今回ご案内するのは、長野県の諏訪大社です。あの、勇壮な「御柱祭」で知られる有名な神社で、そのご由緒は、日本でも最古級といわれるほどです。古代の日本は、近畿地方が中心なのではと思いがちですが、実は、長野県の山の中にも、日本という国ができていく過程に深くかかわる歴史があります。
諏訪大社の神様は、あの大国主命の息子さんです。大国主命と言えば、島根県の出雲大社の主として有名ですが、その息子さんが、なぜ、こんな遠く離れた信州までやってきたのか。それには深い深いわけがあります。
お話は、神の世の昔に遡ります。天照大神は天の上の高天原というところにおられましたが、葦原の中つ国(あしわらのなかつくに、高天原と黄泉の国の間にある国、つまり、この世)では、天照様の弟のスサノオの子孫であるオオクニヌシさんが熱心に国造りを進め、繁栄していました。
それを見た天照さんは、「あの国は、わたしの子が治めるべきではないか」と、ずいぶんなことをおっしゃいました。国を譲れというご無体な交渉のために神様を派遣したのですが、懐柔されたり、好きな女の人ができて帰ってこなくなったりして、なかなか交渉は進みません。
業を煮やした天照さんは、力自慢の神様、タケミカヅチを派遣することにしました。タケミカヅチがすごんで見せると、オオクニヌシさんは「息子に聞いてくれ」と言いました。息子の一人はあっさりと国を譲ることに合意したのですが、もう一人の息子、タケミナカタは納得せず、果敢にもタケミカヅチに力くらべを挑んで見事に負けてしまいました。
タケミナカタさんははるばる諏訪湖のほとりまで逃げていき、その地から一歩も出ないと約束して、何とか許してもらいました。この、タケミカヅチさんとタケミナカタさんの力くらべが、相撲の起源とされます。
天照大神の無理難題
この地方出身の彫刻家が作った江戸時代の力士、雷電の像 |
それを見た天照さんは、「あの国は、わたしの子が治めるべきではないか」と、ずいぶんなことをおっしゃいました。国を譲れというご無体な交渉のために神様を派遣したのですが、懐柔されたり、好きな女の人ができて帰ってこなくなったりして、なかなか交渉は進みません。
業を煮やした天照さんは、力自慢の神様、タケミカヅチを派遣することにしました。タケミカヅチがすごんで見せると、オオクニヌシさんは「息子に聞いてくれ」と言いました。息子の一人はあっさりと国を譲ることに合意したのですが、もう一人の息子、タケミナカタは納得せず、果敢にもタケミカヅチに力くらべを挑んで見事に負けてしまいました。
タケミナカタさんははるばる諏訪湖のほとりまで逃げていき、その地から一歩も出ないと約束して、何とか許してもらいました。この、タケミカヅチさんとタケミナカタさんの力くらべが、相撲の起源とされます。
息子が遠くに逃げてしまう一方で、オオクニヌシさんは、国を譲った代償として、世にも立派な神殿を建てることを要求しました。これが、出雲大社の起源です。実際、昔の出雲大社は、現在の建物の何倍も高いものだったそうです。
また、世紀の大相撲に勝って名を上げたタケミカヅチさんは茨城の鹿島神宮の神様です。この人に「オオクニヌシのところに行って国を譲るように説得しなさい」と天照様の命令を伝えにきたのは鹿の神様でした。そのため、鹿島神宮の神使は鹿になったのです。
そして、鹿と言ったら奈良の春日大社です。実は、タケミカヅチさんはのちに日本を牛耳ることになる豪族、藤原氏の氏神で、春日大社を建てる際にも、このタケミカヅチさんが白い鹿に乗って茨城からやってきたのです。したがって、現在、奈良公園にいる鹿たちは、かつて、タケミカヅチさんを乗せてきた鹿の子孫ということになります。
また、世紀の大相撲に勝って名を上げたタケミカヅチさんは茨城の鹿島神宮の神様です。この人に「オオクニヌシのところに行って国を譲るように説得しなさい」と天照様の命令を伝えにきたのは鹿の神様でした。そのため、鹿島神宮の神使は鹿になったのです。
そして、鹿と言ったら奈良の春日大社です。実は、タケミカヅチさんはのちに日本を牛耳ることになる豪族、藤原氏の氏神で、春日大社を建てる際にも、このタケミカヅチさんが白い鹿に乗って茨城からやってきたのです。したがって、現在、奈良公園にいる鹿たちは、かつて、タケミカヅチさんを乗せてきた鹿の子孫ということになります。
相撲に負けて逃げてきたタケミナカタさんは、地元の神様との軋轢はあったものの、うまいこと諏訪の地を治めるようになり、ヤサカトメという地元の美人と結婚して十三人もの子供が生まれ、末永く幸せに暮しました。
と言いたいところなのですが、どこの夫婦でも長く連れ添うといろいろなことがあるように、この夫婦も、あるとき大喧嘩しました。すると、ヤサカトメは、「別居させていただきます」と荷物をまとめて、下諏訪に行ってしまいました。
