2019年8月5日月曜日

多磨霊園 會津藩士

多磨霊園
中村家之墓墓碑の裏
中村家之墓
≪鈴木五郎 (重季)≫
 白虎寄合一番隊/原隊。 16歳。
 戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰の戦いで負傷し、10月8日に雨屋で死去。
 (墓碑の裏)
  明治元年九月十五日六郎兄
  鈴木五郎 白虎隊 十六才
  一ノ堰激戦三日討死 ~~

台座の前面
 (台座の前面)
   祖父會津藩士
   鈴木清吾 九五才
   伯父 五郎 十六才
    ~~~
    ~~~

台座の裏
 (台座の裏)
   鈴木家
   断絶ノ為
   會津長命寺
   墓土ヲ納ム

 18区-2種-86側。
 鈴木五郎の墓は、飯盛山と長命寺、常金寺にもある。

会津松平家墓
  松平健雄
  松平勇雄
4区1種21側


藩主/松平容保の次男 伊佐須美神社宮司)
松平健雄の子 衆議院議員・福島県知事
横光 利一 4区1種39側16号 東山温泉の旅館「新瀧」で誕生  [略歴]
畑英太郎 6区1種16側3号 陸軍大将 弟/畑俊六も陸軍大将  [略歴]
西郷従道 10区1種1側1号 西郷隆盛の弟  武田惣角の愛弟子
山川捨松を口説き落とし婚約に尽力
西郷頼母の遠縁 (西郷隆盛らと祖は同じ)
中野友禮 10区1種7側 日曹コンツェルン創業者  [略歴]
西義一 11区1種20側 陸軍大将 教育総監  [略歴]
丹羽七郎 14区1種3側1号 岩手県知事・埼玉県知事 内務次官  [略歴]
高野源進 15区1種9側 山梨県知事・広島県知事 警視総監  [略歴]
井深 大 (まさる) 17区1種8側7号 事業家/ソニー創業者  [略歴]
佐藤繁彦 11区1種19側 会津出身 ルッター根本思想の神学
鈴木清吾 18区2種86側 藩士 中村家之墓の台座に刻印されている
山本五十六 7区特1種2側 会津で戦死した長岡藩/山本帯刀の養子
妻/禮子は、旧会津藩士/三橋康守の娘
簗瀬真琴 21区1種17側 会津三家の1つ/簗瀬家の出身  [略歴]


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井深家一門之墓


井 深 家 一 門 之 墓
井深家一門之墓墓  会津に残る巨石の先祖墓に比べると、控えめな墓。
井深家一門之墓墓  質素に生きた人柄に、とても良く似合う。
 17区1種8側7番。
自 由 闊 達  井 深 大

 一九〇八年(明治四十一年)四月十一日 栃木県日光町で父甫(たすく)、母さわ の長男として生まれる。  神戸市立諏訪山小学校 兵庫県立神戸第一中学校 早稲田大学理工学部電気工学科を卒業 
 一九四五年五月 東京通信工業(現ソニー株式会社)設立 代表取締役専務に就任 一九五〇年 同社社長に就任  同社会長 名誉会長を歴任後 一九九〇年 ファウンダー名誉会長 一九九四年 ファウンダー最高相談役に就任
 この間 経済同友会幹事(終身幹事) スウェーデン王立理工学アカデミー外国会員 社団法人発明協会会長 財団法人ボーイスカウト日本連盟理事長 財団法人鉄道総合研究所会長などを歴任
 一九八六年 勲一等旭日大綬章を受章 一九八九年 文化功労者となり 一九九二年 産業人として初めて文化勲章を授かる その他、スウェーデン王国勲一等北極星章をはじめ東京都名誉都民など 国内外の政府 団体 大学から多くの叙勲 学位 表彰を受ける
 一九九七年(平成九年)十二月十九日 昇天 八十九才 
 没後、正三位に叙せられ 勲一等旭日桐花大綬章を受章

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井深 大


井深 大 (いぶか まさる) の略歴
 独自の製品開発に徹し電子技術者として、世界のソニーを築いた創業者。
 本田宗一郎氏と並ぶ、戦後日本を代表する技術系創業者でもある。

