2015年1月8日木曜日


長沼城(長野市穂保)
 長野市中心部から須坂市方向に向かうと千曲川にかかる村山橋があるが、ここの北1㎞が城址南端。
 完全な平城であるが、何しろ横は千曲川であり、何回かの洪水を受け、また、千曲川の新堤防建設で城域の一部が河川敷となったため、ほとんど何も残っていない。
 現在は住宅と果樹園が広がるばかりである。
 北側の貞心寺から南側の勝念寺までの1.5㎞が城域であったという。城下を取り込んだ総構を持っていたといい。現在の長沼の集落内を走る道路も昔のままとのことである。
しかし、余りにのどかな田舎の田園風景である。そんな大きな城の存在はとても信じられないというのが本音である。 
       

始めは島津氏の城であったというが、当主、島津淡路守忠直(月下斎)は天文22年(1553)越後に逃れる。
(その後、月下斎は上杉方の先陣として川中島の戦いに係り、天正10年(1582)遂に長沼城への復帰を果たす。
しかし、上杉氏の会津への移封に同行し岩代長沼で7000石を得る。最後は米沢に移る。)

川中島地方が武田氏の手に落ちると、飯山地方への進出とこの付近の統治の中心地として整備される。
どちらかというと領地支配のための政庁的性格が強い城であったと思われる。
武田氏が織田氏の攻撃で危機に陥ると上杉軍が長沼城に援軍として入る。

島津氏の復帰した時代を経て、江戸時代は松平直輝が松代城に入り、山田長門守が城代として入った。
その後、佐久間氏が入り18000石の長沼藩となるが、元禄元年(1668)廃藩となり、その時点で廃城になった。

[出典]
http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima1HP/naganoheitijoukan2.htm

会津比売神社



●松代の古名・海津という地名の起源。
 史実と証明できるものではありませんが、『松代町史』(上巻)第二節には、この地の産土神(うぶすながみ)と伝わる皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神 社)の祭神で、諏訪の健御名方命(たけみなかたのみこと)の子でこの地の開拓を任じられた出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)と、その御子である斎 場山(旧妻女山)の麓にある会津比売神社の祭神・會津比賣命(あいづひめのみこと・出速姫神)の、會津(あいづ)または出(いづ・伊豆)が転訛して海津と なったという説が記されています。

 延喜元年(901年)に成立した『日本三代実録』には、貞観二年(860年)に出速雄神に従五位下、貞観八年(866年)に會津比売神と妹の草奈井比売 命に従四位下を授くとなっています。その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)に従五位上に、元慶二年(878年)に正五位下を授くとなっています。当 時の埴科郡の大領は、諏訪系統の流れを汲む金刺舎人正長であったため、産土神としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。金刺舎人正長 は、貞観4年(862)に埴科郡大領外従7位に任命されています。[信濃史料]

出速雄命の父、健御名方命は、大国主命の子ですから出雲系。出速雄命の出は、出雲の出。出雲=伊豆毛(日本書紀)=伊都・伊豆志=伊豆。イヅ=厳で、斎み 清めること。『古事記』のみに記されている伊邪那岐命の禊(みそぎ)によって生まれた神々のひとり、伊豆能売(いづのめ)神が元か。伊豆能売を祀る神社は 現存しないため「埋没神」ともいわれています。
 会津とは、崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ 遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。 『日本書紀』
 相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
 この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。なぜ父出速雄命は娘に会津比売とつけたか。

 里俗伝によると、皆神山の小丸山古墳が出速雄命の、斎場山の斎場山古墳が會津比賣命の墳墓ということですが、しかし、古墳様式から推察される年代、及び 発掘調査から、古墳は7世紀のものといわれているので、両命の墓ではないように思われます。あるとすれば、もっと古い年代の前方後円墳などではないでしょ うか。
小丸山古墳は、ずっと下って飛鳥時代の第三十四代舒明天皇(在位:629-641)の皇子・古人大兄命(ふるひとおおえのみこと)の墳墓ともいわれてお り、大化の改新に至る皇位継承争いの末に吉野を逃れてこの地に落ち延び、皆神山を開いたという里俗伝もあります。
 そうなると、積石塚古墳群と同様に古墳時代後期のものということになります。実際は吉野で殺害されたといわれていますが。小丸山古墳の側には、古人大兄 命の子の墓といわれる大輪王墳墓があります。古人大兄命は、大化の改新の首謀者?である中大兄皇子(後の天智天皇)の異母兄です。古墳の築造年代とも合致 するのでありえない話ではないということになります。

