松本「岡田井深城址」(8月10日訪問)
井深家について深堀
井深氏は、室町時代初期、小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り政務に携わる
松本小笠原氏の本城(松本城)の近くの岡田井深城を拠点とする
武田信玄の信濃攻勢により、武田氏に従属
戦国時代末期、井深茂右衛門重吉は、武田勝頼に人質になっていた「保科正之」を救出
後に保科正之の会津入りに家老として同行
・「井深梶之助(いぶかかじのすけ)」(1854年~1940年)
会津藩士井深宅右衛門の長男 15歳で白虎隊少年組として戦う
1877年、梶之介はヘボンの「東京一致神学校」の第一期生
日本の牧師 明治学院2代目総理となる
・「井深八重」
井深梶之介は伯父 ハンセン病患者の救済に当った
その他、弟井深彦三郎は衆議院議員、次男は陸軍軍医学校校長
ソニー創業者の一人「井深大(まさる)は親戚 長女は「荒川文六(九州帝国大学総長)に嫁ぐ
長野県の松本市、伊那市と関係が深いため、井深城跡へ向かう
中央高速度道路 安曇野、大町、白馬方面で降りる
犀川を渡る
正面は、JR田沢駅
山道を進む
上田に通じる道
井深城跡の看板を見つける
説明 平成24年3月 松本市教育委員会
井深城は、林城の支城で、井深集落の背後の山の頂に位置
築城は、室町時代中期から戦国時代と推定され、城主は「跡庁氏」とされ、
その後「赤沢氏」に滅ぼされ、赤沢氏の所有となったと伝えられている
井深氏のことは書かれていない
松本方面
若宮八幡社
石塔
若宮八幡社 平成18年 井深若宮八幡社氏子
八幡社は武門の神として、後庁氏によって社を祀ったが、天文19年(1550年)の井深城落城後は、井深村の氏神として、生活の安全と五穀豊穣を願い、村人の管理となって現在に至っている
参道
拝殿
脇の遊歩道を進み、井深城跡に向かう
古い小さな祠
森が深く下は見えない
紫陽花のような花
かなりの急斜面を進む
歩道は整備されている
急に笹が現れる
熊やイノシシが出てくのではないかと、奇声を発しながら歩く
標識
井深城跡まで219m
石垣が見えてくる
人工的につくられた形跡だ
苔むした石
土塁のような盛り土
これも完全に人工物
石垣が見える
古い石垣
上の歩道は後からつけられらもの
石が積んである
頂上 ここが本丸
松本市特別史跡 平成18年 松本市
井深集落との標高差200m、本丸からの眺めは素晴らしく木曽谷の入口まで望める
北側には土塁が残り、その背後に巨大な空堀が、北からの侵入を拒む堅固なつくりを見せる
治承4年(1180年)に岡田冠者源親義が築城したと伝えられるが、実際は室町中期、「井深氏」によるものと推定される
安曇や上田方面の出口を守る、松本北部の重要な山城であった
石碑
空堀が見える
ベンチはあるが、木が茂っていて何も見えない
こんな花
岡田地区の景色
登りは200mの標高差があるため、ゆっくり歩いて30分
下りは15分ほどで降りてきた
1時間ほどハイキングコース
ソニーの創始者井深大は、井深家の調査を部下に命じて、本を出版している(社外秘)
教育委員会と松本市との説明は若干異なるが、
松本市は、井深家の居城であることを認めているため、井深家は何か石碑を建ててほしい
近くの博物館へ向かう
https://ameblo.jp/shirocasi/entry-12398239811.html
https://ameblo.jp/shirocasi/entry-12398239811.html
0 件のコメント:
コメントを投稿