英対照いろは辞典』『和漢雅俗いろは辞典』の二冊を「高橋五郎」の名で出版。予約制で八千部を発売し相当の利益を上げた。

 明治22年7月札幌に出発した五郎は、当時の北海道長官永山武四郎に面会し来意を告げると「上川の師団用地と、某華族に予約した雨籠を除く外は、何れの地でも貸与しよう」と好意的であった。
 翌23年5月、上京していた永山武四郎を京橋に訪ねた五郎は、永山の随行であった浅羽理事官より『後志国瀬棚郡に「利別原野」という所がある。ここは土地肥沃で気候も上川よりはるかに温順だ。一度行って調べてはどうか』と言われ、再び同年7月、再度北海道入りし浅羽の言う「利別原野」の探索に入る。当時はまだ道の無い原始林で、丸木舟で利別川を遡る外奥地に入る手段が無い。しかし、手ごたえを感じた五郎は帰国した後、趣意書を提出、明治24年4月、再度北海道に渡り29日に正式に利別原野百八十万坪の貸与許可を得て帰京した。

 五郎は、「これまでの数々の殖民事業が失敗してきた原因は、士族又は無頼の遊民を移植した為である」として、曽祖父丹羽能教が創設し新潟より移住させた
猪苗代南土田村「打越・富永」の農民に目をつけ、五郎は同村の大関栄作に依頼し、同村より移住の農民を募集する事とした。
 その結果、12戸(49人)が加わる事となり、明治25年3月1日出発と決定、猪苗代から徒歩で本宮駅へ行き、ここから仙台まで汽車にのり、塩竈で一泊、翌日塩竈より郵船の定期便東京丸に乗船し、函館へ到着、そこから松前丸に乗船し19日瀬棚に到着した。
 そこからまず瀬棚の会津町に到着し、事比羅神社の建物を借受け、数日自炊生活を送り、21日会津町を出発。真駒内迄行き、更に道無き道を歩き、漸く15丁程歩いて貸付許可地域内に入った。その際、巨大な水松樹を発見、この大樹の下に数日間野宿をして、小屋掛と地所の割渡に着手したのである。同年10月の時点で二十余町歩を開拓、粟、稗、黍、馬鈴薯、玉蜀黍、蕎麦、論茄子、胡瓜、南瓜、及び煙草に至るまで充分の収穫を得たが麦の収穫が無かったが、種の不良であり、後日別の種苗店より購入した麦は問題なく収穫出来たという。

 そして、丹羽五郎は入植者の団結、敬神の心を養う為
小祠を祀り玉川神社と称した。
 路すら無かった利別原野に、まず道を作った。また、虫害(薮蚊、虻、ブヨ、蜂等)や、病気、水害であった。医者の居ない丹羽村では一家に病人が出ると大きな打撃であった。利別川や支流の目名川はまだ自然のままで護岸工事などはなく、豪雨が来ると忽ち川は氾濫し、多くの農作物が被害を蒙ったのである。

 また、利別川では鮭や鱒、岩魚は獲れるが、本州の鯉、鮒、鰌は棲んでいない。明治35年、五郎は会津若松に帰省
した折、鶴ヶ城の堀から鯰4匹、猪苗代湖より鮒20匹を買い求め、これを二個のバケツに入れてはるばる丹羽村まで持ち帰ろうとし、汽車の中では水をこぼさないよう細心の注意を払い、これを丹羽村の沼地に放して繁殖させようとした。更に明治39年札幌に行った際に軽川で獲ったという大鰌を見つけ買い求め、邸内の河川に放ち、更に大正3年小樽より鯉を求めて邸内の亀ヶ池に放した。其の甲斐あってか、大正末期には鰌や鮒が大いに繁殖し、村民の食膳に上るようになったが、鯰はその影を認めず、死滅してしまったものと思われた。


