2024年4月13日土曜日

蝦夷地警備

 


 
ロシアの南下によって、しばしば脅かされてきた蝦夷地に対する対策の一つとして、文化4(1807)年5月に幕府は津軽・南部・秋田・庄内の4藩に蝦夷地防備の出兵を命じ、4藩では計3000名の兵を出した。

 更に幕府は翌5年には津軽・南部の2藩を残し、庄内・秋田の替わりに仙台藩・会津藩に出兵を命じた。
 仙台藩は国後・択捉・箱館を2000名で、会津藩は松前・宗谷・利尻・樺太を1500名で守備した。
 (会津藩の、この唐太出兵は幕府に内願したものとも云われる

 会津藩では、文化4年11月に蝦夷地警備を命じられ早速家老内藤源助信周を軍将に任じ、その下の御先手陣将に同じく家老北原采女光裕を置き5隊を派遣する事とし、翌文化5(1808)年正月9日には軍監丹羽織之丞と番頭日向三郎右衛門【唐太】、10日に番頭梶原平馬景保【利尻】、11日に陣将北原采女【唐太】、12日に軍将内藤源助信周【宗谷】、少し遅れて2月5日番頭三宅孫兵衛忠良【松前】が会津を出発。総勢1558名(人夫、駄馬等を含めると約5000名)
 往路は猪苗代→二本松→福島→仙台→盛岡→青森経由、三厩に着き、船待ちで一ヶ月かかり、松前に渡った。3月29日松前着、4月13日松前出発、17日宗谷着。更に梶原隊は約70日駐留後6月29日に宗谷を出発し翌閏6月1日利尻島に移陣した。

 会津藩の唐太駐留は106日間に及んだ。
 しかし、幸いにもロシア船は現れず、7月帰国命令が出される。
 文化5年7月7日、唐太に駐留していた会津藩士は6隻の船に分乗して楠渓を出港、松前に帰還しようとするも暴風雨に見舞われ遭難。
船団は散り散りになって漂流した。(1・祥瑞丸/組頭北原軍大夫・大岩鉄太郎・物頭白井織之進等計133名  2・天社丸/日向三郎右衛門・御目付有賀権左衛門・高木小十郎等計104名  3・正徳丸/陣将北原采女・大岩嘉蔵等計126名  4・観勢丸/組頭西川治左衛門等計93名  5・大黒丸/組頭田中鉄次郎・多賀谷左膳等計63名  6・幾吉丸/組頭篠田七郎兵衛等計86名)

 また、この遭難以外にも多くの病死者を出していて、多くは北方の風土病「水腫病」にかかり(便が渋り足の甲から浮腫を生じ、次第に腰に及んで水膨れとなる。顔もむくみ、腹が鼓のようにふくれ、苦痛が甚だしく、遂に死亡する)という病である。病死者は全部で51名にも及んだ。


https://seuru.pupu.jp/ezoti/ezoti.htm

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