2015年4月11日土曜日

長時は天正6(1578)年の謙信死後は越後を離れ、会津の芦名氏の許に寄寓


晴信は、海の口から小諸を経て千曲川を下るコ-ス、次いで林城(松本市里山辺~入山辺)から犀川を下るコ-ス、さらに北安曇から大町街道に沿って流れる犀川の支流土尻川(どじりがわ)を下るコ-スで、中北信の諸城を調略していった。犀川が土尻川と合流する手前の牧城の香坂宗重も、晴信に降った。
 臣従した宗重に晴信は知行替えを行ない、弘治2(1556)年5月12日、埴科郡英多庄(あがたのしょう;長野市松代町東条と西条の辺り)内に移った。この時の朱印状には、香坂筑前守と記されている。そこに館を構えたとされている。翌弘治3年の第3次川中島の戦いで焼亡したが、その館は「弾正館」と呼ばれていた。そのことから、「香坂氏の娘を娶った」とされる香坂昌信(春日弾正忠虎綱)との関係が、この時期には結ばれたと推測されている。
 
 永禄2(1559)年2月、長尾景虎は京に上り、将軍足利義輝から関東管領に補任された。半年ほど滞在し10月に帰国した。この時、海野・真田・祢津・室賀など小県の諸士が太刀を贈り寿いでいる。その間の5月、晴信は信濃から景虎の勢力を一掃しょうとして、佐久の松原神社に戦勝を祈願した。その願文に「信玄」を号している。それが初見とされている。

 永禄3(1560)年に、香坂氏の所領のある松代の東条近くに、武田氏の川中島の拠点となる海津城が築かれ、宗重が海津城に在住する手当として、同年6月15日付けで、更科郡横田(篠ノ井横田)3百貫の新知が与えられた。その晴信の知行宛行状が現存している。
 有名な第4次川中島の戦いの直前、永禄4年5月、上杉との密通の嫌疑で香坂宗重が海津城で誅された。これにより香坂の嫡流は途絶えた。その名跡は香坂氏の娘を娶った春日虎綱が継承する。虎綱が一般には高坂弾正忠昌信と称されるのは、この事変を起因にしている。香坂昌信(春日虎綱)は、武田信玄、武田勝頼の2代に仕え、武田4名臣の1人として、馬場信春内藤昌豊(昌秀) 、山県昌景と並び称されている。だが、同姓を称したのは永禄年間の短期間で、まもなく春日姓に復している。一生の殆どを「春日虎綱」と称していた。

 海津城には原美濃守虎胤小畠虎盛(おばたとらもり)を配しであったが、在城1年未満で、虎胤は永禄4(1561)年の八幡原の激戦に先んじる割ケ嶽城(わりがたけ;上水内郡信濃町富濃)を攻略した際に負傷した。この城は、野尻湖の西南にあり、川中島から野尻湖を経て関山を超え、堀之内に抜けて春日山城に至る北国街道沿いの要衝であり、野尻城とならんで信越国境における上杉方の重要拠点であった。虎胤の傷は癒えず、又60余歳を越える高齢のため、第4次川中島合戦に際し、虎胤は甲斐の留守部隊を預かった。その当時、香坂昌信(春日虎綱)が海津城の守将であった。虎胤は永禄7(1564)年3月11日、躑躅ケ崎館に近い屋敷で病没した。享年68であった。小畠虎盛も既に永禄4年6月に病死していた。享年71であった。

 同年8月、上杉謙信は春日山城を発して海津城の南の妻女山に布陣、海津城将の香坂昌信はこれを甲府に注進、信玄は8月16日にこの報を受け、18日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣、24日に川中島には布陣した。その陣地については茶臼山説や八幡原説など諸説があるが原典がない。信玄は8月29日に海津城の北方の広瀬の渡しで千曲川を渡河し、海津城に入城した。9月9日、武田軍は香坂昌信らの別働隊を妻女山の背後を突くため迂回させた。信玄本隊は海津城を出て目前の千曲川を渡り八幡原に布陣した。一方、上杉軍は海津城からあがる炊煙を見て夜襲を察知し、夜半に雨宮の渡しを渡って八幡原に進出、9月10日早朝に両軍は激戦となり、数千名が戦死したとされた。これが第4次川中島合戦物語であった。この合戦物語の争闘戦には諸説あるが、確たる史料による裏付けを欠く。また越後方の史料と比し多くの齟齬があり、戦記物語としては面白いが、軍略家として秀抜な両将の戦術としては、余りにも劇画的で信じ難い。信玄、謙信両者には当然物見役がいて、敵陣の動静を見張るため、物見を各所に配置していたはずである。両将も当然、それを想定し戦術を練っていたはずだ。また海津城と妻女山は指呼の間にあり、直線にして3kもなく、謙信が本当にあの小高い妻女山に本陣を敷いたとしたら、互いの動静は筒抜けで、山本勘助の隠密な用兵は不可能であった。さらに当時の千曲川は、今より東に寄り、妻女山沿いから海津城に沿うように北上していた。1万を超える軍勢が、音を出さず進退する事を不可能にしていた。
 戦後、信玄はこの地方を新知として家臣に分配し宛行状(あてがいじょう)を出している。謙信はただ戦功をねぎらう感状を出しているにすぎない。勝利は、事実上、信玄のものと推定される。次第に武田方が、川中島地方を掌握し、その拠点として海津城は重要視され、香坂昌信が城主を務めた。
 元亀3(1572)年に入ると、信玄は遠江・三河への出兵が相次ぎ、徳川家康とその背後にいた織田信長との対決が始まった。同年10月には、信玄自ら大軍をもって甲府を出発し、西上作戦を開始した。12月には家康の居城である浜松に近づき、三方ヶ原で家康と信長の援軍佐久間信盛平手汎秀(ひろひで)の連合軍を打ち破った。その後進んで三河へ侵入し、徳川方の諸城を相次いで攻め落とした。しかし、翌元亀4年4月、三河野田城(愛知県新城市豊島)を包囲中の陣中で病に伏した。已む無く甲府へ帰陣する途中、信濃伊那谷の駒場(下伊那郡阿智村駒場)で4月12日、享年53をもって病没した。
 高坂昌信は信玄死後も、海津城代として北信濃攻略と上杉謙信の抑えを担当したが、他の老臣たちと同じように武田勝頼からは疎まれていたとされる。天3(1,575)年の長篠の戦いには参戦せずに、上杉謙信の備え1万の将兵で海津城を守備していたが、敗報を聞くや兵を率いて伊奈谷に馳せ参じ勝頼を迎え、衣服・武具などを替えさせる等、敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮したという。この戦いでは、昌信の嫡男昌澄が長篠城監視のために城の西方の有海村駐屯軍の中にいた。長篠の戦いで勝利し、勢いに乗る徳川軍に攻め立てられ、昌澄は果敢に抗戦するが大軍に圧し潰されるように戦死した。
 この戦いによって、信玄以来の老臣で生き残ったのは昌信のみとなった。昌信は勝頼を補佐して武田氏の再建に努めたが、織田信長の圧倒的な兵力に対抗するため、宿敵であった上杉謙信との同盟を模索したと言われている。その謙信も天正6(1578)年3月13日、脳溢血により春日山城中で没した。享年49であった。同年5月7日、昌信も海津城で病死した。享年52。
 嫡男の高坂昌澄が長篠の戦いで戦死したため、家督は次男昌元が継いだ。父の昌信も高坂姓を名乗ったのはわずかな期間であり、晩年は春日姓であったことから、春日昌元(春日信達)と名乗っていたかもしれない。武田勝頼はそのまま海津城代の職を引き継ぐことを許した。また、父の担当していた上杉氏との和平交渉もそのまま引継ぎ、成立に漕ぎ着けている。上杉との和睦成立後は、海津城から兵を割いて駿河の沼津城へと移り、徳川・織田の防備にあたった。
 天正10(1582)年2月から織田信長による武田征討が開始されると、昌元は沼津を放棄して本国甲斐を防衛すると称し新府城に馳せ参じるが、戦わずして沼津を明け渡した事を勝頼に疑われ海津へと戻された。長篠の戦いで勇将の殆どを失った武田氏は、余りにも脆く3月には滅亡している。昌元は、信長に降伏し、北信濃の領主となった信長の家臣森長可(ながよし)に属した。