 更に、丹羽村の基本財産を造成し、部落の発展、部落民のアンドを企図するのを目的として、学校の経営、子弟の教育、神社の保護、公園の経営、道路の開削、通路の修繕、風致の保護、旧跡の保存、宝庫の設置、倉庫の建設、図書館の設立、貧困者の救済、老人の慰籍、部落の為に尽力した者への表彰等の
公共事業を行う為の「財団法人丹羽部落基本財団」を設立
 更に明治41年には
「丹羽村信用購買組合」を設立。また、養蚕を奨励し、灌漑工事にも着手

 また、明治29年に、
説教場を設け東本願寺派に属し、仮名として曽祖父の諱より「能教寺」と称した、しかし創立30年を経ても、未だ寺号公称も定まらず、正式に寺号公称が「能教寺」と称したのは、丹羽五郎が76歳で往生する7日前の事であった。

 明治25年12戸49人で出発した丹羽村は、同38年には87戸433人と10倍になり
更に同40年には199戸、1042人、同44年には207戸1126人と丹羽村の最盛期を迎えたのである。


瀬棚町


【出典】

https://seuru.pupu.jp/ezoti/ezoti.htm


 丹羽村と現在町を同じくする瀬棚町も、旧会津藩士によって成立した町で、日本海に添う小さな町で、近くに奥尻島があり、また海岸には奇岩「三本杉岩」もある風光明媚な町である。
 この町は、戦前までは「会津町」と称していて、海岸に面した目抜き道路の片側が会津町、道路を挟んで西会津町・南会津町と区画されていたが、戦後の地番変更により西会津は本町三区、南会津は本町五区と改変されてしまい、「会津」の地名は全て消滅してしまった。

 明治3年5月と翌4年5月に会津藩士達がこの瀬棚に移住。
 この時、藩士高橋新右衛門、山田繁蔵、森眞咲、松見八太郎、池沢小藤太、好川喜五右衛門、篠塚啓右衛門、吉田萩右衛門、小林清記、大野湊、長谷川一次郎、結城寅太郎の十二家族が移住し、同じく斉藤俊治は北海道開拓使の権少主典に任じられ、開拓使瀬棚出張所詰としてこれを統御し、移住者のうち高橋新右衛門、森眞咲の両名を移民取締として村政の基礎を作った。

 しかし、当時の瀬棚は寒村でまだまだ未開の地であり、セタナイ川に添う一帯の昼間でも薄暗いような土地であったといい、会津人達は小さな小屋を作って棲み始めたが、殆ど狐狸と同棲するような生活であったという。まだ耕地は開けず、僅かな漁獲で飢えを凌いだと言う。

 明治5年に戸籍法が制定されると、斉藤が主宰して戸籍編成に取り掛かり、会津人高橋新右衛門が戸長、同じく山田繁蔵が副戸長に任命されている。明治13年には瀬棚郡の戸数は127戸(人口661名)となり、この地方は明治三十年代より鰊の漁場として賑わったと言う。
 同じく5年には、斉藤は瀬棚に学校を開く努力を始め、その趣意に賛同した運上屋古畑房五郎の支配人桂為助らの努力で46円50銭が集まり、三本杉に学校を建て、十数名の子弟を収容する事が出来たという。


 下で紹介する丹羽村と同じ北桧山町に属する「若松町」も、会津からの移住者によって成立した町である。
 丹羽村が瀬棚村⇒東瀬棚村⇒北桧山町と属したのに対し、若松は太櫓村に所属していて丹羽村とは別村であり、昭和34年の町村合併により同じ北桧山区となった。

 若松に会津人が入植したのは明治30年で、丹羽村より5年程遅い。
 明治29年7月
若松の高瀬喜左衛門外7名が「会津殖民組合」を設立し、太櫓地区の五百町歩の未開地貸下の許可を受けた。
 8名というのは、高橋喜左衛門、林賢蔵、石山源太郎、福田宜平、石堂留吉、大須賀善吉、五十嵐惣吉、穴沢祐造の8名で、いずれも
当時の若松の錚々たる財界人、名士の集団で、これらの設立者は開拓資金を出した経済人で、もとより自ら移住したわけではなく「不在地主」となったのである。


