2024年4月8日月曜日

会津井深家

 室町時代初期に信濃国で起きた大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁ー御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。大塔合戦敗戦後は小笠原氏の本拠である現在の松本市近くの岡田伊深にある伊深城山を拠点として戦国時代をむかえた。武田信玄の信濃侵攻により主家の小笠原氏が出奔したため隣接地の武田側領主である大日方氏に仲介を依頼して武田氏に従属した。

井深家は会津九家と称された藩内の名門である。戦国時代末期、井深茂右衛門重吉は武田勝頼の人質となっていた保科正光の救出に功を挙げるなど、保科家の重臣であった。その子茂右衛門重光は保科正之の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっている。他に許されたのは山崎闇斎吉川惟足服部安休森蘭丸の孫)など7名である[2]。重光の男子3人が分家し、幕末には7家に分かれ、井深本家は当主・茂右衛門重常が家禄1,000石で若年寄を務めた。

重光の次男・三郎左衛門重喬家の幕末の当主は日新館の武講頭取であった井深数馬(200石)で、次男・虎之助は石山家の養子となり、白虎隊士として自刃。長男の井深基は愛知県西加茂郡碧海郡の郡長などを務め、曽孫に井深大がいる。

宅右衛門の井深家は三男・清大夫重堅に始まり、宅右衛門の子が井深梶之助井深彦三郎である。

一族には白虎隊士として自刃した井深茂太郎戊辰戦争後に民政局員を斬殺し(束松事件)獄死した井深元治らがいる。



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