2月14日、信州松尾の城主小笠原掃部大輔信嶺が内通を申し出てきたため、信長軍は妻籠口から団平八・森長可が先陣に立って出撃し、清内路口より侵入して木曽峠を越え、なしの峠へ軍勢を登らせた。すると小笠原信嶺もこれに呼応して諸所に火煙を上げたため、飯田城に籠っていた坂西織部・保科正直は、抗戦は不可能と見、14日夜に入って潰走した。
 天正10(1582)年3月27日、織田信長は武田氏攻略に功のあった木曽義昌に本領を安堵し、恩賞として筑摩・安曇の両郡を新知として与えた。同月29日、改めて武田氏の旧領の割り当てが行われた。伊那一郡を毛利秀頼諏訪全郡が河尻秀隆に、小県・佐久両郡が滝川一益に与えられた。海津城には、織田信長の武将森長可が城主に任じられた。更級、高井、水内、埴科四郡が新知として与えられた。信長は、その3月に、甲信両国の国掟を定め、寺社以下各地在所に掲げ人心の掌握に努めた。
  一、関役所、駒口取るべからざる之事。
  一、百姓前、本年貢の外、非分之儀申し懸けるべからざる事。
  一、忠節人を立て置き、外の廉かましき(理屈を並べて懈怠する)侍は殺害させ、或る者は追失す可き事。
  一、公事等之儀、能々念を入れ穿鑿し、落着させる可き事。
  一、国諸侍は懇ろに扱い、油断無き様気遣いす可き事。
  一、第一に欲を構えるに付き、諸人は不足を為すの条、内儀相続に於いては皆々に支配させ人数を抱える可き事。
  一、本国より奉公を望む之者があれば、相改め、前に抱える者方へ相届け、その上で扶持之事。
  一、城々の普請は丈夫之事。
  一、鉄砲・玉薬・兵粮を蓄えす可き事。
  一、進退之郡内請取り、作道す可き事。
  一、界目が入り組み、少々の領地を論ずる間、悪之儀有る可から不之事。
  一、右定めの外、悪しき扱いに於ければ、罷り上り、直き訴訟申す可き候也。

 森長可は4月5日、川中島の修験道の中心皆神山(みなかみやま)和合院や篠ノ井塩崎の康楽寺など領内の諸寺院に国掟を掲げ領内取り締まりに当たっている。長可は海津城に在城し、飯山城には稲葉彦六貞通を遣わし在城させた。すると、その飯山を取り囲む一揆が盛んとなった。これに対し、信長はすぐさま稲葉勘右衛門・稲葉刑部・稲葉彦一・国枝氏らを援軍として飯山へ遣わした。また信忠の手からも団平八が派遣された。織田本軍の来援を知った敵方は山中へ引き、現長野市豊野町大倉にあった古城・大倉城を修復し、芋川親正を一揆の大将として立てこもった。4月7日、一揆勢のうち8千ほどが長沼口まで進出してきた。一揆の将島津忠直は長沼城(長野市穂保;ほやす)に篭城した。その報に接した森長可はすかさず出撃し、敵勢に出合うと一気に攻撃を仕掛けた。そして7、8里にわたって追撃を行い、敵勢千2百余を討ち取った上、大倉の古城になだれ込んで女子供千余を斬り捨てた。この一戦により森勢の挙げた首は2千4百5十余にものぼったという。こうした惨状を呈し、飯山城を囲んでいた一揆勢も引き上げていった。この不手際で稲葉貞通は飯山城守備の任を解かれ信長の本陣の置かれている諏訪へと召還された。飯山城代には長可家臣の林為忠が置かれた。香坂昌元、小幡虎昌らは、人質を長可へ送っている。長可は長沼城に各務兵庫を城代として遣わし、千曲川以北の土豪の旧領を安堵した。
 長可は、信長より5月27日に越後への侵攻を命じられた。越後国内に侵略し、現新潟県妙高市の関山から二本松まで進軍した。その上杉影虎方と対峙中の6月2日、明智光秀謀反による本能寺の変で信長が自刃した。6日には長可の弟蘭丸(長定)、坊丸(長隆)、力丸(長氏)の3兄弟が京都の本能寺で殉じるとの悲報が届いた。直ちに、長可は海津城に帰陣し上京の準備をする。そこに香坂昌元、小幡虎昌らが来て、人質の返還を迫った。「もし聞きいれないときは、槍先にかけても請取るから、路次、難儀となろう」と脅かすが、長可は「槍先勝負とは笑止、いらざる戯言止め早く帰り、上洛の共の支度をすべし」と睨みつけた。香坂、小幡両人は、その威勢に言葉を返すこともできず立ち去った。
 11日、海津城を放棄し、途中、信濃・美濃の国衆が行く手を阻む中、本拠地の美濃の金山城に帰ろうとした。その報が伝播すると旧武田家臣団による一揆などが一斉に蜂起し逃亡しようとする長可を、香坂昌元らが信濃国人衆を母体とした一揆勢を率いて、千曲川の対岸で阻止した。それで長可は香坂昌元の息子である森庄助(森姓は長可が烏帽子親である為)をはじめとする人質を使って交渉の席を設けた。長可の側近として主に対外交渉などを担当している家臣大塚次右衛門を一揆衆への交渉役として遣わされた。大塚は昌元の裏切りをその席で糾弾するなど終始強気の態度であった。ひとまず深志(現松本市)で人質の開放するから「森軍に手出しをしない」という条件で合意した。しかし一揆衆は、人質を押さえられていた上での合意であれば、当然真意とは違い猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ;千曲市と麻績村の堺、善光寺街道・現在は国道403号となっており、聖湖の北側)で長可と戦に及び、撃退された。
 そこで再度、大塚と一揆衆の会談の席が設けられ、大塚は手出し無用の事を強く言明した。しかしながら長可は昌元の裏切りそのものに強く不快感を持っており、深志に着くと約束を反故にし、長可自ら香坂昌元の息子森庄助を初め人質の多くを殺し、そのまま北信濃から撤退していった。残りの人質は木曽の木曽義昌に預け西上した。