開拓使

 


【出典】

seuru氏掲載

https://seuru.pupu.jp/ezoti/ezoti.htm

 戊辰戦争後の明治3年、下北と別に与えられたのが、北海道「後志国瀬棚」(現在の久遠郡せたな町)「太櫓」(現在の久遠郡せたな町北檜山区太櫓)「歌棄」(現在の寿都町歌棄町)の三郡と胆振国山越郡(現在の山越郡長万部町)の計四郡。漁業や林業面では魅力的な土地であったが、農業生産方面では斗南以上に期待薄な土地であった。


 しかしそれより早く明治2年兵部省の井上弥吉に引率され北海道移住会津人の第一陣がヤンシー号に乗って余市や小樽に入植した(最終的に北海道へ移住した会津人の戸数は約220戸)この頃、北海道は「開拓使」の支配下にあり、旧会津藩士たちは「兵部省」の支配下にあり、「開拓使」と「兵部省」とは犬猿の仲であった為、開拓使からの援助は期待出来なかった。
 更に明治3年春になると、政府では会津人に対する兵部省の支配権を一切剥奪し、移住者には「扶助等の一切を旧藩に仰ぐべし」と布達。しかし、内地では、旧会津藩士たちが斗南へ移動したのが明治3年の春から閏10月までで、移住すら完了しておらず、また完了していても、当時の斗南藩の財政状況では、北海道移住者にまで援助する事は不可能であった。また、兵部省と犬猿の仲であった開拓使からの援助も期待できず、北海道移住の会津人たちの先は真っ暗だった。
 ここで、北海道移住の会津人たちが頼ったのは「樺太開拓使」であった。樺太開拓使は樺太の警備と開拓の為、開拓使より分離独立した官庁である。(明治4年にはまたは開拓使に合併されている)樺太開拓使が樺太に移住する際に用意したヤンシー号に北海道移住の会津人たちは便乗させてもらって北海道へ移住しているので、樺太開拓使とは無縁ではなかった。小樽滞留の会津人たちは長い時間をかけて樺太転住について話し合い、明治4年正月宗川熊四郎を筆頭に、世帯主186名が連名で開拓使次官黒田清隆に、血判を押した御受書を提出する。
 会津人による樺太転住の請願は、まともな移住希望者が居なかった樺太開拓使にとっても願ってもない事で、明治4年春早々、小樽入舟町にあった開拓使小樽本陣で開拓使監事大山荘太郎と斗南小参事広沢安任らとの間で小樽滞留会津人の受け渡しが行なわれた。
 樺太側の受け入れ態勢が整うまでの間として、移住者たちは一時的に余市に移住させられる事となった。しかし、明治4年8月樺太開拓使は廃止となり、開拓使に合併された為、会津人たちは念願の開拓使の支配下に置かれる事となり、そのまま余市に落ち着く事になる。そして、会津人たちは開拓使から一日一人七合五勺の玄米と一ヶ月金二分を含め衣食住は勿論のこと、農具や種子に至るまで保障される事となった。
 彼等は開拓使から支給される玄米を出来るだけ切り詰め、凶作に備えて建築したばかりの積穀倉に納めたり、金に変えて生活必需品の購入にあてたりした。しかし、春にもなると、漁獲量が多すぎて野良猫さえも顧みなかった為に「猫またぎ」とも云われた鰊を食べ、また秋には余市川に一面を埋めるほどに登ってきた秋鮭を幾らでも食べられたので、一日に一度の食事にすら困っていた斗南藩に比べれば、食糧事情は良かった。(春には鰊は無料でいくらでも手に入り、秋には余市川を鎌で掻き回すと、いくらでも鮭が捕獲できたといわれる)この他、会津人たちは、斗南藩と同じく山菜を良く食した。フキノトウ・ニリンソウ・フクジュソウ・カタクリ等が春になると一斉に芽を出し、冬にビタミン不足から起こり、過去会津藩士の蝦夷地警備でも悩まされた水腫病の治療にも山菜が役に立った。山菜一つとっても斗南藩とは大きく違っていた。

