2023年11月30日木曜日

宇合頼資

『東作誌』所収の有元家略系図にも次のような記述があり、先の記述と一致する。

(略系図ここから)仲頼(菅四郎 高円村大見丈城主)

→公資(実筑後守藤原頼資子 母二階堂維行女)

→公継(頼資二男公資弟)

→満佐(仲頼実子改兼真三穂太郎名木山城主、妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流祖也。)(略系図ここまで)

※注釈1-2a:『東作誌』

正木兵馬輝雄著。文化12(1815)年成立。著者の正木輝雄は津山藩士であり、元禄4(1691)年成立の地誌『作陽誌』(江村宗晋撰;長尾隼人勝明編。美作国の西6郡のみで未完に終わっている)を補うため、東6郡(東南条、東北条、勝北、勝南、吉野、英田)の地誌として編纂された。異本が多数存在するが、本稿は『新訂作陽誌』全8巻(作陽新報社刊)所収のものを参考にした。

これらによると太郎の母はもと二階堂姓であり、保元の乱の折、敗れた新院(崇徳天皇)側に与していたため作州へ配流された最初の夫藤原(宇合)頼資とともに奈義の地にやってきたことになっている。(注釈1-2aここまで)

※注釈1-2e:満佐の子孫が有元姓を名乗ったのは、名木(那岐)山のふもと[元]に[有]ったからとも、宇合氏の血が入ったため(宇合・有元とも、音読みではウガン)ともいわれている。(注釈1-2eここまで)


その後夫は亡くなり、太郎の母は二人の息子公資、公継を連れて有元氏に嫁ぐことになるが、そこで生まれたのが太郎丸、後の三穂太郎満佐である。

つまり、仲頼にとって初めての実息が満佐であり、三男満佐の幼名が長男をあらわす「太郎丸」であることは、そのあたりの事情によるのだろう。

有元家略系図の名が出てきたので系図中、「外祖」とされる人物についても少し触れておくと、満佐が藤原千方(ふじわらのちかた)から仙術を伝授され、自在に空を飛んだという記述がある。

藤原千方は『太平記』巻十六日本朝敵ノ事によれば、

天智天皇の御宇に、藤原千方と云ふ者ありて、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼と云ふを使えり。伊賀、伊勢を押領し、為めに王化に従ふものなし。因りて紀朝雄・宣旨を奉じて下り討ち、千方遂に殺さる。

※注釈1-2f:天智天皇の御宇→金勝院本では、恒武天皇とされる。(注釈1-2fここまで)


また『准后伊賀記』に

藤原千方朝臣・村上天皇の御宇、正二位を望みしに、其の甲斐なくて、日吉の神輿を取り奉つて、伊賀国霧生郷へ籠居す。紀朝雄と云ふ人・副将軍となりて之を討つ。


とあり金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼の四鬼の力を操り朝廷に反逆し、伊賀伊勢両国を支配したといわれる伝説の人として、『太平記』では平将門、平清盛らに比肩される朝敵の一人として挙げられている。

※注釈1-2g:『尊卑文脈』によれば、藤原秀郷(ムカデ退治で有名な俵藤太である)の孫に千方という人物があり、村上天皇の治世とほぼ一致する。ただし、知られる限り正史にはこの千方が反乱を起こしたという記録はない。(注釈1-2gここまで)


千方は天智天皇(662~671)の御宇の人とも平安時代の人ともいわれ確かなことはわかっていない。どちらにしても太郎の生きた鎌倉時代とは隔たりがあるが、朝廷軍を退けるほどの方術の持ち主であるから、異常な長寿であったとされたのかもしれない。

ちなみに千方が使役した四鬼は、式神(しきがみ。陰陽道で術者に使役される精霊。識神とも)とも忍者ともいわれている。

話を戻そう。

満佐、改兼実号三穂太郎名木山城主妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流之祖也

満佐其性質太ダ魁偉而博学外祖藤原千方之飛化術常登干名木山修伝事妖怪飛行・・・


有元家略系図で千方は「外祖」と呼ばれている。はじめ母の前夫藤原氏と同姓であることから、その父親(満佐の祖父)とも考えたが、外祖は外祖父、つまり母方の祖父をあらわす言葉であり、つじつまがあわない。

母方の二階堂氏との関係も考えたが、先に述べたように系図上母方の祖父は二階堂維行である。

仮に千方が父方に連なる人物であるとすれば、兄にとって血のつながった祖父、母の義父であり、満佐にとっても血縁関係こそないもののつながりのある人物という程度の意味で「外祖」と表現されているのかも知れない。

あるいは二階堂氏は元をたどれば藤原姓であるから、同姓の千方に仮託して太郎の不思議な能力を権威づけしようとしたとも考えられる。

※注釈1-2h:『美作太平記』などによれば、宇合頼資の先祖は俵藤太とされており、そこに連なる千方(1-2gでいう朝敵でない方の)とも系図上つながることになる。同姓同名の千方どうしを二重三重にひっかけているのかも知れない。(注釈1-2hここまで)

(2-2節ここまで/第2章ここまで/閑話休題(1)につづく)

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