「くぐる鳥居は鬼ばかり」出典
https://yuki.liblo.jp/archives/29099644.html
三戸郡五戸町天満後。参道入口は五戸町沢。資料では「下大町の天満宮」と紹介されていますが、タイトルは社殿の所在地の住所にしておきました。明治7年の陸奥国誌によりますと沢町は「家は二十三軒あって左右山高く、昔は人家もなく渓流道に溢れ、橋桟も危険で往来も希なりし所なり。渓流埋て道を作って今の如くになり。橋瓜より西に向って舘の東に至る曲折しを登る。この坂道は左右みな石あり。蛤蜊の類多し。また、小枝の石に化せしも交れり。」とあります。坂については『』の記事で紹介しております。この付近の地図を見ると五戸町沢から見て南方に堀合・下大工、西方に五戸川、東方に下モ沢向、北方に天満・天満後とあります。天満という地名は天満宮ができてから生まれた地名です。天満の大地からの展望は格別であり、崖下は旧陸羽街道で明治9年と14年に明治天皇が通りました。天満宮入口には天皇御巡幸の頃に旧会津藩二番家老内藤信節が池ノ堂の開墾を諦めて漢学塾を開設しました。明治末期、同町出身の鳥谷部春汀(本名銑太郎=雑誌「太陽」編集長)の案内でこの地を訪れた大町桂月は見事な眺めに感嘆して景勝地と折り紙をつけました。天満から見える川原町の民家には次のような逸話があります。享保年間、鈴木新兵衛という百姓がおり、五戸村の水帳を預けられていました。ある夜のこと、盗賊が侵入し、新兵衛の家の入口にひを放ちます。逃げられなくなった新兵衛は水帳を土中に埋めて、その上に突っ伏して亡くなりましたが水帳は完全な状態で守られました。時の五戸代官は新兵衛の行為を聞き及び追賞しました。この話を聞いた桂月や画家の平福百穂は「土魂あるものというべきかな」と書き残しているそうです。大正14年9月には与謝野鉄幹・晶子夫妻が奥羽遊草の折、大竹保順高雲寺住職宅に宿泊し、天満の台地にて次のように詠じています。「坂多き五戸のまちの夕月夜ひとつの坂に踊る声する 鉄幹」
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