2014年10月11日土曜日


■古樹紀之房間


嵩山(嵩岳)は、上古中国の羌族・殷族が崇拝した聖山で、古く泰山に次ぐ中原第二の高山(標高一四四〇M)であり、中原の西側の河南省(洛陽の東南の登封県北部で、黄河の南岸)にある。わが国でも、出雲や周防大島、三河等に同名の山が数か所あり、「だけさん」と訓まれる。これが音通する岳山、御嶽山、御岳山としても同じもので、これらの山名はわが国に多い。わが国では嵩山忌寸という姓氏も見え、これを賜姓した孟氏・張氏ともに、姫姓周王室一族の後裔と称した者が名乗った氏であった*23。この周王朝の遠祖が后稷以来、稷官(中国上古の夏王朝の農政責任者)の地位にあり、代々世襲したと伝えられる。周の出自は北狄系であったと白川静氏がみているが(『中国の神話』*24)、むしろ東夷(西戎)の色彩が強いようであり、ないしは東夷・北狄の混合の可能性もあろう。『春秋左氏伝』(成公十六年条)に見える呂の夢を占う記事には、「姫姓は日なり、異姓は月なり」という言もある。「稷」とは五穀の一つ「たかきび、コウリャン(高粱)」のことで黍(きび)の同種であり、粟に通じて、もと北東アジアの民族が主食としたものであった。仰韶期文化の著名遺跡、半坡村の聚落遺跡(陝西省西安付近で、周の本拠の付近)では、彩陶とともに大量の食用・種子用の粟が出土して、粟が主穀であったらしいとみられる。
 また、北狄系の夏王朝の先祖・鯀は崇伯と呼ばれるが、嵩山と関係があるかもしれないと白川氏が述べる。鯀・禹親子には熊となった伝承があり、禹の子の啓は嵩山の石から生まれたといわれ、扶余の王・解金蛙も石から生まれたと伝える。
 天山のある大興安嶺の東方地域については、田中勝也氏の記述も注目される。氏は、『孟子』告子篇にいう黍しか生育しない貊の地とは、大興安嶺東部の平野部であり、これこそが貊族の故地とみている(『環東シナ海の神話学』一七七頁)。そうすると、ここは烏丸の地でもあり、烏丸・鮮卑と貊・扶余との同族性が窺われるが、田中氏は、騎馬民族とされる「烏桓も、まずしくはあるが一定の定着農業を営む社会を併せ持っていたのである」と記述する。

[出典]
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku2.htm


0 件のコメント:

コメントを投稿