2016年4月1日金曜日

会津富田氏



会津の戦国大名葦名氏の重臣のうち、松本・平田・佐瀬そして富田の四氏はとくに「四天の宿老」と称された。富田氏の祖は『旧事雑考』によれば、会津で最古 の寺院という耶麻郡磐梯山の慧日寺(恵日寺)の寺侍であったと伝えられ、土着の国人領主であったと推測されている。そして古代の安積臣の後胤とされ、安積 郡富田に住したことで富田を称するようになったのだという。
 一方、富田氏は藤原南家伊東氏族とする説もある。すなわち、安積郡富田村より起こり、富田館に拠ったのが始まりいわれ、『伊東家譜』には「伊東大和守祐 盛、享禄三年秋、富田に移り住む。これ富田伊東の祖なり」とみえている。 たしかに、富田氏の代々の名乗りを見ると、工藤氏の通字である「祐」の字を用いていることから、工藤氏説もうなづけるところがある。

葦名氏に仕える

 富田氏が葦名氏と関係をもったのは、貞応元年(1222)のことと伝えられている。葦名氏の二代光盛は弟の盛時とともに慧日寺に花見に出かけたが、そこ で、慧日寺の有司漏祐と出会い、葦名氏に仕えることをすすめた。しかし、漏祐は固辞して受けず、自分に代えて一子千松を出仕させた。千松は元服に際して葦 名氏の重臣平田益範を烏帽子親として「範」字をもらい範祐と名乗り、葦名氏の家臣となったのである。範祐の子暢盛は弘長元年(1261)十三歳で光盛の子 泰盛に拝謁し、正応三年(1290)泰盛の命で国政に参加するようになった。
 暢祐の次男祐義は葦名泰盛・盛宗父子に仕えて、文保元年(1317)盛宗の命を受けて鎌倉に上り、執権北条高時に謁した。正中元年(1324)にも鎌倉 に上っており、富田祐義は葦名氏の外交官的役割に任じていたようである。それらの功によってか、祐義は元徳元年(1329)大沼郡の西部十二ヶ村を給わ り、下荒井に館を築いて居住した。この祐義の代に鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の内乱期を迎えた。
 延元二年(1337)、奥州南朝方の中心である北畠顕家と奥州武家方の領袖吉良貞家が安積郡で戦った。この戦いに際して葦名盛宗は富田祐義を北畠方に参 陣させ、祐義は吉良方の首級十二を取ったものの、三人の討死を出した。これより前、祐義の子宗祐は建武二年(1335)の中先代の乱で討死している。南北 朝の内乱において、富田氏も安穏とはしていられなかったのである。
 室町時代中期のころ、富田種祐は葦名氏から氏祐を養子に迎えて家督を譲った。室町時代、葦名氏は家中の反乱に悩まされることが多かった。とくに、葦名一 族の猪苗代氏、葦名四天の一である松本氏らの反乱が繰り返された。明応元年(1492)、大沼郡永井野の松岸館の館主松本藤右衛門が葦名盛高に謀叛を起し た。葦名氏から出て富田氏の家督を継いだ氏祐は室を松本氏から迎えており、子の頼祐は松本藤右衛門とは従兄弟の間柄にあり、富田頼祐は藤右衛門に加担して 盛高を攻めた。しかし、松本氏の謀叛は盛高の反撃によって敗れ、頼祐は次男の祐道ともに戦死した。

奥羽の戦国時代

 十六世紀になると左近将監滋実が登場してくる。滋実の名乗りは葦名盛滋の一字を拝領(偏諱)したものと思われ、記録のうえでは天文七年(1538)の黒 川城下大火のときから確認できる。天文十年、猪苗代盛頼が叛乱を起したとき、鎮圧軍を率いてその討伐に出陣した。ついで、永禄九年(1566)輝宗の妹と 蘆名盛興が婚約したとき、起請文に署名している。その後の元亀二年(1572)から、滋実の男と思われる美作守氏実が登場してくることから滋実はその前後 のころに死去したようだ。
 美作守氏実の氏は蘆名盛氏の偏諱と思われ、葦名氏の重臣として佐瀬・松本・平田・富田と並ぶ勢力を誇った。天正六年(1578)、大槻政通・山内重勝らが乱を起したとき、氏実がその鎮圧に向かい乱を制圧した。
 ところで、このころ信濃の戦国大名で武田信玄に敗れて放浪の身となった小笠原長時が、葦名氏を頼って会津に寄寓していた。天正十年、長時は会津において側近に暗殺されたが、その事件は富田氏実の館で起ったという。
 葦名氏は盛氏の代に最大の勢力を築きあげたが、盛氏の晩年のころから次第に凋落の色を深めていった。すなわち盛氏の隠居を受けて葦名家督となった盛興が 早世し、そのあとを継いだ盛隆も家臣に暗殺され、その子亀王丸も天正十四年に夭逝してしまうというように相次いで当主が死去した。亀王丸の死で当主不在と なった葦名氏家中では、伊達政宗の弟小次郎を推す派と、佐竹義重の子義広を推す派とに分かれて対立した。このとき、美作守氏実は伊達派に属したが、結果は 金上盛備の扱いで義広の入嗣となった。

摺上原合戦、葦名氏の滅亡

 以後、葦名氏の家中は混乱が続き、伊達政宗の南奥州への進攻作戦が進められるなど、葦名氏の周辺は予断を許さない状況となった。そして、天正十七年、伊 達政宗は会津侵攻を開始し、郡山表に出陣していた義広との間に戦機が漲った。六月、伊達軍と葦名軍とは猪苗代湖の北方に広がる摺上原において対峙した。伊 達軍二万三千に対して、芦名義広の率いる葦名軍は一万六千であった。この戦いに際して氏実は嫡子の将監隆実、佐瀬氏を継いだ次男の常雄、三男氏積らととも に出陣した。(一説に、氏実自身は黒川城留守居であったともいう)
 戦いは兵力に劣るとはいえ将監隆実の率いる葦名軍先鋒は、猪苗代盛國の軍勢を破り、さらに二陣の片倉景綱をも破るなど伊達勢を押しまくった。しかし、葦 名軍は先の家督争いによる動揺が払拭されていず、その足並は乱れていた。そこへ、追い風が逆風に変り、葦名軍の間に流言飛語がとびかい、ついに葦名軍は総 崩れとなったのである。この合戦に佐瀬常雄は金上盛備とともに奮戦のすえに戦死、弟の氏積も戦死している。
 敗れた義広は黒川城に帰ったが、平田左京らが不穏な動きを見せたことから、ついに常陸の実家へ走った。ここに戦国大名葦名氏は滅亡した。その後、隆実は義広を追って常陸へ遁れたが、翌年、義広が二本松畠山義綱を討ったことで、義広から離れ相馬氏に仕えたといわれている。
 江戸時代の伊達氏の家臣の記録である『伊達世臣家譜』をみると、富田氏がみえる。この富田氏は富田滋実の次男氏繁を祖とすると伝えるが、滋実の次男は佐瀬氏を継いだ種雄であり、伊達家中富田氏の所伝は疑わしいものといえよう。


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