しかし、タケミナカタさんは、その翌日には、もう寂しくなって、夜の闇にまぎれてヤサカトメに会いに行くようになりました。何でこっそり夜に行くかと言うと、あんな大喧嘩をした手前、村人たちに見つかるのが恥ずかしかったから。でも、足跡が残ってバレちゃった。その足跡が、有名な「御神渡り」なんですねえ。
それにしても、タケミナカタさんは、なかなか人間っぽい神様です。わたしは、相撲が強い力自慢の人よりも、弱くてもこういうかわいいところがある人のほうが好みだな。
と言いたいところなのですが、どこの夫婦でも長く連れ添うといろいろなことがあるように、この夫婦も、あるとき大喧嘩しました。すると、ヤサカトメは、「別居させていただきます」と荷物をまとめて、下諏訪に行ってしまいました。
しかし、タケミナカタさんは、その翌日には、もう寂しくなって、夜の闇にまぎれてヤサカトメに会いに行くようになりました。何でこっそり夜に行くかと言うと、あんな大喧嘩をした手前、村人たちに見つかるのが恥ずかしかったから。でも、足跡が残ってバレちゃった。その足跡が、有名な「御神渡り」なんですねえ。
それにしても、タケミナカタさんは、なかなか人間っぽい神様です。わたしは、相撲が強い力自慢の人よりも、弱くてもこういうかわいいところがある人のほうが好みだな。
そもそも、御柱とは何であるか。これについても、確かなことはわかっていないようです。
その一
由緒ある神社では、本殿を何年かおきに建て替えることがあるが(伊勢神宮など)、こちらの神社には、構造上、本殿がない。そのため、柱だけを定期的に替えることにした。この説がもっとも有力だそうですが、いまひとつ、わたしにはピンと来ません。そういう後付けの理由ではない気がするのです。(あくまで素人考えです)
その二
トーテムポールのようなものである。トーテムポールとは、先祖の霊を祀るために立てる柱のことです。アメリカの先住民のものが有名ですが、日本の縄文遺跡などからも、似たものの跡が発見されるそうです。
その三
結界を示すものである。昔、タケミナカタさんが相撲に負けて諏訪に逃げてきたときに、「ここからはけっして出ないから許して」と、命乞いをしました。そのことから、神社を囲む4本の柱は、聖域と外の世界を区別する結界を示すものではないかという説もあります。
韓国の村には、昔、結界を示すチャンスンという人面を刻んだ柱が立っていました。それと同じようなものではないのだろうか。
わたしも、今回はじめてホンモノの御柱を見て、瞬間的に、「これはトーテムポールか、韓国のチャンスンのようなものなのでは」と感じました。つまり、二と三の説が、視覚的にはしっくり来ます。なぜかというと、諏訪大社が、伊勢神宮などとは、まったく雰囲気を異にする場所だからです。うまく説明できないのですが、ともかく、日本の伝統的な神社とは、どこかが確実に違うと感じるのです。
その一
由緒ある神社では、本殿を何年かおきに建て替えることがあるが(伊勢神宮など)、こちらの神社には、構造上、本殿がない。そのため、柱だけを定期的に替えることにした。この説がもっとも有力だそうですが、いまひとつ、わたしにはピンと来ません。そういう後付けの理由ではない気がするのです。(あくまで素人考えです)
その二
トーテムポールのようなものである。トーテムポールとは、先祖の霊を祀るために立てる柱のことです。アメリカの先住民のものが有名ですが、日本の縄文遺跡などからも、似たものの跡が発見されるそうです。
その三
結界を示すものである。昔、タケミナカタさんが相撲に負けて諏訪に逃げてきたときに、「ここからはけっして出ないから許して」と、命乞いをしました。そのことから、神社を囲む4本の柱は、聖域と外の世界を区別する結界を示すものではないかという説もあります。
韓国の村には、昔、結界を示すチャンスンという人面を刻んだ柱が立っていました。それと同じようなものではないのだろうか。
わたしも、今回はじめてホンモノの御柱を見て、瞬間的に、「これはトーテムポールか、韓国のチャンスンのようなものなのでは」と感じました。つまり、二と三の説が、視覚的にはしっくり来ます。なぜかというと、諏訪大社が、伊勢神宮などとは、まったく雰囲気を異にする場所だからです。うまく説明できないのですが、ともかく、日本の伝統的な神社とは、どこかが確実に違うと感じるのです。
[出典]
http://allabout.co.jp/gm/gc/67663/
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