 斎場山麓の會津比賣命神社は、同名の社がどこにもない極めて特異な神社です。會津比賣命神社は、往古は山上にあったが(御陵願平か)、川中島合戦の折に 上杉謙信が庇護していたため武田信玄により放火され、その後斎場山の麓にひっそりと再建されたとの里俗伝があります。
 金刺氏は、欽明(きんめい)天皇( 539 ~ 571年在位)に仕え、大和国磯城島の金刺宮に由来するものです。金刺氏は諏訪下社の大祝(おおほうり・シャーマン)であり、中世に上社大祝によって追放 されるまで存続しました。屋代遺跡群出土木簡には「他田舎人」や「金刺舎人」の名が見られます。



 [出典]
http://www41.tok2.com/home/capino/mori/mori04/04_08_14hayashi/m07.html

島津家文書


東京大学史料編纂所所蔵島津家文書の情報化



島津家文書の概要
山本
博文
:
東京大学史料編纂所
1.
島津家文書の概要
 島津家文書は、旧薩摩藩主島津家重代相伝の文書で、東京大学史料編纂所
(
以下、本所と略
)
に残る
「物品管理通知書」によれば、昭和三十二年十二月二十日に本所が島津鑑康氏から
購入したものである
総点数は一万七千点余
その他島津家本と称する写本類約六千五百点、
及び薩摩藩の史官伊地知季安
・季通父子の編纂した
『薩藩旧記雑録』前編
・後編
・追録
・付録
計三百六十二冊がある
時期は平安時代から幕末維新期におよび
わが国武家文書の白眉とい
われる。
 島津家文書のうち黒漆塗箱に収納された文書は
一九九七年に国の重要文化財に指定された。
内訳は、手鑑七帖、巻子二百三十八巻で、文書総数は五五七八通である
(
別表1参照
)
。内容は、
源頼朝下文を含む始祖島津忠久以来の歴代の中世文書と十五代貴久以来本宗家を継いだ伊作
島津氏の中
・近世文書を中心とする
。これらの文書の内、手鑑仕立てのものは、島津家にとっ
ての最重要文書である。
『歴代亀鑑』二帖は、源頼朝
・足利尊氏
・織田信長らの文書、
『国統新
亀鑑』一帖は、徳川家康書状および御内書、同秀忠
・家光の御内書の一部、
『宝鑑』二帖は、
関東下知状
・鎮
西下知状などの鎌倉幕府関係文書、足利尊氏
・同直義らの御教書
室町幕府奉
行人奉書などの鎌倉
・室町時代の重要文書、
『手鑑』二帖は、近衛前久ら近衛家よりの書状類
を収めている。
 その他は
鎌倉期
・室町期の文書も含めて巻子仕立てにされている
。量的に大部分を占める
のは
戦国期以降の近世島津氏に関わる文書で
薩摩藩第二代藩主島津光久の文書までが巻子
仕立てにされ、
『御文書』と外題が付されている。以上の文書は、受け入れ当時、計十九箱の
黒漆塗の箱に収められていた。
 それ以後の文書は白木箱
・大箱
・中箱
・小箱
・長持などに収めら
れ、原本の形がよく保存さ
れている
(
別表2参照
)
。また
『島津家世録正統系図
などの系図や国絵図なども伝存している。
さらに、江戸時代に島津家に入った町田
・樺山
・比志島
・二階堂など家臣諸家の中
・近世文書、
台明寺
・福昌寺
など寺院文書
なども含んでいる。
 東京大学史料編纂所では、
『大日本古文書』のシリーズで
「家わけ第十六
島津家文書」と
して
『歴代亀鑑』
『国統新亀鑑』
『宝鑑』などの手鑑、及び
『御文書』の一部を刊行している。
 島津家本は、明治二十一年七月、宮内大臣より編纂を命じられた
『島津家国事鞅掌史料』及
びこれを編纂するために蒐集
・作成した写本
・刊本類を中心に、その後の島津家家史編纂所で
蒐集
・作成された写本等も納めている
本所では
、伝来の違いから島津家文書とは別置してい
る。
 
