宮崎十三八さんの本を読んでいる。なかに井深氏の姓名は、
今の電話帳では会津で1軒もみられないとあった。
東京では井深氏の墓碑をよくみかける。
三浦半島の三浦市城山に会津藩士の墓がある。三浦市の説明に
「二百数十年に及ぶ間、鎖国を続けていた徳川幕府は、
黒船の来航でついに泰平の夢破れ、江戸の安全をはかるため、
当時の雄藩のひとつであった会津藩に命じて文化八年(1811)
東京湾の最先端である三崎のここ城山に陣屋を設け、さらに城ヶ島安房崎に
大筒三門とのろし一門を据え防備にあたらせました」とある。
東京湾防備に携わった会津藩士とその家族の墓が三浦半島にはかなり残っている。
この会津藩士墓地に卓然院殿一方宗績居士という墓碑がある。
この卓然院は、会津藩士禄五百石の井深傳次郎重賢と云い、
先祖は信州高遠保科家臣井深茂右衛門重吉。
重吉の長男重次の嫡子が会津藩に仕えた家老の井深重光、
重光の次男重喬の四代目が井深重賢で東京湾警備の三浦で
亡くなっている。
重光の嫡子は茂右衛門常方、次男が三郎左衛門重喬、三男が清太夫重堅、
四男が七野右衛門重旧。重光三男重堅の六代重義の妻は西郷頼母近悳妹八代で
子供に明治学院第二代目総理の井深梶之助、代議士になった井深彦三郎がいる。
彦三郎の娘八重は山本覚馬妹新島八重に預けられ京都同志社女学校卒業、
のちにナイチンゲール記章を受章した。
重吉次男光真の子孫、井深数馬の二男に白虎隊飯盛山で自刃した石山虎之助、
数馬の曾孫にソニー創立者の井深大がいる。
会津若松小田山善龍寺に会津井深氏の祖、重光父重次の墓碑がある。
また重光次男重喬の四代井深重郎左衛門重矩の墓碑は東京長谷寺、
井深梶之助・井深彦三郎の墓碑は青山霊園にあります。
今の電話帳では会津で1軒もみられないとあった。
東京では井深氏の墓碑をよくみかける。
三浦半島の三浦市城山に会津藩士の墓がある。三浦市の説明に
「二百数十年に及ぶ間、鎖国を続けていた徳川幕府は、
黒船の来航でついに泰平の夢破れ、江戸の安全をはかるため、
当時の雄藩のひとつであった会津藩に命じて文化八年(1811)
東京湾の最先端である三崎のここ城山に陣屋を設け、さらに城ヶ島安房崎に
大筒三門とのろし一門を据え防備にあたらせました」とある。
東京湾防備に携わった会津藩士とその家族の墓が三浦半島にはかなり残っている。
この会津藩士墓地に卓然院殿一方宗績居士という墓碑がある。
この卓然院は、会津藩士禄五百石の井深傳次郎重賢と云い、
先祖は信州高遠保科家臣井深茂右衛門重吉。
重吉の長男重次の嫡子が会津藩に仕えた家老の井深重光、
重光の次男重喬の四代目が井深重賢で東京湾警備の三浦で
亡くなっている。
重光の嫡子は茂右衛門常方、次男が三郎左衛門重喬、三男が清太夫重堅、
四男が七野右衛門重旧。重光三男重堅の六代重義の妻は西郷頼母近悳妹八代で
子供に明治学院第二代目総理の井深梶之助、代議士になった井深彦三郎がいる。
彦三郎の娘八重は山本覚馬妹新島八重に預けられ京都同志社女学校卒業、
のちにナイチンゲール記章を受章した。
重吉次男光真の子孫、井深数馬の二男に白虎隊飯盛山で自刃した石山虎之助、
数馬の曾孫にソニー創立者の井深大がいる。
会津若松小田山善龍寺に会津井深氏の祖、重光父重次の墓碑がある。
また重光次男重喬の四代井深重郎左衛門重矩の墓碑は東京長谷寺、
井深梶之助・井深彦三郎の墓碑は青山霊園にあります。
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