2023年11月30日木曜日

赤松久範

 菅原朝臣三穂太郎満佐亦三歩太郎兼実とも號す。菅原菅家は其先右大臣菅原朝臣道真公七世の裔孫、菅原朝臣従四位下知賴公、承暦元年美作守として下向、豊田庄に住するに仍て興る。其嫡菅秀才眞兼は美作国押領使となり、其嫡尚忠亦號是宗は民部介、その勢は国府を席捲す。室久米錦織郷秦豊永の女、亦、室の姉は久米押領使漆間時国の室也。尚忠の嫡民部介菅四郎仲賴は開発領主として高円邑に大見丈城を築き、近郷の武士団を糾合、美作菅家党の基盤を創る。三穂太郎満佐公は其嫡として養和元年誕生、母は二階堂藤原維行の女、長じて知仁勇萬人に優れ、在地で朝臣となり京都禁中を守護し玄蕃頭に任ぜらる。亦美作守として治世其武威は遠く備前備後備中亦因幡播州にも及ぶ。室豊田右馬頭の女、天福二甲午九月十五日に赤松久範佐用の地に戦闘死、行年五十二才。後頭は三穂明神に右手は梶並の右手明神と足は因州智頭の河野明神として祭られ、亦荒関明神杉明神三崎明神諾明神として崇敬、これ等は美作太平記作陽誌赤松氏文書津山市史中世編等によって知る事が出来る。満佐公の嫡有元筑後守忠勝、廣戸豊前守佐久、福光伊賀守周長、植月豊後守公興、原田日向守忠門、鷹取備前守佐利、江見丹後守資豊、亦説に弓削佐渡守忠文、垪和越前守資長、菅田志摩守佐季を加え、美作菅家党は夫夫を祖として累代団結親交を強め、文永弘安の役は鎌倉幕府御家人として博多に遠征、元弘建武の乱には帝を奉じ国難に殉じ党族を挙げて忠戦、尓来幾星霜戦国群雄割拠の時も他族からの侵掠を許さず、栄枯盛衰平成の御宇迠、一族繁栄し党族八十八氏家を数う。茲に満佐公生誕八〇〇年を記念し顕彰記念像を建立、公の遺徳を讃え後世に伝う。

菅原道真七世の孫という知頼であるが、おそらくは道真-高視-雅規-資忠-薫宣-持賢-永頼-知頼と続くとするのだろう。知頼からはこうだ。知頼-真兼-尚忠-仲頼-満佐と続く。道真公を初代と数えれば12代目となる。その満佐を祖として菅家七流が栄えていく。中世美作を代表する武士団、美作菅家党である。

満佐が赤松久範と戦って敗死した天福二年は1234年である。赤松久範は有名な赤松円心の祖父に当たる人物である。


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