 
2
島津家文書伝存の事情
 島津家文書は
藩政時代には非常時持ち出し可能なように鹿児島城本丸御番所に置かれてい
たが
明治四年廃藩置県後
鹿児島城三の丸内御厩の裏手
「岩崎六ヶ所御蔵
に収納された
(
味克夫
「薩藩史料伝存の事情と事例」
『鹿大史学』第二十七号
)
。藩政史料については
、明治五
年夏、大山綱良が鹿児島県令の時、
「旧習が脱けぬと云う所から、藩庁
の家老座
・大監察局
其他公用帳簿類、土蔵に詰めて有りましたのも
悉く綱良が指揮で焼き棄て」られた
。また江
戸藩邸の帳簿類も
慶応三年十二月二十五日
庄内藩ら幕府側諸藩が三田の薩摩藩邸を焼き打
ちした時に全焼している
(
「市木四郎君講演」
『史談会速記録』第三輯
)
 明治十年西南戦争の際
西郷隆盛ら私学校党が東上して留守の鹿児島に征討参軍川村純義率
いる政府軍の軍艦十二艘が入港し、兵員を上陸させ鹿児島城下各地に哨兵線を張った
(
四月二
十七日
)
。肥後にあった西郷軍は、急遽兵を分かちて鹿児島に馳せ戻らせ、要害の地に陣を張
った
御厩地域は政府軍の占領下にあり
島津家歴代の文書を保管してあった岩崎六ヶ所御蔵
は、御厩の裏手であったから、まさに戦地の中央に位置した。
 島津家文書の焼失を恐れた島津家家令東郷重持は
五月三日
田ノ浦に置かれた政府軍本営
に行き、川村純義に面接して
島津家文書転送の許可を願った
。元薩摩藩士の川村はこれを了
承したが
翌日未明には西郷軍への攻撃を敢行する予定となっており
御厩政府軍陣の東門の
番兵は門を開くことを拒絶した
東郷は
東門より北門へ移ったが
ここでも同様に拒絶され、
「退カスンバ軍法ニ処シテ汝ヲ斬ラン
」と恫喝される。東郷は、
「斬ルベケレバ斬ラレヨ、余
ハ決シテ身命ヲ惜シム者ニアラス
島津家ノ文書ヲ惜シム者ナリ
故ニ主命ヲ奉シ之ヲ全フセ
空シク帰リテ何ノ面目アリテ再ヒ復命センヤ
余ハ島津家ノ文書ト共ニ死セハ遺憾ナシ
(
)
」と死を賭けてその場に留まり
ついに番兵も隊長に取り次ぎ
、塁内に入ることを許され、
文書の搬出を認められた。以下、その時の記録
(
「磯島津家日記」明治十年五月三日条
『鹿児
島県史料 西南戦争』第三巻
)
である。
  東郷大ニ悦ヒ謝シテ乃六ヶ所御蔵ヲ開扉シ、御文書箱惣数七十九個ヲ出ス、官兵剣ヲ抜
  テ箱ヲ破リ中ヲ改ム、東郷モ故サラニ進出シテ一、二個ヲ打破リテ正物ナルヲ示ス、検
  査ノ官兵最可シト曰テ引渡ス、時ニ庁下到処既に兵線ヲ張リ道梗テ通セス御文書ヲ御邸
  ニ致スコト能ハス、故ニ東郷ヲ始メ同列凡ソ五拾名計リ各自担荷シテ竊ニ市下上行屋海
  岸桐野孫太郎カ宅ニ護送シ夫ヨリ一船ヲ傭テ積載シ、之ヲ桜島ヘ回漕ス、高島及ヒ其他
  ノ人員警衛渡海ス、東郷ハ直ニ帰邸シテ復命ス、是御家無二至重ノ御文書及御系譜無欠
  完全タルコトヲ得ル所以ノ事実ニシテ亦タ県下兵乱中ノ一大苦難事ナリ、
 この時存在した
御文書箱惣数
」は七十九個
東郷以下五十名ばかりが各自担いで上行屋海
岸の桐野孫太郎宅に搬出し、船を雇って桜島へ回漕した。桜島には、同日、旧主島津久光
・忠
義父子が避難していた
。東郷は
この七十九個を搬出したことをもって
「御家無二至重ノ御文
書及御系譜無欠完全タルコトヲ得ル
と誇っているから
明治期に伝存していた島津家文書の
中枢部分はここで運び出されたと考えてよい
その後
明治二十三年頃東京袖ヶ崎邸に移送さ
れ、一部は鹿児島の磯邸に残された。
本所に受け入れた時の文書箱総数は九十一
この時搬出された島津家文書がほぼ現在本所に
ある島津家文書にあたると思われる
十二箱という箱数のズレについては不明であるが
少な
くとも
「御家無二至重ノ御文書及御系譜
がほぼ完璧に残され
、本所に入っていると思われる。
なお、箱そのものについてはほぼ保存されているが
大破しているものもあり
すでに箱が存
在しない番号だけのものもある。
 