 長可が北信4郡を空け西上すると、上杉景勝は直ちに、川中島へ侵略した。6月13日、稲荷山北部の清水三河守を臣従させた。次いで水内郡の栗田民部介や更級郡西山部の香坂一族など、北信4郡の武田氏旧臣や国衆に所領を安堵し臣属させた。海津城の城将の香坂昌元、小幡虎昌らもこれに従い、6月14日朱印状が与えられている。同月29日、景勝は遠山丹波守を上州沼田に在城させ、その功として更級郡八幡の松田氏の遺領を宛行い、埴科北部の西条治部少輔に本領を安堵する朱印状を与えている。7月3日、景勝は北信4郡の仕置のため、長沼城に入り、宛行状を与えた諸士と対面し、各所務に励み城普請をするよう命じた。
 天正10(1582)年3月、武田氏滅亡と信長による甲信の平定がなされたが、甲斐はもちろん信濃の一部でさえ、小笠原貞慶に分け与えられることはなかった。旧領の安曇・筑摩両郡は、信長に降った功により木曽義昌に加増され宛行れた。この年6月2日、信長は本能寺で自裁すると、たちまちのうちに甲斐・信濃の信長勢力は、旧勢力の復活により駆逐される。この機会に、越後に居た貞慶の叔父小笠原貞種が、上杉景勝の援助を得て木曽氏より深志城を奪い返した。しかし、景勝は海津城に居て、筑摩地域が容易でない状況を目の当たりにして、これまで上杉に臣服していなかった国衆にも、かつての経緯を問わず、その所領を安堵した。景勝は北信4郡の制圧こそが、当時の情勢下であれば、最悪確保されなければならない要地であった。
 徳川家康の戦略眼と軍事力、家臣団の強靭さは、景勝のそれを遥かに超えていた。小笠原貞慶は本能寺の変の時、家康のもとにいた。家康の要請もあって念願の信濃に入り、馳せつけた小笠原旧臣たちを率いて深志城を攻撃、7月17日、叔父小笠原貞種を追い落とし、ついに深志入城を果した。
 上杉景勝も小笠原貞慶の勢力拡大を阻むため、懸命に、小県郡の諸侍に宛行状を発している。7月24日付けで、小田切四郎太郎に「任望むの旨ゆえ、塩田郷の内下郷・中郷・本郷3か村の内、以上千5百貫文務める所、出し置き候、よって件の如し」と本領を確認している。
 西条治部少輔には7月25日付けで「近年抱え来る知行の儀は申すに及ばず、その上の忠信の間、新地として洗馬(せば;塩尻市大字宗賀字洗馬)、曲尾之を出し置き候、しかる間、いか様の者横合候とも、相違あるかざるべきなり、よって件の如し」と朱印状を与えている。
 屋代左衛門尉(秀正)にも7月25日付けで「近年抱え来る知行は申すに及ばず、忠信誠に比類なく、庄内根津分、並びに八幡の内遠山丹波分、浦野一跡之を出し置く者なり、よって件の如し」宛行状を与えている。景勝が海津城に入り、北条氏直と対峙した時、屋代秀正、海津城の香坂昌元、上田城の真田昌幸ら主だった国衆は、既に北条氏に内属していた。景勝とても、その実情は承知しながらも、それまでの経緯を問わず、諸士の本領を安堵し、その上の新知を宛行った。その結果、川中島4郡の鎮定が進められた。
 7月には、上杉景勝は高井・水内、更級・埴科の北信4郡を制圧し、安曇・筑摩・小県3郡の一部をも領有するに至った。景勝は村上義清の子景国を海津城代に任じ、元来、村上氏家臣筆頭の家柄であった屋代秀正を副将として海津城二の丸に置き補佐させた。同時に秀正は、屋代郷屋代城の守備も命じられている。そのため景勝は、秀正の守城荒砥城(千曲市上山田温泉)に清野、寺尾、西条、大室、保科、綱島、綿内ら7氏に、10日交替の在番を命じ、筑北地方の警備を厳重にさせた。
 秀正の養父屋代正国は、村上義清の重臣であった。武田信玄の信濃侵攻に対し奮戦し、天文17(1548)年の上田原の戦いで嫡男基綱が戦死している。天文22(1553)年4月5日、塩崎六郎次郎と共に村上義清から離反して武田氏に降伏し、村上氏没落の切欠となった。天正3(1575)年の長篠の戦いで、武田勝頼方として次男正長(清綱)を喪い、甥の屋代秀正を養子に迎えて家督を継がせた。秀正はもとより景勝、村上景国いずれも、その間の経緯は知っているはずだ。川中島4郡の鎮定は、極めて脆い一時の均衡であった。
 景勝は天正10年8月12日日付で、秀正へ「兼ねて申し定める如く、源五(村上景国)の事別して入魂任せ置き候、万端仕置き何遍も分別次第、源五と談合これあり、相計らえもっともに候、恐々謹言」と書状を送っている。
 景勝は、信濃の仕置がなると、当地の横目として板屋佐渡守光胤を置き、食邑として更級郡布施の内河野因幡(尚家)分、高井郡高梨領大熊郷料所分、更級郡桑原郷料所分、更級郡今井郷小山田分を宛行っている。

