【出典】
https://seuru.pupu.jp/ezoti/ezoti.htm
旧会津藩士で、あった丹羽五郎が瀬棚に拓いた村は、現在「丹羽村」と呼ばれている。
丹羽五郎は、一千石を録する丹羽本家の分家である丹羽族の嫡男として生まれ、唯一の男子であった五郎は殊の外可愛がられて育てられた。しかし、五郎が12歳の時、京都守護職拝命中、本家の唯一の跡取りである丹羽寛次郎が京都黒谷にて病死、その為、宗家の隠居丹羽喜四郎より「五郎をして宗家を相続せしむべし」との厳達があり、族一家にとっては晴天の霹靂、唯一の男子を奪われた一家は夜を徹して悲嘆に暮れたといい、家を出る時は、あたかも「秘蔵の息子の葬式」のようであったという。こうして、僅か12歳の丹羽五郎は一躍一千石丹羽家の主となった。戊辰戦争の際、五郎はまだ16歳の若年であった為、藩主喜徳公に扈従して御使番を命じられ、白河口や大寺口の戦況視察をし帰城。実父族は、野尻代官として野尻にあったが、越後口の戦いで長岡城が落城し、長岡より遁れてきた会津兵と避難民が野尻に殺到、丹羽族は農民を諭して避難民の食料調達に奔走したが、中々思うように食料は集まらず飢餓状態は悪化、万策尽きた丹羽族は、身を殺して数千の将兵を救おうと決意し、8月7日遺書を認め自決。農民は代官自害を聞き、家を空にしてまで米穀を差し出したという。
この悲報を聞いた五郎は、昼夜を問わず野尻に急行し、父の遺骸を駕籠に乗せ、夜を徹して博士峠を越え若松に着き大龍寺に葬ったという。
戊辰後は東京にて謹慎、謹慎が解かれた後も、五郎は東京に残って学問を続けたいと望み、相馬直登の斡旋で、会津出身の幕臣で淀藩士になっていた増山家に寄寓し勉学を続ける。しかし、一千石を賜っていた丹羽家はドン底の生活を余儀なくされ、五郎は懇意の長州人三輪信吉の斡旋により、背に腹は変えられぬと羅卒となる。しかし、羅卒は当時「人の最も嫌悪、侮蔑する職業」と見られており、会津藩の家老まで勤めた名家の当主としては、プライドが許さず、名前を「田村五郎」と変名して羅卒となった。
其の後、順調に出世を重ね、西南戦争にも出兵、そして明治19年頃、五郎は曽祖父丹羽能教の影響もあり(丹羽能教は、寛政二年に私財を投じて、新潟の打越と富永の住民を移住させ猪苗代を開拓させ、藩に祭田として献じたのである) 開拓を決意。
まず、開拓資金を獲得する為、「いろは辞典」の出版を思いつき、職務の傍ら着手。明治21年1月『漢英対照いろは辞典』『和漢雅俗いろは辞典』の二冊を「高橋五郎」の名で出版。予約制で八千部を発売し相当の利益を上げた。
明治22年7月札幌に出発した五郎は、当時の北海道長官永山武四郎に面会し来意を告げると「上川の師団用地と、某華族に予約した雨籠を除く外は、何れの地でも貸与しよう」と好意的であった。
翌23年5月、上京していた永山武四郎を京橋に訪ねた五郎は、永山の随行であった浅羽理事官より『後志国瀬棚郡に「利別原野」という所がある。ここは土地肥沃で気候も上川よりはるかに温順だ。一度行って調べてはどうか』と言われ、再び同年7月、再度北海道入りし浅羽の言う「利別原野」の探索に入る。当時はまだ道の無い原始林で、丸木舟で利別川を遡る外奥地に入る手段が無い。しかし、手ごたえを感じた五郎は帰国した後、趣意書を提出、明治24年4月、再度北海道に渡り29日に正式に利別原野百八十万坪の貸与許可を得て帰京した。
五郎は、「これまでの数々の殖民事業が失敗してきた原因は、士族又は無頼の遊民を移植した為である」として、曽祖父丹羽能教が創設し新潟より移住させた猪苗代南土田村「打越・富永」の農民に目をつけ、五郎は同村の大関栄作に依頼し、同村より移住の農民を募集する事とした。
その結果、12戸(49人)が加わる事となり、明治25年3月1日出発と決定、猪苗代から徒歩で本宮駅へ行き、ここから仙台まで汽車にのり、塩竈で一泊、翌日塩竈より郵船の定期便東京丸に乗船し、函館へ到着、そこから松前丸に乗船し19日瀬棚に到着した。
そこからまず瀬棚の会津町に到着し、事比羅神社の建物を借受け、数日自炊生活を送り、21日会津町を出発。真駒内迄行き、更に道無き道を歩き、漸く15丁程歩いて貸付許可地域内に入った。その際、巨大な水松樹を発見、この大樹の下に数日間野宿をして、小屋掛と地所の割渡に着手したのである。同年10月の時点で二十余町歩を開拓、粟、稗、黍、馬鈴薯、玉蜀黍、蕎麦、論茄子、胡瓜、南瓜、及び煙草に至るまで充分の収穫を得たが麦の収穫が無かったが、種の不良であり、後日別の種苗店より購入した麦は問題なく収穫出来たという。
そして、丹羽五郎は入植者の団結、敬神の心を養う為小祠を祀り玉川神社と称した。
路すら無かった利別原野に、まず道を作った。また、虫害(薮蚊、虻、ブヨ、蜂等)や、病気、水害であった。医者の居ない丹羽村では一家に病人が出ると大きな打撃であった。利別川や支流の目名川はまだ自然のままで護岸工事などはなく、豪雨が来ると忽ち川は氾濫し、多くの農作物が被害を蒙ったのである。
また、利別川では鮭や鱒、岩魚は獲れるが、本州の鯉、鮒、鰌は棲んでいない。明治35年、五郎は会津若松に帰省した折、鶴ヶ城の堀から鯰4匹、猪苗代湖より鮒20匹を買い求め、これを二個のバケツに入れてはるばる丹羽村まで持ち帰ろうとし、汽車の中では水をこぼさないよう細心の注意を払い、これを丹羽村の沼地に放して繁殖させようとした。更に明治39年札幌に行った際に軽川で獲ったという大鰌を見つけ買い求め、邸内の河川に放ち、更に大正3年小樽より鯉を求めて邸内の亀ヶ池に放した。其の甲斐あってか、大正末期には鰌や鮒が大いに繁殖し、村民の食膳に上るようになったが、鯰はその影を認めず、死滅してしまったものと思われた。
更に、丹羽村の基本財産を造成し、部落の発展、部落民のアンドを企図するのを目的として、学校の経営、子弟の教育、神社の保護、公園の経営、道路の開削、通路の修繕、風致の保護、旧跡の保存、宝庫の設置、倉庫の建設、図書館の設立、貧困者の救済、老人の慰籍、部落の為に尽力した者への表彰等の公共事業を行う為の「財団法人丹羽部落基本財団」を設立。
更に明治41年には「丹羽村信用購買組合」を設立。また、養蚕を奨励し、灌漑工事にも着手。
また、明治29年に、説教場を設け東本願寺派に属し、仮名として曽祖父の諱より「能教寺」と称した、しかし創立30年を経ても、未だ寺号公称も定まらず、正式に寺号公称が「能教寺」と称したのは、丹羽五郎が76歳で往生する7日前の事であった。
明治25年12戸49人で出発した丹羽村は、同38年には87戸433人と10倍になり、更に同40年には199戸、1042人、同44年には207戸1126人と丹羽村の最盛期を迎えたのである。
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