[出典]
http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-1/mokuji/3401.pdf

忠恩寺


創建は永禄2年(1559)、長沼城主島津淡路守の招きで貞誉秋応が開山したのが始まりと伝えられています。
慶長6年(1601)に現在地に移転後、歴代飯山藩主に庇護され、その中でも菩提寺とした松平氏と本多氏からは寺領などを寄進されるなどしています。

境内には本堂、庫裏、山門、鐘楼、地蔵などの他に歴代松平氏と本多氏の墓所があります。

[出典]
http://www.miyukinojc.jp/pmap/explanation/iiyama/i21_chuonji.html

続藩翰譜後御事蹟/白井吉郎重高著



■続藩翰譜後御事蹟/白井吉郎重高著

 荘内藩主酒井左衛門尉忠徳、天明八年二月七日、東海道川々堤防疏通の助役を被命、役終て同三月九日時服を賜り、家人等も白銀時服を下り賜りぬ、寛政八年侍従に任ぜられ、同九年大納言家(家慶)御元服の有し時、京都の御使を奉る。(享和三年五月、甲州川々浚防の助役を被命、役終て同年十二月朔日時服を賜ふ、家人等又白銀時服下し賜る、)頃学校を経営して家人等に物学ばせん事を請奉りて御許しを蒙る、文化二年九月、病に依て致仕し、右兵衛佐と称し同九年九月十八日五十八歳にて卒す。

 嫡子忠器初名新太郎、享和元年十一月十五日初て将軍家(家齋)に謁し奉り、同三年叙爵して摂津守に任じ。文化二年九月二十五日家継で左衛門尉と召さる、同四年六月、蝦夷地島々異国船來侵しぬ、箱館奉行羽太安芸守より人数を被請、則物頭二人に足軽を遣しぬ。同年十二月、四品に叙し、文政四年侍従に任ぜられ、同五年右大将家(家慶)の為御使京都へ被遣。天保三年十二月、溜詰の格に被成。同四年十一月二十日溜詰を被命。同八年九月京都え御使として被遣。同年少将に任ぜられる。同九年三月西城御造営の助役を命ぜられ役終りて同十二月六日時服を賜ふ、家人等又白銀時服を下し賜はる。

 同十一年十一月、越後國長岡の城を賜はりて彼地へ移るべき由の仰を承る、同十二年七月別の儀を以て再び庄内を可領旨仰下されしかば移るに及ばず、同九月溜詰を免さる。同十三年四月病によりて致仕し、左兵衛督と称し、安政元年三月、六十五歳にて卒す。

