2014年10月11日土曜日


弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)は、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、の帝室の後裔とされる[1]。伝説上の人物であり、実在は不明である。

帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した[2]
弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波陁姓を賜ったとする。)その後の子孫は氏姓に登呂志公秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。
日本三代実録元慶七年十二月(西暦884年1月)、惟宗朝臣の氏姓を賜ることとなった秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本らの奏上によると、功満王始皇帝十二世孫である。(子の融通王は十三世孫に相当。)
弓月君の子孫は各地の秦氏の流れへと繋がる。離散・弱体化の進む中で、雄略天皇の御代に秦酒公が一族を再結集させ、確固たる勢力を築いたとされる。(詳細は秦氏を参照のこと。)
弓月君は朝鮮半島を経由しているものの、秦氏の系統は『新撰姓氏録』において「漢」(現在でいう漢民族)の区分であり、当時の朝鮮半島の人々である高麗(高句麗)、任那百済新羅とは区分を異にしている。当時の朝鮮半島における漢人の存在と現代韓国人との関係性は未だ解明されておらず、従って、秦氏と現代韓国人とを結びつける議論にも明確な根拠があるとは言えない。 ちなみに「漢」というのはあくまでも後世の分類上の表現であり、秦帝室の家系の起源は現在でいうところの漢民族の形成よりも以前のものである。(詳細は漢民族を参照のこと。)
『三国志』魏書辰韓伝によれば朝鮮半島の南東部には古くから秦の亡命者が移住しており、そのため辰韓秦韓)と呼ばれるようになったという。(詳細は辰韓を参照のこと。)『宋書』倭国伝では、通称「倭の五王」の一人の珍が元嘉15年(438年)「使持節都督百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称しており、明確に秦韓を一国として他と区別している。その後の倭王の斉、興、武の記事にも引き続き秦韓が現れる。弓月君の帰化の伝承は、この辰韓秦韓の歴史に関係するとも考えられている。さらに後の『隋書』においては、日本列島に「秦王国」が存在したとする記述があるが、その実態に関しては意見の分かれるところであり、結論は出されていない。
五胡十六国時代族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたという説もある[誰?]。この説に基づくと、弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。
中国の西、ウイグル、カザフスタンの辺りに弓月国(クンユエ)という国が存在しており、そこからはるばる日本に渡ってきたという、佐伯好郎説も存在する。



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