 生涯は、3つの時代に分けられる。
  ◇  人格形成の時代
    幼く父を亡くし、栃木から愛知へ。
    物心が付く頃に東京に転居し、再び愛知に戻り小学生時代を過ごす。
    母の再婚により兵庫に移り、中学生時代を過ごす。
    各地に移り住むが、その地を理解できる期間を過ごしている。
    様々な風土、対人関係などを身に付け、様々な視点から見れる土壌が形成される。
  ◇  天才技術者として開花
    大学在学中に「走るネオン」を発明し、天才発明家の片鱗を発揮し始める。
    会社を設立するや、一般消費者の利便性を追求した研究に没頭、次々に商品化。
    日本が電子化立国となる礎を築く。
  ◇  幼児教育に尽力
    事業が軌道に乗ってからは、幼児教育に邁進する。
    娘さんが知的障害児として生れたことも、契機だったのかも知れない。
    世界的な起業家にもかかわらず、著書の多くは幼児教育に関するものであった。
    胎児教育から、超能力への研究まで広げていった。
明治41(1908)年
 4月11日
 父/井深甫と母/の長男として、古河鉱業日光製銅所の社宅で誕生。
 栃木県 上都賀郡 日光町 字清滝 (日光市) 。
 父/甫 (たすく) は古河鉱業の技師で、若い頃に日本最古の一つである静岡県御殿場の発電所を設計している。
明治43(1910)年
 父が死去したため、愛知県安城市に住む祖父/井深基 (旧/会津藩士) に引き取られる。
 2歳 (数え3歳)。

 戊辰の役での基は、18歳のため白虎隊に入れず朱雀隊で奮戦し生き残れたが、その後も西軍からの差別は想像を絶し、北海道で官吏などを転々とするなど苦労をしている。
 石山家の養子となり飯盛山で散った白虎隊士/虎之助は、基の実弟である。
 重用されていた北海道知事/深野一三が愛知県知事になった際、請われて愛知に移り、商工課長や郡長などを歴任している。
 引き取られる時は、教育に従事していた。

 祖父の会津魂は、井深大の人間形成の基礎を築いたといわれている。
 日本女子大学を出ていた母は、武士道を貫く義父/基と合わなかった。
 母に連れられ、5歳から1年2学期まで東京に転居する。
 日本女子大の付属幼稚園の先生をしながら、井深を育てた。
 母方の祖父が病気になったため北海道苫小牧に転校するが、2年生で再び愛知県へ戻り、安城第一尋常小学校 (安城市立安城中部小学校) を卒業する。
 母が山下汽船の課長と再婚したため、しばらく祖父母の手で育てられる。
 この期間に、祖父から科学者だった父の話しを聞き、次第に科学への興味が芽生える。
 小学五年生になると、母の嫁ぎ先の神戸市葺合区 (中央区) に転居し、兵庫県立第一神戸中学校を卒業する。
 大きくなるにつれ、無線機製作などへ没頭していったという。
昭和8(1933)年
 第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学理工学部電気工学科を卒業。
 卒業論文は、「変調器としてのケルセル附 光線電話」であった。
 在学中に「光るネオン」を発明するなど、天才発明家として名が知られていた。
 「光るネオン」は、後のPCL時代に出品してパリ万国博覧会で金賞を獲得している。