 嫡子忠発初名小五郎、文政九年四月初て将軍家家齋に謁し奉り、同十二月十六日叙爵して摂津守に任じ、天保四年十二月十六日四品に叙し、同十三年家継で左衛門尉と召さる。同十四年利根川分水路印旛沼古堀筋開浚の助役を命ぜらる。翌年に至りて役半いんて息み、時服を賜る。家人等又白銀時服を下し賜る。嘉永元年八月女御入内のありし時、京都の御使を奉り侍従に任ず。

 安政元年、内海守衛第五の砲台を可守との仰を奉る。同六年蝦夷地開墾守衛は當今専要の時務なるを以て蝦夷の内所領に下し賜はり、箱館松前警衛の事其心得可有旨被仰下、内海守衛は被免、其後北蝦夷地警衛の事を被命、同十一月西蝦夷地ハマシケ領並ルルモツへ領よりテシホ領迄でウレンケシク島々下し賜はり、オタスワ領よりアワタ領迄警衛の事を命ぜらる、依て警衛の人数其他農商の者共多く指遣し専ら上の意に順適し土地を墾し、商旅を通じ、人民を生育して、往々外国侵凌の備を充實せんとす。同八年病によりて致仕し豊山と號す、是より前舎弟富之進忠寛を望請て養子とす。忠寛初め富之進と称し万延元年正月二十八日初て将軍家(家慶)に謁し奉る。同十二月十六日叙爵して摂津守に任じ文久元年八月六日家継で左衛門尉と召さる。蝦夷地警衛等は忠発が時の如しと仰下さる。同二年蝦夷地開墾等猶力を盡し速かに成功を計らんが為、暫の内御暇を賜り翌年九月中参府の事を請ひ奉り御許しを蒙り同四月御暇賜はりて庄内下る、同十月忠寛來年二月御上洛(長州征伐)の節御先に上京すべき由を被命、此時忠寛病に冒されて御上洛の御供不可叶のよしを以て辞し忠発の男繁之丞忠篤を養子とせんことを望み、請て同二十五日二十四歳にて卒す。