4)北条氏直、信濃侵攻と諏訪頼忠
 この当時、滝川一益(かずます)と戦い、その勢力を駆逐した北条氏直は、それに乗じ碓氷峠を越え佐久郡の依田信蕃(よだのぶしげ)を追い、小県郡海野に達した。真田昌幸もその勢いに抗しえず臣従した。
 天正10年(1582)、氏直は、諏訪の重臣千野昌房に使者を送った。家康も、大久保忠世を派遣して臣従を勧めるが、この当時、高遠の保科氏、木曽の木曽氏など南信濃の小領主の多くは、既に北条方になっていた。諏訪頼忠も氏直から北条氏につくよう要請されていた。この後直ぐ6月28日、徳川家康は大久保忠世を信州諏訪に出兵させた。諏訪や伊那の国人衆を傘下に入れるためであった。酒井忠次の軍は下伊那の小笠原信嶺の軍と合わせて、7月14日高島城(茶臼山城)を囲むが、頼忠はよく耐えこれを防いだ。この危急を知って北条氏直は佐久に出陣した。酒井忠次は北条の動きを見て、一旦は高島城の囲みを解き、甲州の台ケ原(山梨県北杜市白州町の旧台ケ原村)に退いた。7月19日から21日に掛けて、大久保忠世から盛んに帰順を促す書状が届けられた。
 7月24日、駿河にいた家康は、酒井・大久保の軍に加え、伊那の下条と知久氏の与力軍、合わせて3千の軍に決戦を命じた。高島城を攻めるが、諏訪軍は、逆に夜討ちをかけるなどして、よくこれに堪えた。これより前、北条氏直は、6月中旬、真田昌幸が名胡桃城で抵抗するため、佐久郡に侵出していたが、諏訪氏救援のため、真田昌幸に本領を安堵する条件で和睦し、氏直はその兵、4万3千を率い、役行者(えんのぎょうじゃごえ;雨境峠;北佐久郡立科町八ヶ野;長門牧場の東北部)を越えて、梶が原(茅野市柏原)に駆けつけ着陣した。29日徳川勢は、高島城の囲みを解き乙事(富士見町)に引き上げた。8月6日まで滞陣していたが、北条軍が多勢のため新府城へ退却した。北条軍はこれを追い、上の棒道を通って若御子(北巨摩郡須玉町)にまで進出し布陣した。
 家康は甲府から新府に進み、氏直と対峙する。両軍は小競り合いを繰り返しながら、80日近く経って、10月29日にようやく両者の和議が成立した。それは真田昌幸が、徳川と結び、北条軍の諏訪進出の隙を突いて、碓氷峠を越えて上州に進攻し、9月には北条方の沼田城を奪取し、北条軍の糧道を断ったからである。ついに、氏直は形勢の不利を悟り、上州沼田をとる一方、甲斐の都留郡、信濃の佐久郡を家康に譲り、真田昌幸には代替地を与えること約定して和睦した。そして、家康の次女督姫(とくひめ)を氏直に嫁がせた。以後、甲斐と信濃の大部分は、家康が領有する。
 既に諏訪頼忠に対して、家康は、対陣中の9月の時点で、大久保忠世を高島城に派遣して、頼忠に帰順を勧めていた。最早、北条に頼れないと悟り、やがて頼忠・頼水父子は、甲府の家康に拝謁し、次男頼定を人質として差し出し、徳川に帰属を願い出た。家康はこの時「信州の事情がはっきりするまで、帰って待て」と指示、翌天正11(1583)年正月、柴田康忠を高島城に派遣した。3月28日には、諏訪安芸守頼忠殿宛てに、家康の花押のある諏訪郡の安堵状が与えられ、柴田康忠は引き上げた。この安堵状は重く、以後、高島藩は譜代大名に準じた扱いを受ける。
 翌天正12年には、家康の命令で本田康重の娘(後の貞松院)を、頼忠の嫡子頼水が娶り、頼忠の地位は徳川家で不動のものになった。
 頼忠は居城を茶臼山の高島城から下金子に移し、宮川が大きく湾曲した突端に、平城の本丸を築いた。宮川が外堀で、本丸、二の丸、三の丸も備えていた。本丸の東が三の丸で、その堀の外に八幡社を勧請して城の鎮守とした。
 諏訪頼忠が郡主になるが、頼忠は上社大祝・千野氏以下上社系の旧臣を用いた。天正18(1590)年、北条氏の小田原城が開城した年であった。6月10日、家康から頼水宛に書状が届いた。
 「信州諏訪郡のこと、安芸守に先判つかわしたように、今より以後もまちがいなく安堵させるから、いよいよ忠勤を励む事」
 この年に、頼忠が隠居し、長子頼水が領主となった。頼水は家康の命により弟頼定に下社一円の領有を譲るべきとされたが、策謀の末これを追放した。対外的には出奔としている。詳細は歴史の闇の中に消えてしまった。また、下社系の武士は出仕する機会も無く、帰農して村役人におさまったりして、江戸時代を通して、下社系の武士は蕃の重職に就くことはなかった。