 写真化学研究所 (Photo Chemical Laboratory、通称 PCL、現/東宝) に入社。  25歳。
 井深大は、「ケルセルに関する研究成果」の特許申請手続きのため特許庁に出向いた。
 内容を見た審査官が、PCLの入社を勧め、自ら連れて行った。
 即座に採用は決まったが、井深大には入りたい会社があった。
 希望の東京芝浦電気 (東芝) の入社試験を受けたが、不採用だった。
 PCLからは、
  「責任を持たせて、好きにことをやらせるから、早くこい」
といわれ、気持ちは決まった。
 東京帝大卒並みの月給60円、その年末には90円になった。
昭和10(1935)年
 自動車の免許を取得し、当時としては珍しいオーナー・ドライバーとなった。
 中古の「ダットサン」だったそうだが、1つの夢を叶えた。
 27歳。
昭和11(1936)年
 日本光音工業株式会社に移籍。
 28歳。
昭和12(1937)年
 日本光音工業株式会社の無線部長に就任。
 出品した「光るネオン」が、パリ万国博覧会で金賞を獲得。
 29歳。
昭和15(1940)年
 日本測定器株式会社の設立に参画し、常務に就任。
 日本光音工業が出資した軍需電子機器 (熱線誘導兵器) の開発に従事。
 32歳。
昭和16(1941)年
 早稲田大学理工学部専門部工科講師として教壇に立つ。
 7年間、続ける。
 33歳。
 11月
 陸海軍の要望であった周波数選択継電器を開発。
 海軍は磁気による潜水艦探知機に応用し、航空機に搭載した。
 海軍901航空隊は、台湾やフィリピン海域で多くの潜水艦を撃沈する戦果をあげている。
 軍官民合同の科学技術の委員を委嘱される。
 この縁で、兵器研究の技術者交流である官民共同「戦時科学技術研究会」にて、海軍技術中尉/盛田昭夫氏と運命的に出会う。
昭和20(1945)年
 8月
 海軍技術将校で終戦を迎える。
 敗戦の数日後、長野県須坂町に疎開していた「日本測定器」を戻すため上京する。
 日本橋大通りで、完全武装した米軍の自動車の行列に出会う。
 その時、痛感した。
  「日本は科学技術で負けたのだ。科学技術で日本を立て直すしかない」
 37歳。
 10月
 行動は、素早かった。
 東京日本橋の旧/白木屋店内の3階配電盤室に、ソニーの前身である「東京通信研究所」を個人企業として設立。
昭和21(1946)年
 5月
 「東京通信研究所」を株式会社に改組し、「東京通信工業株式会社」に改称。
 終戦まで文部大臣をしていた義父の前田多門を社長とし、井深が賀技術担当の専務、盛田昭夫が営業担当の常務に就任した。
 盛田はGHQの公職追放で職が無く、偶然にも読んだ朝日新聞のコラム「青鉛筆」に東京通信工業が掲載され、会社設立に合流したのである。
 前田多門も、公職追放されていた。

 資本金19万円で、社員20数人でのスタートであった。
 新しい技術開発にチャレンジし、ユーザーの生活を豊かにする新商品を造り出し、世界的な大企業に成長していく。
  「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
     ~~~
   会社の余剰利益は、適切なる方法をもって全従業員に配分、~~~」
 38歳。
昭和22(1947)年
 10月
 NHKを統括していた米軍の将校からテープレコーダーを試聴し、製作することを決心。
 39歳。
昭和25(1950)年
 東京通信工業の社長に就任。
 8月
 苦難の開発の末、国産初のテープレコーダー「G-1型」を発売。
 小売価格16万円 (現在の3百万円位) と高価のため販売不振。
 どんな便利なものでも消費者の立場が必須と悟り、小型の普及機に方向転換する。
 全国の小中学校から、注文が殺到しはじめる。
 さらに、占領軍の統制下にあった電波が民間に開放され、全国でラジオの開局ラッシュが始まり、業務向けも注文が殺到する。
 42歳。
昭和27(1952)年
 3月
 米国でのテープレコーダー普及状況を調査するため渡米。
 車の洪水を目の当たりにして、米国の国力を痛感する。
 最先端技術を開発しなければ、日本の再生は無い、と悟る。
 実用化は無理と考えられていたトランジスタの開発を決意。