 忠篤は忠発の四男、十二月十八日養父忠寛の遺領を賜ひ、蝦夷地警衛等忠寛の時の如しと被仰下、忠篤初め繁之丞と称し家継で同二十八日初て将軍家(家慶)に謁し奉る、同三年三月二十九日禁闕守護の為十萬石以上の大名一萬石に家人一人宛京都へ可指登旨被命、同十月禁闕守護の家人共歸國すべき由被仰下金子等下し賜はる。
 文久三年四月四日、當今英國の軍艦入港不容易時勢、市中其外動揺に乗じ奸悪の徒徘徊亂妨可致も計がたく、因て(江戸)取締り命ぜらるゝに付、人数を出し日夜市中を巡邏せしめ、狼藉の者は速かに搦捕、時宜に寄りては討果し不苦旨、命を蒙る、此時西洋各國数々來いRて盟約を要し公武の間頗ぶる嫌隙を生ず、上方の諸候或は又是非の論有、此際に乗じ浮浪無頼の者共私に黨を結び類を集め、尊王攘夷を唱へ竊かに不軌を謀る者少からず、因て此命あり(諸大名の中五六藩同此事を命ぜらる)、同十四日新徴組の者共不軌を企るやの聞へあり、速かに本所三笠町へ人数を可出の命奉り同夜人数を進め、石坂周造、村上俊五郎等を捕へてまゐらす、翌日新徴組の儀御委任被遊の旨被仰下、御府内晝(昼)夜巡邏を免さる。
 同十六日此度の儀並御府内巡邏等を精力を盡せし事御感の旨、執政松平豊前守仰を傳ふ、同十一月朔日、近頃無頼の諸浪士共種々偽名を称し無謂金銀を強奪し或は白刃を振て市人を劫かし財貨を押取り、竊かに不軌を企る者有し故、此度御府内取締を被命、忠篤家系は御當家格別の御由緒有之、且神祖以來之儀を思召出され特命を以て被仰下所也、狼藉の者共速かに鎮撫し取締相立候様忠勤相励盡力致すべき旨執政井上河内守、有馬遠江守仰を傳ふ。素より區々の小藩加之蝦夷地警衛の為既に人数を彼地に遣しぬ、然りと雖も當時天下の形勢切迫の時、家系由緒且つ祖先以來奉公の儀を思召被出、特命を以て仰下さるゝ條深く感激し奉り、庄内より家人等数を盡してめし登せ晝(昼)夜隙なく巡邏せしめ、浪士輩狼藉不法の者或は搦捕或は斬殺し、専ら御府内を静謐して、将軍家の御威令遠きに布かん事を計りぬ。
 同二十日、新徴組の者共、是迄騒立かましき時のみ人数を出し、鎮撫を謀らしめるゝと雖共、向後賞罰をはじめ萬事忠篤へ御委任遊さる。暫くの内、組頭以下役々附属せしむると雖共、重大事件の外、手限りに所置致し、暴発の憂無之様可致、新徴組支配は追て廃止せしむべき旨、牧野備前守仰を傳ふ。程なく組頭以下の役々を免されぬ。
 同十二月十六日叙爵して左衛門尉に任ず。元治元年六月十一日、家人共義勇の志格別の事故、野州邊暴行の浮浪追討可被命所、折節當地御守衛厳ならず、遠路出兵難被命に付、彌以市中取締勉励可致旨被仰下、是より前、水戸の家臣武田耕雲齋といへる者、先君の遺志と称し、同志の士及諸方の浮浪を催し、湊に屯集し、尊王攘夷の論を首張し遠近を動揺しぬ。水戸の人数を初め近辺の大名兵を出して追討すと雖共、事いまだ平かず、此際に乗じ常野の間浮浪無頼の徒、所々に嘯集し、民家を破却し、財寶を掠奪す、是全く追討の人々力を盡さぬが致す所也と、家人(荘内藩士)等大に憤り頻りに常野の賊を平げて、天下の為に一方の憂を除かんと申すが故に、追討の議を望み請し所、前の如くに仰下されし也。
