2015年4月11日土曜日

治承4(1180)年



 治承4(1180)年8月の頼朝の挙兵をきっかけに平氏打倒の勢力が全国各地で蜂起した。これが治承・寿永の内乱である。信濃で蜂起した武士団の代表が、木曾義仲岡田親義平賀義信であった。いずれも信濃に土着した清和源氏の流れである。
 義仲の当初の攻撃目標は、筑摩郡の信濃国府であった。その養父は中原兼遠(かねとお)で、中原氏は木曽の北部一帯の木曽福島町・日義村・木祖村あたりにあった大宮司宗像(福岡県宗像市にある宗像大社の宮司)氏の大吉祖荘(おおぎそのしょう)の荘官であった。平氏の時代には、国衙の権頭(ごんのかみ)という役職にあり、兼遠の子に樋口兼光今井兼平巴御前山吹御前がおり、兼光と兼平はともに義仲左右の重臣、娘の巴御前は義仲の妾となっている。またもう一人の娘山吹御前は義仲の長男義高を生んでいる。
 治承4(1180)年、似仁王の令旨によって平家追討の挙兵をした。当初の目的は、筑摩郡の信濃国府であった。国衙の権頭であった養父中原兼遠一族の後援と筑摩郡岡田を本拠とする岡田親義一族の力添えもあって、容易に制圧できたようだ。その後、木曾党という小武士団であったため苦戦する。善光寺平へ進軍する途上、会田(東筑摩郡四賀村)と麻績(東筑摩郡麻績村)に平家領があった。その平家勢におされ国府を放棄し、一度、東信地方へ後退した。
 東信の海野(東部町)には海野幸親いた。幸親は兼遠の兄が海野家に養子に入ったものだとも言われている。海野氏は、祢津(東部町)・望月(望月町)・桜井(佐久市桜井;伴野荘内)氏などの滋野一族有力武士団の一角を担っていた。望月氏は、望月御牧の牧監(ぼくかん)となった滋野一族が武士化した。また義仲軍に四天王と称される4人の側近武将がいた。根井行親はその一人で、佐久市根々井を名字の地とし、正式名は根井大弥太滋野行親と呼び滋野一族であった。同じ義仲に従う佐久党の武士に館(たて;佐久町館)を名字の地とする楯六郎親忠がいた。彼は根井行親の子であるから、滋野一族となる。
 義仲が丸子の依田城を根拠にし、軍馬・軍兵・食糧・武器を調達しながら、反平氏の佐久軍勢を掌握した。東信に散在する私牧からも北陸進出のための機動力ある馬が得られた。
 義仲の動きに呼応するように高井郡村山(須坂氏村山)を根拠とする村山七郎義直が、治承4年9月7日、善光寺平(長野市栗田)に所領を有する栗田氏と図り反平氏として決起した。村山氏は、清和源氏の一族が高井郡井上を拠点として、信濃源氏の名門となった井上氏の支族であった。
 平家に味方する信濃の笠原牧(中野市笠原)を根拠とする豪族・笠原平五頼直が、源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てた。それを察した源氏一族の村山義直が、笠原氏と築摩郡の栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らとの間で、信濃国市原(長野市若里)付近での戦いが行われた。これが市原合戦(いちはらかっせん)、または「善光寺裏合戦」とも呼ばれた戦いであった。勝敗は容易に決着せず、ついに日没になり、矢が尽きて劣勢となった村山方は、義仲に援軍を要請した。それに呼応して救援に駆けつけた義仲軍を見て、笠原勢は即座に退却した。そして、越後の豪族・城氏の元へ敗走した。この勝利で、東信の武士たちが駆けつけ、義仲軍は急速に膨張した。その中に諏訪上社の千野太郎光弘がいた。光弘は樋口兼光の甥であった。
 治承4年10月、義仲は内山峠を越え父義賢の根拠地であった西上野に入り、義賢の所領であった多胡荘で父とかかわりのある武士たちを集めた。それが瀬下・那和・桃井・木角・佐井・多胡などの諸氏で高山党と呼ばれた。しかし当時、上野は既に頼朝の勢力がおよび、それ以上の拡大はできず、12月には信濃に戻った。
 佐久地方を根拠にする武士で義仲に従った氏族は、根井(佐久市)・楯(佐久町)・小室(小諸市)・志賀(佐久市の東部・志賀流域)・野沢(佐久市役所の南)・本沢(望月町)・矢島(浅科村)・平原(小諸市)・望月(望月町)・石突(佐久市石突川)・落合(佐久市伴野の北隣)などがいた。義仲は木曾党同様、佐久党も根井行親とその6男楯親忠親子が義仲軍四天王に数えられたように、その直属の中核軍として重用した。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/saku2/sa2.htm

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