出典
会津の著名人
http://www.aizue.net/siryou/tyomeijin-i.html
元和2(1617)年10月~元禄12(1699)年4月13日 (83歳)
組頭/井深監物重次の子として信州高遠で誕生。
通称:半弥、茂右衛門。 号:常敬。
久彦霊社 寛永9(1632)年、将軍/德川家光が父/台徳院(秀忠)霊廟を増上寺に建立する普請を保科正之公に命じた際、国元から呼び寄せられ自らも工事に加わり陣頭指揮をしている。
その後、正之公の山形藩、会津藩移封に従い、会津/井深家の祖 (家老六家の1つ) となる。
万治2(1659)年、家老職に就く。
保科正之公から正容公まで31年にわたり仕え、実直な人柄は上下ともに信頼が篤かった。
土津神社の境内に御末社「久彦霊社」として祀られている (墓は善龍寺)。
元禄2(1689)年、隠居願いを出し、職を辞す。
嫡子/茂右衛門常方が本家を継ぎ、次男/三郎左衛門重喬、3男/清太夫重堅、4男/七野右衛門重旧がそれぞれ分家として幕末まで続く。
子孫として、白虎隊/井深茂太郎や、石山家の養子となり飯盛山で自刃した虎之助、明治学院/総理の井深梶之助、ナイチンゲール記章を受章した井深八重、ソニーの創立者/井深大などがいる。
元々の祖先は松本城主/小笠原家の家臣として松本岡田/井深城 (長野県松本市岡田伊深) の城主であったが、小笠原長時の時代に信玄に攻められ逃亡したため、当主/井深茂右衛門重吉は保科正俊の配下に入る。
保科家の嫡子/正光は武田勝頼の人質として新府 (韮崎) にいたが、武田家滅亡の際に新府から正光を救い出した忠臣が重吉である。
その後、重吉は、正光の側近として仕える。
寛永13(1636)年、重吉が死去 (73歳)。
重吉の嫡男が井深監物重次で、重光は孫にあたる。
慶安4(1651)年、井深監物重次が死去。
なお、小笠原長時は蘆名盛氏公の庇護を受け会津で没している。
“ご縁”とは不思議なものである。
以降、幕末まで家老九家として歴代家老4名が務める。
重光 → 常方 → 尹常 → 武常 → 重暠 → 重孝
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