 今年、毛利大膳大夫、己が國に引籠り、召せども参らず、擅に英國の船艦に発砲し彼と戦を構え、加之、家人國司信濃兵等兵を率いて禁闕を侵し奉る。又江戸麻布の邸内に多くの人数を匿し、浮浪の徒を誘ひ、市中を動揺せしむの聞へあり、同七月二十五日、毛利大膳大夫麻布の屋敷召上らるゝに付、同所に人数を出し可請取旨仰を承り、翌二十六日黎明、人数を進め、麻布檜坂の邸を圍み、応接稍々久敷して事故なく右の邸を請取て、住居の家人共悉く引具し、上杉弾正大弼に相渡す、同二十七日、将軍家の御前に召され、昨夜以來格別骨折家人共一同盡力御感斜ならず被思召、此上猶勉励可致旨被仰下、御菓子等下賜はる、家人松平権十郎、将軍家へ拝謁を被命。
 同八月十八日、昨亥年以來、市中巡り其他度々臨時の事相勤、殊に新徴組御委任に付ては格別粉骨の條御機嫌に被思召、依之出羽國田川郡の御領兼て被預置し二萬七千石餘の地為御手擬下賜はり、新徴組は家來同様御附興に相成候條十分所置可致旨被仰下、同二十一日毛利大膳大夫為御征伐御進発の節御旗本御先手を被命、同九月二十四日今度御進発の節、家系を以御旗本本被命べき所、御進発遊さるゝに就ては御留守をも夫々被命と雖、左衛門尉には兼て御府内御取締命ぜられ事馴候事故、御旗本御先手は被免、御跡に留りて御府内取締厳重警衛向怠り無之様被仰下の旨、執政の人々の仰を傳ふ。同二十五日執政牧野備前守より家人松平権十郎を召て被仰渡、常野の浮浪今に鎮静致さず、其勢ひ御府内をも可侵の聞へ有之、此度御進発被遊に付ては色々御配慮ありて、左衛門尉御先手御免御留守に指置かるゝ儀は、御跡の儀御顧慮被為在間敷との思召より仰出されし事故、此後時宜に寄り野州邊へ討手命ぜらるゝ儀も可有之、其心得に候様被仰含。
 同十月二十六日、左衛門尉儀若年の上且つ家継し以來、年月不久と雖共兼て命ぜられし御府内取締に付ては家人共身命を惜まず奉公の條、畢竟(要するに)家政向宜しき故と深く感じ思召別の儀を以、溜詰の格を被命、猶勉励可致旨執政松平伯耆守仰を傳ふ、同十一月四日家人松平権十郎、新徴組一同の人和を得たる由暫く當地に指置候様被命、同十五日先達て御手當に賜りたる地所を加え十七萬石の格に被成、新徴組は勿論、小林登之助門弟(後に火砲組と称す)共迄賞罰進退家來と同く致し、十七萬石の軍役をすべしと被仰下、同二十五日四品に叙す。
 慶応元年四月十六日、御府内晝(昼)夜巡邏一手に引受、市中鎮静可致旨執政阿部豊後守仰を傳ふ、同五月十七日今度御進発御首途を祝し奉り舊例を以て勝栗を献る。
 同九月二十九日、松平権十郎を召され、執政の人々列坐して、此度新徴組の者共市中巡邏先に於て兼て令せし趣により、羽賀軍太郎、中村常右衛門、千葉雄太郎の三人、馬上の士壹人討果したる所、小普請組石川又四郎支配永島直之丞なるを承り、同人身分に対し公義を重じ、左衛門尉を憚り事の始末認置何れも腹切たる條、左衛門尉常々懇篤の情義徹底致し居る故に可有之聞、猶向後は此度改めて令せし趣を以て、新徴組の者共へ可申含被仰、是より前新徴組の者市中巡邏の折、一人馬上にて隊中へ駈入り剩へ鐡鞭を以て續さまに打けるが、夜るの事にてはあり白刃を打振りし様に見へたりければ、三人して相討にぞしたりける。其後執政の人々より右の者は小普請組永島直之丞なる故、公義御家臣を容易に討果候事、上に対し恐少なからず、三人の者御糺明の上定めて御所置あるべきか、速かに政府へ出すべき様被申旨ありけれ共、此頃重ねて市中巡邏先に於て亂暴狼藉の者は切捨不苦との命ありて、其事既に下知し畢ぬ。然るに今に及んで御糺問の為可指出其謂はれなし、詮ずる所は左衛門尉が下知せしより、事爰に及ぬれば市中取締を辞し奉るに不レ如と申せしを傳聞て腹切し也。