5)深志をめぐる小笠原貞慶と木曽義昌
 元亀3(1572)年12月22日、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町周辺)で、徳川・織田の連合軍は、信玄の見事な采配と圧倒的な武田の軍事力に完膚なきまで撃破された。翌元亀4年2月までには三河に侵攻され家康の属城野田城も攻略された。しかし、冬季の遠征により、信玄の積年の病労咳が重症となり帰国をせざるをえなくなった。4月22日、織田軍との直接対決を目前にしての帰府途上、伊那郡駒場で病没した。享年53であった。信玄ほどの武将が、なぜここまで無理をしたのか?馬場信房などの周囲の宿老が、なぜ自重を願わなかったのか?真田幸隆もなぜ説諭できなかったか?
 天正3(1575)年、2月26日、織田信長の武将河尻秀隆から小笠原貞慶(さだよし)に府中深志回復を呼び掛ける書状が届いた。貞慶は父長時が信玄に駆逐され没落すると上京して、父子共に小笠原一族の三好長慶に頼っていた。『書簡并証文集』によれば、小笠原貞慶に「今度信長の直札(じきさつ)を以て申し入れなされ候」とある。この秋に織田信長は信濃国へ出勢する予定であるので、その際に貞慶に還補(げんぷ:かんぷ)することは勿論、「別して其許の御才覚此の時に候」と、その実力を発揮する好機であること、信濃国・美濃国境目の「有事」が発生した際には相応の尽力をするよう伝えている。貞慶は、この府中復帰の誘いで信長に臣属する契機となった。
 毛利氏は織田軍羽柴秀吉の執拗な攻勢に遭い、武田・上杉・大坂石山本願寺を誘い攻勢に出た。天正3(1575)年の長篠の戦、5月21日、午前6時、武田勝頼軍と織田信長軍は連子川を挟んで対峙した。織田・徳川軍より高台に位置した武田軍は、地形の優勢を利用して一気に騎馬隊で駆け下り織田軍を粉砕する作戦であった。信長は敢えて、地形が低位にある地に本陣を構え、武田騎馬隊の破壊力の驕りを誘った。その一方「東三河の旗頭」と呼ばれる酒井忠次らは武田方の後方陣地鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を襲い、長篠城へ援軍を入れた。退路を閉ざされた武田軍は設楽原決戦(したらがはら)に挑みざるを得なく、騎馬隊を中心に次々と攻撃をかけたが、馬防柵に阻まれた進退ままならぬ状態下、信長軍の鉄炮隊の迎撃弾を浴びた。この合戦で信長は鉄炮を3段に構え交替で一斉射撃を行う戦法をとった。戦いは午前8時ごろから午2時ごろまでに及び、山県昌景、土屋昌次、馬場信房などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人を失った。多数の将士が名もなき足軽兵に射殺され無勢となった武田軍に向け、午後2時頃、信長の総攻撃命令が出る。滝川一益を一番手とする織田軍と徳川家康配下の三河武士団が次々に武田軍に打ちかかる。勝頼本陣も崩れ、勝頼は主従6騎で落ちていった。これ以後武田氏は往時の勢いを失う。天正10(1582)年滅亡する。
 信長は上杉景勝やその配下の北信の村上国清に書状を送り、甲信出兵を誘っている。天正3年11月28日付の書状を小笠原貞慶に持たせ、上野の小山秀綱に使者として「委曲、小笠原右近大夫に伝達有る可き候。」と伝えている。貞慶は天正5年極月(12月)22日日付で、北条氏政に対抗する常陸の佐竹義重の与党梶原政景から、関東出兵を要請されている。また同国の水谷勝俊・太田道誉からも援軍を頼まれている。天正8年3月23日には、越前いる「其国御滞在」の小笠原貞慶に、柴田勝家が越中の国人衆の調略を要請している。天正9年10月15日、織田信長が越後へ出兵しょうとする際、富田知信に送った書状には「猶貞慶申し可く候也」とある。この間、貞慶は織田方の使者的な役割しか与えられず、信長が抱える多士済済の武将と同列には扱われておらず、軍事力は殆どなかったようだ。
 織田信長の信濃・甲斐討伐作戦は、天正10年2月1日の木曽義昌の要請により始まる。安土在城の信長に美濃苗木城主苗木久兵衛(遠山友政)から「信州木曽義昌御身方之色を立て被れ候間、御人数出で被せ候様に」(信長公記)との書状が届いた。『当代記』には「信濃国木曽の主伊予守義政忠節致し可く之由、東美濃の苗木久兵衛(遠山友政)を以て信忠へ言上」とある。この報せに信長は好機到来とばかり、嫡子信忠以下の武将に、武田追討令が下された。この時、木曽義昌は弟上松蔵人を人質として差し出している。
 義昌謀叛の報は既に武田にも伝わり、2月2日、武田勝頼・信勝父子と勝頼の弟信豊らの兵1万3千が甲斐韮崎の新府城から諏訪の上原城に出兵し本陣とし、信長の諸所の侵入口を押さえた。信長の動くは速く翌3日には、かねてからの武田追討の計画通りの甲斐・信濃への出兵を諸将に命じた。駿河口から三河の徳川家康、関東口から小田原の北条氏政、飛騨口から金森五郎が一斉に進撃を開始した。安土の信忠本軍は、木曽口と岩村口の2手に分かれ侵入した。6日には、伊豆の河尻与兵衛が戦列に加わった。
 一方、勝頼は木曽谷を進撃するが、木曽義昌は2月6日に、伊那谷に在陣する織田信忠の武将塚本三郎兵衛に書状を送り、信忠の出馬が延引するならば、「御近辺衆二三の輩を将と為し、伊奈郡之御人数を遣い立て被れ候者、諏訪・府中一変為す可く候事」と進言した。更に「右御遅延に於かれれば、此の凶事眼前に表れる之事『塚本文書』」と早急の手立てこそが、即効策となると予告している。信忠は木曽勢の援兵として織田源五らを派兵した。勝頼の鎮定は「谷中過半撃砕令し候、然りと雖も、切所に構え楯篭り候之故、没倒遅々、無念に候。」と困難を極め、その間に下伊那の小笠原信嶺と国人衆が織田方に転じ遂に困窮する。義昌の読み通り、伊那衆のみならず安曇郡の古幡・西牧両氏は義昌に内通し、近郷の諸士と連携し大野田夏道(松本市安曇大野田)の砦に陣構えをした。また岩岡佐渡・織部父子も深志城を離間し中塔小屋を拠点とした。翌17日、深志の馬場勢は、中塔小屋を急襲し、安曇の上野原や黒沢馬場で戦闘となり、中塔小屋から細萱の館へ斬り込んだ。18日、寺所河原で戦い、19日には二木一門の岩波平左衛門も武田氏を見限り、古幡・西牧両氏らに同勢し、筑摩郡の下神林で戦い、野溝・平田辺りまで追撃した。漸く2月20日なって、勝頼は上杉景勝に信濃の動静を伝え援軍を要請した。これに応じ3月5日、景勝自らが明日出陣と触れ、松本房繁ら諸将を水内郡長沼へ先発させた。
 ところが、それ以前に信玄の甥で武田家重臣の駿河江尻城主で、郡内小山田氏に並ぶ河内領の再支配という別格待遇を受ける親類衆で、母南松院殿は武田信虎の娘、妻は信玄の娘見性院、その穴山信君が謀叛した。その報せで、『当代記』には、「其れに就き、甲州上下周章不斜(ななめならず)、勝頼陣中無体之関、即ち塩尻自り甲州へ.引退」とある。2月28日、勝頼は諏訪の上原城を撤退し甲斐新府城に籠った。
 2月末、信長の従兄弟織田信益が木曽から筑摩へ進軍し、深志に陣を布いた。同日、木曽義昌も深志の南方、征矢野・鎌田に陣を据え、安曇の国人古幡伊賀・岩波平左衛門・岩岡織部などを呼び付け、深志城の調略を命じた。結局、天正10年3月2日、馬場信春は四面楚歌となり降伏し退城した。天正3(1575)年の長篠・設楽ヶ原の合戦で馬場美濃守信春(信房)が討死し、家督を継いだ子も同じ名を称していた。二木衆も安曇の中塔小屋へ撤退した。義昌は無血開城に成功した。
 一方信忠殿は3月1日、飯島から軍勢を動かし、天竜川を越えて貝沼原に着陣した。ここから松尾城主の小笠原信嶺を案内に立てて河尻秀隆・毛利秀頼・団平八・森長可の軍勢を高遠へ進ませた。小笠原信嶺の案内で夜間に城の麓の三峰川を渡り、対岸の大手口へと攻めかかった。ところで飯田城主であった保科正直は飯田を脱出し、高遠に入って籠城軍に加わっていたが、この日の夜間に城中へ火を放ち内応する手はずを信嶺と謀っていた。しかし城内は臨戦中であり実行する間隙がなく翌日を迎えた。
 天竜川を越えて貝沼原に宿陣していた織田信忠は、翌2日払暁、尾根伝いに搦手口へと攻めかかった。森長可・団平八・毛利秀頼・河尻秀隆・小笠原信嶺は大手口へ攻撃をした。勝頼の異母弟仁科五郎信盛は、最期まで忠節を貫く諏訪衆と共にこの大手から討って出、織田勢と数刻にわたり壮絶な戦闘を繰り広げた。多勢に無勢、数多の兵が包囲され討ち取られ、やむなく残兵は城中へと逃げ帰った。
 信盛も孤軍奮戦するが高遠城は殲滅された。信盛享年26であった。勝頼は小山田氏にも裏切られ、夫人北条氏の伝手を頼り上州を目指すが、天目山に至り織田軍勢に挟撃され、遂に3月11日、妻子とともに自刃、享年37であった。
 信長自らも驚くほどの短期間で、信濃・甲斐・駿河を制圧した。3月17日に、飯田を発ち、大島・飯島から高遠を経て杖突峠を下り、上諏訪の法華寺に本陣を置いた。すると、甲斐・信濃の国人衆は、引きも切らず参集した。
 小笠原貞慶は、深志城落城を報らされると、すぐさま飛騨から安曇郡金松寺に身を移した。貞慶は愚かにも小笠原旧臣と、信濃逃亡後、未だに疎遠状態に在った。父長時以来の有力臣属二木氏すら貞慶の動静が知らされていなかった。さすがに信長は信濃制圧に何の功績も無い貞慶の入府を許さなかった。信長は同月19日、上諏訪の法華寺に入り本陣とした。貞慶は府中回復の絶好期でありながら、旧臣の援軍も期待できず府中を回復できなかった。翌20日、木曽義昌は出仕し、信長の来援を謝し、太刀一腰・馬二疋・金二百料を献上した。信長は義昌に黄金千両を下賜し、更に寺の縁まで見送りに出るほどの持て成しをした『当代記』。21日には、武田氏滅亡を速めた穴山信君(梅雪)も出仕し、甲斐・駿河の本領が安堵された。24日には、各在陣衆が兵粮などに困り、深志城の城米があてられ、その不足を北条氏政から白米2千石、家康からも石高不明だが進上され、諸陣に配られた。
 同月27日、「信濃国筑摩郡・安曇両郡之事、一色宛行候訖(おわんぬ)。全て領知に令す可し、次に木曽郷之儀、当知行に任せ聊かも相違有る可からず之状、件の如し。」と、木曽義昌が武田氏征伐の切欠をつくり、更に出兵の先鋒となった功を賞した。2日後の29日に、法華寺で甲斐・信濃・上野・駿河の知行割が行われた際、徳川家康に駿河一国が宛行われ、再び義昌の本知の木曽郷と、かねてからの約束通り府中深志を含む筑摩・安曇両郡の新知が下され対外は、殆どが信長の家臣に与えられた。穴山氏本知分は除く甲斐と信濃国諏訪郡が河尻秀隆の新知宛行とし武田氏の本拠を押さえとし、滝川一益に厩橋(前橋)城を本拠とさせ、上野と信濃の小県と佐久の2郡を与えた。以後、川中島の海津城に在城を命じられ、越後の上杉景勝攻略の先鋒として森長可に信濃の高井・水内・更科・埴科の北信濃4郡を与え、次の布石としている。毛利秀頼には信濃国伊那郡を知行させた。帰属した国人衆の旧領を安堵し、各家臣団の新知行地に再編入した。
 小笠原貞慶は、府中の小笠原譜代衆をかき集め、金松寺から上諏訪法華寺にいる信長に謁するため駆け付けたが、「御礼罷り成らず」と門前払いされている。木曽義昌の抜群の軍功の前に屈し、僅かな家臣を連れ京に戻って行った。
 天正10(1582)年3月、信長は甲信両州の国掟(くにおきて)を各郡内に発布した。そこに、「国諸侍は懇ろに扱い、油断無き様気遣いす可き事。」とありが、『当代記』には「甲州之国侍、又は武田の家老共と駿河・信州の侍、小山田・山県を初め、悉く誅戮させ、三川(河)菅沼伊豆守父子同菅沼新三郎、去る元亀3(1572)年より信玄に属し、天正3年の長篠の合戦より信州に在国、此の度降参し河尻肥前守を頼り彼の陣中に居りしを、家康自り信長へ言上あり、則生害せられた。諏訪の祝女(はふりめ)は新三郎の妻たりしか、此の事を聞けば則ち子供指し殺し、其の身も自害させ」とあり、一度信長に歯向えば深酷な仕置が諏訪衆などに及んだ。
 一方、「関役所、駒口取るべからざる之事。」とあり、この関所の撤廃楽市楽座の実施により、『信長公記』は「路次の滞り聊か以てこれなし。誠に難所の苦労を忘れ牛馬のたすけ、万民穏便に往還をなし、黎民戸(いんと)ささず、.生前の思い出、有りがたき次第也と、悉く拝し申し候」と自負している。
 信長は東国の処理を済ませ、4月10日、甲斐から帰陣する際、「進退之郡内請取り、作道す可き事。」と笛吹川に橋をかけさせ、安土城への帰還の道幅を広げ、石を除き道筋を覆う大木を伐り倒させた。この処置は信長の大軍団の帰陣の障害を取り除くためであったが、一方、全国制覇のためには道路網が最重要不可欠な基盤整備となる。信長は既に天正2年の暮れに「国々道を作るべき旨」の朱印状を、分国に触れ出していた。『信長公記』は「江川には舟橋を仰せ付けられ、険路を平らげ石を除き大道とし、道の広さ3間に中路辺の左右に松と柳を植え置き、所々の老若罷り出で、水を注ぎ微塵を払い、掃除を致す可き事」と命じた。