 帰国後、時期尚早との周囲の反対を押し切り、開発を着手し推し進める。
 後に井深は、「よそにないものをつくる」の夢に賭けたが、この時代が最も苦しかったと振り返っている。
 44歳。
昭和30(1955)年
 米国で開発されたトランジスタの国内生産に成功。
 8月
 本格的なトランジスタ・ラジオ「TR-55」を、商品名「SONY」として発売。
 電子立国である現在の日本の基礎を築くスタートであった。
 47歳。
昭和31(1956)年
 トランジスタ・ラジオを改良し、イヤフォン方式やハンディタイプなど次々に新製品を出荷。
 乾電池で聞けるトランジスタ・ラジオは、台風シーズンには瞬く間に完売した。
 48歳。
昭和32(1957)年
 3月
 スピーカー付きポケットラジオ「TR-63型」を発売。
 世界最小で感度も良く、消費電力も従来の半分であったため、 大人気のヒット商品となる。
 米国の雑誌「ポピュラーサイエンス」に取り上げられるや、米国でもヒット商品となり、クリスマス商戦では完売が続き、チャーター便で納品するほどだった。
 電気製品での輸出の第1号といわれている。
 49歳。
昭和33(1958)年
 商標名であった「SONY」を、正式な社名「ソニー」に改称。
 社員20数人でスタートした会社は、4千人を超えていた。
 トランジスタの大成功にもかかわらず。開発への挑戦は衰えなかった。
 輸入に頼るゲルマニウムから、無尽蔵にあるシリコンのトランジスタ開発に向かう。
 50歳。
昭和34(1959)年
 ソニーに、全国の小学校を対象に「ソニー理科教育振興資金制度」を設ける。
 51歳。
昭和36(1961)年
 トランジスタテレビの開発に成功。
 翌年の4月に、世界初の5インチ・テレビを発売する。
 53歳。
昭和37(1962)年
 日本映画・テレビ録音協会の初代名誉会員に選出される。
 54歳。
昭和39(1964)年
 世界初の家庭用白黒ビデオ・テープレコーダーを発表し、翌年から発売。
 56歳。
昭和40(1965)年
 妻/勢喜子と協議離婚し、黒沢淑子と再婚。
 57歳。
昭和42(1967)年
 トリニトロン・カラーテレビが完成。
 クロマトロン方式にチャレンジし失敗の連続であったが、その過程で開発に成功した方式だった。
 日本初から世界初の開発力を持つ会社になっていた。
 この頃から、技術立国には幼児教育が欠かせないと考えるようになっていく。
 さらに、母親の重要性へと打ち込んでいく。
 59歳。
昭和44(1969)年
 財団法人幼児開発協会を設立し、理事長に就任。
 これ以降、残りの生涯を幼児教育の情熱に注ぐ。
  「この人の能力はこれだけだと決め付けていたら、その人の能力は引き出せません」
 61歳。
昭和47(1972)年
 ソニー教育振興財団を設立し、理事長に就任。
  「育児教育ほど崇高で素晴らしい仕事はない< 母親は子供にとって偉大な芸術家であり、医者でありますが、何よりもすぐれた教育者であってほしい」

 3月
 電子工学関係で世界最大の学会「IEEE (電気電子学会)」からファウンダー賞が贈られる。
 米国人以外での受賞は初めてであり、同賞が設けられたから15人目の授賞であった。
 64歳。
昭和50(1975)年
 ソニー会長に就任。  67歳。
昭和51(1976)年
 国鉄の理事に就任。
 発明協会の会長に就任。
 68歳。
昭和52(1977)年
 ソニー名誉会長に就任。  69歳。
昭和54(1979)年
 ウォークマンを発売。
 日本オーディオ協会の会長に就任。
 早稲田大学から名誉博士(Doctor of Science)が贈られる。
 71歳。
昭和60(1985)年
 ボーイスカウト日本連盟理事長に就任。
 77歳。
昭和61(1986)年
 勲一等旭日大綬章を受章。
 78歳。
昭和62(1987)年
 鉄道総合技術研究所の会長に就任。
 79歳。
平成元(1989)年
 文化功労者に選ばれる。
 81歳。
平成2(1990)年
 ソニーファウンダーを創業し、名誉会長に就任。
 82歳。
平成3(1991)年
 エスパー研究所をソニー社内に設立。
 「超能力者」の透視能力やテレパシーの実験、科学的に「気」を検証するなど科学の枠を超えた東洋的な考えに傾倒。
 エスパー研究所は、没後の翌年に閉鎖された。
 83歳。
平成4(1992)年
 産業人として初の文化勲章を受章。
 84歳。
平成6(1994)年
 ソニーファウンダーの最高相談役に就任。
 86歳。
平成9(1997)年
 12月19日
 東京にて死去。
 身体は不自由だったが、逝去直前まで頭脳ははっきりしていたという。
  「小さい会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね」
 享年90歳 (満89歳)。
 墓は、多磨霊園にある。

 同年、勲一等旭日桐花大綬章を没後受勲。
  「日本のエレクトロニクス産業などの製造業発展の基礎を作るとともに、若手技術者育成に活躍し、多くの国民に自信と勇気を与えた」
 世界のソニーの創業者なのだが、集合住宅に住んでいた。
 盟友である盛田の自宅は、大邸宅なのに。
会社設立の目的