 慶応三年十月十三日、二條の城に於て京都詰の家人を被召、國家の大事意見御尋有之の間上京可致旨被仰下趣、大目附戸川伊豆守仰を傳ふ、仰承りし者同二十日江戸に至ぬる所に此日當時取締被命居に付、上京に不及旨御留守の執政仰を傳ふ、同十五日傳奏日野大納言殿より雑掌を以て渡さるゝ所の御書、同十六日御渡所と両通を帯し急便東著す、其略慶喜建白被聞召、尚天下共に同心盡力致し皇國を維持し可奉安宸襟事と載せられ、召の諸候上京の上御決定有之迄、徳川支配地市中取締等先づ是迄の如くたるべし、依之上京の事被仰出の趣を載せられたり、同十一月三日先達上京の儀朝廷の命ありと云へ共、江府取締命ぜらるゝ折柄故、上京御許されの儀従公義言上遊さるゝ所、上京に不及家人の内宗徒の者可指登様傳奏衆申さるゝ旨、執政松平周防守之を傳ふ、則家人を京都に差登す。

 同十二月二十五日(四カ)、松平権十郎西城に召され執政少老の人々列坐して、島津修理大夫が三田の邸に浪人共多く潜匿し市中暴行、野州出流山にて捕縛さる竹内披(竹内啓カ)等の言にも薩邸に同志の者有之趣、加之一昨二十三日の夜、左衛門尉巡邏人数屯所へ暴発致せし者共不残薩邸へ立入の由、市中取締は素より左衛門尉御委任の事故人数指遣し応接の上返答次第踏込て打取べし、為加勢陸軍方可指遣、松平大和守、松平伊豆守、松平和泉守よりも人数を可出旨被命の間速かに可罷向、朝倉藤十郎、長坂血槍九郎、水上藤太郎検使として遣はさるゝ旨被仰渡、會津藩甘利源次郎薩邸の案内能存じたる故、案内者に遣はさる。
 同二十六(五カ)黎明、家人石原倉右衛門主将として西城下より押出し、先づ使者を以て近頃市中暴行の浪士多く當邸に潜匿の趣、野州出流山にて捕得せる竹内披が言にも有之、一昨夜三田同朋町に於て、左衛門尉市中巡邏の人数屯所へ発砲の賊徒も入居候事、彼是其證分明也、速かに右の者搦捕るべき旨仰を承りて罷向ひぬ、疾く渡さるべしと云はしむ、天下の形勢實に憂危の秋なれば、主家深き心より浪士共集置くと云へ共、右等の所業致候者當邸に一人も無之趣返答す、猶応接に及所、篠崎彦十郎、關太郎と申両人対面して、悪浮浪の徒實に當邸に潜匿等不致、本藩に於て公邊に対し御敵可仕結構更に無之由を陳し、事を左右に托し、時を延すに似たり、使者依て多言を用ひず直ちに可打入由を云て歸る。
 邸中頗る狼狽の躰也ければ、三田西北の角へ大炮一発するや否や、大小の炮銃焼玉等を弾射す、火邸内に発す、支封酒井大学頭(當時紀伊守)の者一番に進入、一隊の賊徒、松平伊豆守、松平中務大輔の固る所、無勢とや見たりけん、無二無三に切抜て品川の方へ逃さりぬ、降人に出る者四十二人、討取る所の首二級、島津淡路守邸には新徴組を遣はし有合ふ所の人数悉く召捕りぬ。

 (未完)→②に続く



[出典]
http://seuru.pupu.jp/siryou/syounaizokuhankanhu1.htm

 
松平忠倶は寛永11年(1634)、信濃国飯山領4万石で移封となり飯山藩主となっています。幕政では大坂加番などの要職を歴任し、藩政では検地、殖産興 業、千曲川の治水工事などの良政を行っています。元禄9年(1696)大坂で死去、享年63年、戒名は「然誉梵道恵深正院」、菩提は忠恩寺に葬られていま す。
享保2年(1717)、本多助芳は糸魚川藩1万5千石から1万石の加増を受け合計2万5千石となり飯山藩に移封され本多飯山藩初代となりました。以後、本 多家が10代にわたり飯山藩主を歴任し明治維新を迎えています。忠恩寺は本多家の領内菩提寺で、飯山で死去した2代藩主本多康明、6代藩主本多助賢、8代 藩主本多助成、9代藩主本多助寵が葬られています。その他の藩主は江戸菩提寺である教善寺(東京都港区六本木)に葬られています。6代助賢は大垣藩主・戸 田氏教の次男として生まれ、5代本多助受の娘の婿養子になる事で6代藩主を就任、幕政では日光祭礼奉行、奏者番、若年寄などの要職を歴任しています。8代 助成は文武に優れた人物とされ起倒流柔術や大坪本流馬術、宝蔵院流槍術などを極め文学や書画の才能にも恵まれ、慶応2年(1866)に第2次長州征伐では 父である本多助実の名代として参陣しています。そのような経緯から戊辰戦争の際には当初、新政府軍には非協力的だった事から謹慎処分を受けています。9代 助寵(助成の実弟:助成が嫡子無く急死した為、死が秘匿され助寵の養子手続きが完了後に公表された。)は一転して新政府軍に積極的に協力し、旧幕府軍であ る奥羽越列藩同盟に与した長岡藩や会津藩討伐に従軍して功を挙げ賞典禄として5千両を賜っています。


     【 所在地 】     長野県飯山市大字飯山奈良沢
    【 創建年 】     永禄2年(1559)
    【 開  山 】     貞誉秋応
    【 開  基 】     長沼城主島津淡路守


[出典]
http://www.arimayu.com/nagano/tyuuon.html




オーストラリア大使館 日向佐土原藩島津淡路守上屋敷

[出典]
http://www.ee-tokyo.com/edo/edo-meisyo-gendai/takanawa-kaiwai/takanawa-kaiwai.html