6)本能寺の変後の小笠原貞慶
 天正10年6月2日、明智光秀のクーデターにより信長と嫡男信忠の政権は脆くも崩れ去った。信長政権が確立しないまま、特に甲信地区は.再び無主動乱の地となった。各地の旧主が自領の回復を計り、北の上杉景勝南の徳川家康東の北条氏政が旧領主に調略の手を伸ばした。12日、小笠原貞慶は嫡子秀政を徳川家康の人質に差し出して、徳川家康の支援を得て信濃府中に還着した。かつて小笠原長時幕下にあり、府中北方の伊深城主であった後庁(三村)勘兵衛に「今度石伯(石川伯耆守数正)御取成し故、家康御光を以て入国の行、偏にその方覚悟に候」と促し、本意を遂げれば後庁の名義と洗馬3千貫を宛行うとし忠節を促している。更に2日後14日の信濃入国に際し「当家奉行に相加え候」と貞慶は花押状を送っている。しかし長時の弟・叔父小笠原貞種が上杉景勝の後援をうけて信濃に侵攻して深志城を奪還した。景勝は13日には更級郡の清水三河守康徳(やすのり)を初め、16日には市河治部少輔信房など、主として北信の武将に旧領を安堵し、新たに所領を宛行っている。同様の措置として20日には、小幡山城守景虎に花押状、29日には西条治了少輔にも朱印状を与えている。
 その間、景勝は梶田・八代の両物頭に、2百騎を預け深志城攻略に向かわせた。川中島より麻績・青柳・会田などの諸士を降ろし府中に入った。深志城の木曽義昌を攻め破り、小笠原貞種を城主として置き、小笠原氏の旧臣の所領が多い安筑地方を治めさせた。上杉氏は、謙信公以来、他領支配が稚拙で、梶田・八代の両物頭は、なんの施策も無く代官的機能も果たさず、貞種を表に立てることも無く、驕り高ぶり専横な言動を専らにし安筑地方の人心を失っていった。
 結果、安筑地方諸士の輿望を失い、『二木家記』によれば、二木一門や征矢野(そやの)甚右衛門が、起請文を書き有賀又右衛門、平沢重右衛門を使者にたて、三河の徳川家康の許に寄寓する貞慶の信濃府中への還住を願った。先の3月、信長による甲信制圧に際し、小笠原旧臣と安筑地域の諸士と連携がなされるまま無為に時を逸失し、木曽義昌の後塵を拝した。貞慶は最後の好機と知り、事前に書状で安筑地域の諸士の懐柔策をなし、今回は積極的に所領安堵と新知を宛行い、その他の恩賞を約定した。
 貞慶が家康の支援を得て、三河から伊那谷に入り、その地の下条頼安や藤沢頼親の兵を合わせ塩尻に着陣すると、安筑両郡の諸将が既に参集し迎い入れる用意を整えていた。その塩尻で挙兵を宣言すると、7月17日夜明け、安筑の旧臣を率いて深志城を攻略に向かうと、貞種ら越後勢は戦うこともできず退去せざるおえなくなっていた。貞慶は深志城に入ると深志の地を「松本」と改め、城下の整備に努めた。「松本」の地名は貞慶が命名したのではなく、既に深志付近にある一地名として古くからあった。貞慶が「深志城」を「松本城」と改称すると、「松本城」周辺に広く伝播され、その範囲が広がった。

