2014年10月11日土曜日

正一位諏訪大明神社

府城の東北 坂本村にあり 祭神二坐 其の一坐は 建御名方命 是を上社と称し 一坐は事代主命を 下社と称し奉り 上社を左位に崇め 下社を右に崇め 左右これを合殿に安ず 例祭毎年五月五日 是」を五月祭と云 七月弐八日 此日大祭也 當社は、 鹿児島の總廟にして 鹿児島五社の第一也 外四社を 祇園社 稲荷神社 春日神社 若宮神社 とす 信濃國諏訪大明神を 迎えて勧請す 今其来由を釋るに 文治二年丙午正月八日 鎌倉右大将源公 我大祖得佛公を 信濃國藍田荘地頭職に補せられ 斯年、又島津御荘 薩摩・大隅・日向 三箇所の總地頭職に補任せらる 五年己酉 右大将源公 陸奥國押領使蓁衡を 征伐し給ひし時 得佛公御年十一歳 命を蒙りて副将軍となり 前軍に都督たり 此時深く信濃國諏訪大明神神に 斎祷し給ひて軍利あり 功成りて凱旋し給ひけり 承久三年、辛己五月八日 公又信濃國太田荘地頭職に補せられ給ふ 是より道鑑公に至り傅領し給ふ 公遥に神恩を仰ぎ 祖徳を追ひ 信濃の本社の神霊を 薩摩國山門院に勧請し 尊んで總社となし給へり


諏訪神社は、鎌倉武家集団の間で「諏訪詣で」が盛んであったと伝う。
旧島津藩に諏訪神社が多数鎮座されているのには それなりの背景がある。

http://yorihime3.net/jisya/suwa_kagoshima.html
http://yorihime3.net/jisya/suwa.html


なぜここに「諏訪」を勧請したのだろうか。 
「諏訪」と言えば「龍神」、水害・水難からだろうか。
 海岸縁で且つ河川もある。洪水や津波の被害を推察するが。 この神社の西方には、稲荷川を挟んでお城があった。
城下町に、島津の崇拝する諏訪神社を勧請するのは 至極当然の成り行きだろう。

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