2024年4月13日土曜日

瀬棚町


【出典】

https://seuru.pupu.jp/ezoti/ezoti.htm


 丹羽村と現在町を同じくする瀬棚町も、旧会津藩士によって成立した町で、日本海に添う小さな町で、近くに奥尻島があり、また海岸には奇岩「三本杉岩」もある風光明媚な町である。
 この町は、戦前までは「会津町」と称していて、海岸に面した目抜き道路の片側が会津町、道路を挟んで西会津町・南会津町と区画されていたが、戦後の地番変更により西会津は本町三区、南会津は本町五区と改変されてしまい、「会津」の地名は全て消滅してしまった。

 明治3年5月と翌4年5月に会津藩士達がこの瀬棚に移住。
 この時、藩士高橋新右衛門、山田繁蔵、森眞咲、松見八太郎、池沢小藤太、好川喜五右衛門、篠塚啓右衛門、吉田萩右衛門、小林清記、大野湊、長谷川一次郎、結城寅太郎の十二家族が移住し、同じく斉藤俊治は北海道開拓使の権少主典に任じられ、開拓使瀬棚出張所詰としてこれを統御し、移住者のうち高橋新右衛門、森眞咲の両名を移民取締として村政の基礎を作った。

 しかし、当時の瀬棚は寒村でまだまだ未開の地であり、セタナイ川に添う一帯の昼間でも薄暗いような土地であったといい、会津人達は小さな小屋を作って棲み始めたが、殆ど狐狸と同棲するような生活であったという。まだ耕地は開けず、僅かな漁獲で飢えを凌いだと言う。

 明治5年に戸籍法が制定されると、斉藤が主宰して戸籍編成に取り掛かり、会津人高橋新右衛門が戸長、同じく山田繁蔵が副戸長に任命されている。明治13年には瀬棚郡の戸数は127戸(人口661名)となり、この地方は明治三十年代より鰊の漁場として賑わったと言う。
 同じく5年には、斉藤は瀬棚に学校を開く努力を始め、その趣意に賛同した運上屋古畑房五郎の支配人桂為助らの努力で46円50銭が集まり、三本杉に学校を建て、十数名の子弟を収容する事が出来たという。


 下で紹介する丹羽村と同じ北桧山町に属する「若松町」も、会津からの移住者によって成立した町である。
 丹羽村が瀬棚村⇒東瀬棚村⇒北桧山町と属したのに対し、若松は太櫓村に所属していて丹羽村とは別村であり、昭和34年の町村合併により同じ北桧山区となった。

 若松に会津人が入植したのは明治30年で、丹羽村より5年程遅い。
 明治29年7月
若松の高瀬喜左衛門外7名が「会津殖民組合」を設立し、太櫓地区の五百町歩の未開地貸下の許可を受けた。
 8名というのは、高橋喜左衛門、林賢蔵、石山源太郎、福田宜平、石堂留吉、大須賀善吉、五十嵐惣吉、穴沢祐造の8名で、いずれも
当時の若松の錚々たる財界人、名士の集団で、これらの設立者は開拓資金を出した経済人で、もとより自ら移住したわけではなく「不在地主」となったのである。


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