日本の弥生時代、現在の慶州市に斯蘆国(サロ・シロ)があり、6つの村があった。
そこに赫居世(ヒョッコセ)たちが北の方から動乱を逃れて鉄器を持ってやって来た。
紀元前57年のことだ。
農耕社会の中に優れた鉄器を持って来たことから、赫居世がその支配者になったが、彼はその時13歳。
支配者とは6村の連合社会のリーダー的な形態だったようだ。
それはこの時代は支配者が世襲でなく、村間の持ち回りだった事から分かるという。
その称号は居西干・次次雄(コソガン・チャチャウン)と言った。
「居西干」とは君長、「次次雄」とは巫(シャーマン)を意味する事から、
支配者は政治を司り、かつシャーマンでもあった事になる。
紀元前37年。赫居世(ヒョッコセ)は慶州平野に京城を築き、金城と名付けた。
彼の重臣に瓢公(ひょうこう)がいた。彼は倭人だった。その役職名は大輔。
この時代に倭人が侵攻して来たが、赫居世の説得に応じて倭軍は撤退した。
(赫居世も倭人と言う説があった。)
西暦101年。婆裟尼師今(バサ・イサグム)が月城を築いて居城を金城から月城に移す。
(この王が日本書紀で神功皇后軍に降伏した波沙寢錦(ハサムキム)という説がある。
そうすると100年の誤差が出て来る。)
西暦100年以降、国力をつけた斯蘆国は周囲の国々に侵攻して拡大して行く。
さて、倭人の伝承を見てみましょう。
稲飯命
『新撰姓氏録』では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとする。
アメノヒボコ (ウィキペディアより)
アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。
(新羅王族であった昔氏は、倭の但馬地域から新羅に渡り王となったとされており、新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている。)
大矢田宿禰 おおやだのすくね (コトバンクより)
仲哀天皇9年。神功皇后の新羅遠征にしたがう。新羅にとどまり、鎮守将軍となる。
国王・猶搨(ゆうとう)の娘と結婚し、佐久命と武義命をもうけた。
(王の名前がハサムキムではない事に注目)
三人ほど採り挙げて見ました。後世の創作が加わっているとしても、
新羅の王族に倭人の血が入っている可能性が出てきました。
新羅に対する倭国のこだわりの原因はこれが要因の一つかも。
『古事記の神々』で訳したアカル姫が新羅の王子アメノヒボコと結婚して愛想を尽かして、
さっさと倭国に帰って来たのもそれほど特異な話ではないんですね。
人々の暮らし
さて、彼らはどんな暮らしをしていたのでしょうか。
これと前後する時代の記録が「『三国志』魏書・韓伝」にあるので
その一部を抜粋してみましょう。
韓の人々の風俗は、法律規則は少なく、諸国の都に主帥(しゅすい)がいるけれども、村落は入り混じっていてなかなか統括できない。
人々の間に跪拝の礼はない。住居として、屋根を草で葺いた土の家をつくるが、その形は中国のはかのようである。家の戸口は上にあって家族は全部その中で暮らしている。年齢や男女による区別はない。
死んだ者を葬るときには、墓には槨はあるが棺はない。牛馬を乗用に使う事は知らない。牛馬はみな副葬に使用してしまう。
珠玉を財宝とし、衣服に縫いつけて飾りとしたり、首飾りとしたり、耳飾りとしたりする。金や銀や縫いとりのある綾絹などを珍重することはない。
韓の人々は性格は強く勇敢で、頭に何も被らずまげを見せていることろは、狼火(のろし)を扱う兵のようである。そして麻布の衣服を着、足に底の厚い革ぞうりを履いている。
毎年5月には作物の種を播き終え、そこで鬼神を祭る。多数が集まって歌い踊り酒を飲んで昼夜休まず遊ぶ。その踊りは、数十人が一緒に起ち上がってお互いに調子をあわせ、地を踏んで高く低く、手足はそれに応じて動き、リズムは中国の鐸舞(たくぶ)のようである。
10月に収穫が終わったときも、またこのようにする。鬼神を信じ、国の都ごとに一人を立てて天神を祭る司祭とし、天君と名づけている。
また国ごとにそれぞれ、蘇塗(そと)と呼ばれる特別な村がある。そこには大木を立て、鈴と鼓を懸けて、鬼神に仕えている。いろいろな理由をもった逃亡者がこの村に逃げ込めば、追っ手に彼を引き渡すことはしない。そのため盗賊が多くなっている。
辰韓の老人たちは代々こう言い伝えている。
「昔、中国の秦の代に、労役を避けて韓国に逃げてきたものがいて、馬韓が東部の地域を割(さ)いてその人々に与えた。それが我々である」
辰韓には砦がある。言葉は馬韓とは異なり、国を邦といい、弓を弧(こ)といい、賊を寇といい、酒を杯にそそいですすめることを行觴(こうしょう)という。お互いを呼び合うには徒(と)という。これらは秦人の言葉に似ているところがあり、ただ燕(えん)や斉(せい)の物の名称が伝わったのではないことを示している。
弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊(わい)・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。
『倭国伝』(藤堂明保ほか 講談社学術文庫)より
面白い内容が盛りだくさんです。蘇塗(ソッティ)も出て来ました。
秦から逃げて来た人たちの邑があるのが分かったのも収穫です。
この続きに有名な「倭人伝」が出て来ますよ。
(これ以上は話が逸れるのでまた別の機会に。)
以上、考え併せると、神功皇后軍が新羅攻撃をしたのは「唐突な」事件ではなく、
それまでに多くの交流や戦いの歴史があった事が分かりました。
その中の一つの戦いがたまたま日本書紀に採り上げられたようですね。
https://lunabura.exblog.jp/17931953/