7)小笠原貞慶の深志平定
 30年振りに旧地に復した深志城主小笠原貞慶は、天正10年から11年にかけて、一つは旧臣たちと寺社への所領安堵および寄進、もう一つは反貞慶の態度をとり続ける地侍の討伐に邁進した。前者に関しては、同年8月3日、筑摩郡の犬甘半左衛門久知(いぬかいひさとも)への安堵状を皮切りに、数多くの安堵状・宛行状・寄進状を発行している。深志城に入ったものの、深志から川中島迄の間、即ち子檀嶺岳(こまゆみだけ)の北西、四阿屋山(あずまやさん)、聖山、冠着山(かむりきやま)辺りの筑北地方と安曇から仁科地方小谷迄も上杉の勢力下にあった。徳川家康にしても一時的措置として小笠原貞慶を利用したようだ。反小笠原の勢力が一揆を結び攻撃して来るか、景勝が南下策を採ればひとたまりもなかった。
 現に木曽義昌が深志城を奪還すべく攻撃してきた。貞慶は深志城から果敢に出撃し、義昌を敗走させた。木曽領筑摩郡本山(塩尻市本山)から福島口まで追撃し、日が落ちたため陣中大いに篝火を焚き着陣を装い帰城しょうとしたが、義昌も予想していて、兵を隠して反撃の準備をしていた。その撤退に乗じられ小笠原孫次郎・犬甘治右衛門政信らの重臣が討ち取られている。家康も、これを報らされ、貞慶の軍事力に期待できずとし、8月30日には、北条氏傘下となった木曽義昌に安筑2郡の安堵状を発し靡かせている。家康も、切迫していた。東の北条の動きは速く高遠の保科氏、・諏訪氏・木曽氏などを初め南信地方の諸勢力を臣従させていた。それがため、貞慶を無視し、中でも信濃の最大勢力である木曽義昌を逸早く調略した。
 なお犬甘政信が、7月中旬、貞慶が本山で木曽義昌と戦い、一度勝利しながら帰城の際、背後を襲われ討死したため、犬甘氏の家督は弟の久知が継承した。天正10年7月20日の犬甘久和宛の貞慶の花押状には「犬甘今度本山に於いて討死、比類無に候、然者(しかれば)、彼の跡目其の方相続申付け被る可き候、家来以下引出、弥(いよいよ)奉公為す可き事専用也」とある。
 一方、貞慶も必死で天正10(1582)年8月初旬から、先鋒として犬甘半左衛門久知と塔原城主海野三河守を任じ、仁科一族日岐氏の制圧に向かっている。9日には小笠原頼貞・赤沢・百束(ももつか)ら諸士が率いる後軍が深志を発ち安曇郡の穂高に陣を布いた。一方会田方面には赤沢式部少輔を出兵させ、青柳方面からも牽制させている。
 9月5日には、武田氏旧臣水上六郎兵衛に筑摩郡小松郷を、岩間善九郎には「信州野溝・平田・村井庄之内6百俵、名田被官等事」と安堵している。貞慶は父長時の没落の原因が、その傲慢さ故に家臣団が育成されず寧ろ一族譜代に嫌悪され、その上の戦略の欠如が諸所を破綻させた事を知っていた。
 貞慶は深志城から犀川筋を重視し、特に信州新町の牧之島に着目した。当時は東筑摩郡生坂村にある名勝山清路(さんせいじ)が通じてなく、下生坂からねむり峠を越えて込路部落へ出、大岡村・桐山・後沢、そして日向村・麻績へと大道が通じていた。その道筋を仁科氏一族日岐氏が、犀川沿いに小立野(生坂)地域には川はざま城・中野山城・小池城・高松薬師城、その北方の日岐・上生坂・下生坂にかけては小谷城・日岐大城・猿ヶ城・日岐城(ひき城;東筑摩郡生坂村日岐)・白駒城などで山城や砦で固めていた。兄の日岐盛直は犀川左岸にあった生坂の日岐城主で陸郷(池田町陸郷)に、弟盛武は生坂の万平(まんだいら)に居館を構えていた。
 深志に小笠原貞慶が侵攻し、川中島には越後の上杉景勝が反撃して来た。この時、日岐盛直は弟盛武と共に上杉氏に属したため貞慶と対峙した。貞慶は天正10(1582)年8月初旬から日岐氏征伐を開始した。先鋒の犬甘半左衛門久知と塔原城主(安曇野市明科中川手)海野三河守が出陣した。9日には小笠原頼貞・赤沢・百束ら諸将も出兵し安曇郡穂高に布陣した。一方上杉方の会田・青柳方面からの援軍を牽制するため、会田へ赤沢式部少輔を派兵した。貞慶は日岐氏に対し29日の時点では、「大手口之備え如何にも存分如く候、一両日中に日岐之者ども退散申し候可く候と存事候」と当初は一両日中に落居させると楽観視していた。しかし9月6日付の犬甘氏宛の書状で、明日貞慶自ら日岐に出馬すると伝えている。その後も苦戦が続き、翌天正11(1583)年8月初め頃、「日岐之大城御責め被成(なされ)候御積りにて」、大規模な戦略策が採られた。小笠原貞慶軍は3隊に分かれて日岐軍を攻撃した。本隊は小笠原長継、溝口貞康軍合わせて5手で、会田・板橋・西ノ宮そして庄部の赤岩へ進軍した。第2隊は仁科衆2手で大町・新町そして牧野島口に出て、日岐軍が北上して逃げる際の退路を断つという策であった。第3隊が小笠原貞頼・岩波平左衛門5手と旗本衆20騎が穂高・池田から日岐の北方にあたる草尾に出た。この隊の50騎が、徒歩となり草尾から犀川を船で渡り対岸の日岐崎に上がり20計りを討ち取った。すると後続の兵が続々と犀川を乗り越して日岐衆を追い落とし勢い付いて遂に日岐城を攻略し、万平(まんだいら)の居館も陥落させた。降伏した日岐は、以後は小笠原氏に属した。貞慶は日岐丹波守盛武に天正11年8月7日付けの花押状を渡している。「今度之重恩を為す、押野之内定納万疋之所出置可く候、此旨以て、忠信を抽す可き者也、仍って件の如し。」と、その帰属を許している。天正18(1590)年に小笠原氏が家康の家臣として関東に転封になると同行した。