 明治3年、斗南藩は斗南藩領となっている北海道4郡の農業生産性を調査し、明治3年中頃瀬棚・太櫓に五世帯を入植させたり、歌棄郡内には作開村を定めて入植地としたりした。続いて明治4年になると2月には山越郡小古津内に七世帯、長万部村に四世帯を入植。瀬棚・太櫓に続いて八世帯、歌棄郡に二十八世帯を入植させ開拓に当たらせた。明治4年8月にはこれら斗南藩領の会津人たちも開拓使の保護下に置かれる事となる。彼等会津人たちは開拓に意欲を湧かせ従事し、開拓使も彼等の努力を賞して再三救助の手を差し伸べている。入植者たちは開拓使への恩義を無にしないためにも努力を重ねるも、結果的には振るわかなった。

 明治12年頃、余市では以前に開拓使から配られ自宅付近の畑に植えていたリンゴの苗木が数個結実した。(しかし、余市より2年はやく、広沢の運動で誕生した青森県ではリンゴの結実をみていた)開拓使が廃止された明治15年にはリンゴ作りの基礎が出来上がり、明治17年ごろには、余市リンゴは会津人の間で完全に定着していたが、商品化の見通しが立って、彼等の生活に潤いを与えるようになるのは明治20年代に入ってからのことである。



■琴似屯田兵
 政府は北方警備と士族授産による開墾を目的に、明治8年以降大量の士族を募り屯田兵の制度を導入。
 明治8年5月、まず宮城・青森・酒田の三県士族198戸、965人を琴似(現在の札幌市)に入村させたのを始め、翌年より明治23年迄に2900戸(14000人)の士族が屯田兵として移住した。
 ここでいう「青森」というのは、会津藩より移住した斗南藩士の事で、明治8年5月に琴似に56戸が第一陣として入村、翌9年5月には斗南以外の旧会津藩士53戸が山鼻兵村に入村したのである。



■琴似村(明治8年5月入村)
遠藤登喜蔵宮本三八郎弓田代三郎三沢 毅井上悌二
佐藤一蔵山田貞介林源次郎竹内清之助岩田栄吾
佐藤只雄柏谷 始猪狩量三我孫子倫彦新国幸次郎
斉藤郡大輔伊藤清司小松孫八岡林吉太島倉庄八
相川清次平石吉次宮原隆太郎長尾市四郎花泉恒介
一瀬忠吾阿妻太郎西川佑一郎武川綱之助工藤八郎
県 左門恒見幾五郎赤井捨八二瓶只四郎大竹己代松
斉藤寅次郎有瀬千代次郎太田資忠神指元太郎山口伊佐吾
丹生谷友衛栗原市次郎村松貞之進町野彦太郎吉田幸太郎
永峯忠四郎簗瀬 栄笹原民弥大熊忠之助大関代次郎
大関雄孟横山四平中村家起斉藤久米蔵村上弥太郎
■山鼻兵村(明治9年5月入村)
鈴木元治熊谷源七郎栃木与作千里藤太太田源太郎
樋口孝麿角猪三郎田中豊治合田忠義大場小右衛門
矢村健蔵内田孝之進日向代吉大嶋八郎黒河内十太夫
伊東左膳服部四郎鈴木元五郎竹田藤蔵柳田 毅
吉川良吉福田喜代治笹内次郎永峰松太郎沢野豊助
好川喜代美神田直之助田中甚之丞荒木進次郎松本武弥
樋口八三郎渥美直茂鯨岡勝美新妻冨太郎小山銀次郎
村松勝冶笹沼寅五郎加藤安治佐々木久米吉市川勝三郎
横地源八猪狩織之進太田房吉渡部勝太郎福井重吉
大堀岩太郎林源三郎佐藤恒治安藤粂之進小桧山勝美
渡部松次郎熊谷留五郎佐々木留之助