 天正10年の冬、貞慶は会津若松にいる長時を迎えるため、平林弥右衛門を遣わした。長時は、武田信玄により筑摩を追われ越後の上杉謙信を頼った。その後、一族と共に同族の三好長慶を頼って上洛し、摂津の芥川城に15年間逗留した。権大納言山科言継の日記『言継卿記』に「妾がか所へ罷り向ふ、酒これあり。信濃国小笠原牢人(小笠原長時)、三好方これを頼みて芥川に住す。子喜三郎(貞慶)参会す。」とあり、『信府統記』には「将軍義輝公へ長時弓馬の師範」とある。『信府統記』は、享保年間、松本藩主水野氏の家臣鈴木重武・三井弘篤が主命によって編纂した地誌である。義輝は「鹿島新当流」を創始した「塚原ト伝」から剣術を学び、「剣豪将軍」・「抜刀将軍」と呼ばれた。また晩年には「新陰流」の創始者で剣聖とまで称えられる「上泉信綱」にも師事して、新陰流の免許皆伝も得ていた。それほどの義輝が長時に弓馬の師範を頼むだろうか?江戸期に編纂された小笠原家の家伝の原典まで遡り検証されなければならない。
 貞慶は父長時と共に諸国を牢浪し、漸く三好長慶を頼ったが、それ以降も含めて30余年牢人していた事になる。永禄6(1564)年、三好長慶が病没し、翌永禄7年に将軍義輝が暗殺された。そして永禄11(1568)年9月28日から織田信長に芥川城が攻撃され、30日には落城し、三好氏が没落した。『小笠原歴代記』によれば、長時・貞慶父子は「信長上洛の砌、芥川城没落す。長時51歳。而して越後に御下着す。輝虎別して御懇意により、5百貫宛無役に進めらる。」と再び上杉謙信を頼った。
 長時は天正6(1578)年の謙信死後は越後を離れ、会津の芦名氏の許に寄寓した。その間、貞慶は奥州・関東を流浪した末、天正3(1575)年頃、織田信長に属し越前から関東諸国への使者的な役割を果たしたようだ。天正8年3月23日、信長の重臣柴田勝家が、「其国御滞留」と記される越中にいる貞慶に、当国の武将の帰属を働き掛けるよう要請している。翌天正9年10月15日には、信長が越後へ出兵しようとして家臣の富田知信に送った書状に「猶貞慶申し可く候也」と、それを届けた貞慶に詳細を聞くよう命じている。
 その貞慶が漸く本領を回復した事を知り、長時は大いに欣喜したが、69才との高齢であば、陸奥の冬の峠越えは耐えがたく、翌春府中に帰ると使者平林弥右衛門に書状を託し帰した。
 翌天11年3月貞慶は、再度平林弥右衛門を迎えに遣わせた。しかし既に、府中帰府の準備していた長時が、その最中に怨恨を抱いていた家臣坂西弾右門に暗殺されていた。府中の正麟寺(松本市蟻ヶ崎) を父長時の開基として、その菩提を弔った。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/sada/sa.htm

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