一、 真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
一、 日本再建、文化向上に対する技術面、生産面よりの活発なる活動
一、 戦時中、各方面に非常に進歩したる技術の国民生活内への即事応用
一、 諸大学、研究所等の研究成果のうち、最も国民生活に応用価値を有する優秀なるものの迅速なる製品、商品化
一、 無線通信機類の日常生活への浸透化、並びに家庭電化の促進
一、 戦災通信網の復旧作業に対する積極的参加、並びに必要なる技術の提供
一、 新時代にふさわしき優秀ラヂオセットの製作・普及、並びにラヂオサービスの徹底化
一、 国民科学知識の実際的啓蒙活動
 「たわいない夢を大切にすることから、革命が生まれる。」
 井深の姓は、会津藩にしかいない。
 斗南藩消滅により、藩士たちは全国に散っていった。
 井深家も、その1つである。
 旧/会津藩士の履歴を隠さねば、生きることかすら困難な時代であった。
 井深家の墓域は、大窪山墓地や善龍寺などにある。
 大窪山墓地には、7か所ほど広い墓域が点在しており、巨大な墓石が林立している。
 飯盛山で自刃した白虎隊士/井深茂太郎や、石山家に養子となった虎之助は一族であり、国際的に著名な井深八重も一族の子孫である。
 [閑話]

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東京での会津藩士/幽閉地

東京での会津藩士/幽閉地
 開城後、藩領を没収され捕虜となった藩士たちは猪苗代と塩川村で幽閉 (謹慎)。
 負傷者と病人は、小田山の御山村に指定された病院に収容された。
 西軍の医者/英人ウルリスが担当していたが、とても手が回らなかった。 老人や子供、婦人など区分されず、むさ苦しい農家に収容され惨状を呈していた。
 その後、信州/松代藩と越後/高田藩での永御預けの処分者に別けられた。
 護送の途中、松代藩での収容は無理と判明し東京へ変更、
  飯田元火消屋敷 330名
  ◇ 小川講武所 700名
  ◇ 一橋御門内御搗屋 250名
  ◇ 山下御門内松平豊前守元屋敷 700名
  ◇ 神田橋御門外騎兵屋敷 250名
  護国寺 314名
  ◇ 芝増上寺 (徳水院) 350名
  ◇ 麻布真田屋敷 若干名
に、2,870余名が分散して収容・監禁された。
 その他、神田/佐倉藩堀田邸にも手代木直右衛門、田中源之進、佐川官兵衛、小森一貫斎たちが収容されている。
 護送は「乞食大名」と蔑まれほど惨めな旅路であった。 到着した収容所は、江戸城 (皇居) が間近に見える地であり、故なき仕打ちに皆々号泣したという。
 御山病院では、多くの方々が息を引き取る中、治癒すると東京に移送された。
 歩行が困難な者が多く、荒板を青竹で吊るしムシロをかけた「乞食駕籠」と称されたものでの護送であった。

 山川大蔵が入った「飯田橋火消屋敷」が本部の役目を成し、各謹慎所との連絡や、新政府の要人と会津藩再興へ向けて交渉を続けた。
 一人/米四合と銭150~200文の支給では、薪炭などの必要な日用品を買うために米を売らざるを得ず、食事は貧しかった。
 米も普通の米ではなく、総て南京米だった。
 犬や猫を捕まえ、近くの溝や池で鮒などはもちろん、カエルまで捕まえて飢えをしのいだ。
 各謹慎場所同士の連絡は、許されなかった。
 やがて、病人の薬を取りに行く許可証を活用して、連絡を取り合った。
 斗南藩への流刑が決まった後は外出が黙認され、羽織と高袴で帯刀していない姿は奇異だったようで、「会津殿も落ちぶれたものよ」と聞こえるように嘲られていたという。

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御山観音(照谷寺)


御山観音(照谷寺)概要: 神護山照谷寺は福島県会津若松市門田町大字御山字館山甲に境内を構えている天台宗の寺院です。照谷寺の創建は奈良時代の天平神護年間(765~767年)に開かれたのが始まりとされます。一方、御山観音堂の創建は平安時代初期の大同2年(807)に照谷寺の境内背後に控える岩屋山の山頂付近にある岩窟に堂宇が設けられたのが始まりとされます。平安時代後期に発生した前九年合戦で金沢の柵(秋田県横手市金沢)に布陣していた源頼義・源義家父子の下に会津地方を支配していた会津夷太郎が反乱を起こしたとの報告を受け、前九年合戦を平定した後に会津まで進軍しました。その際、前九年合戦の戦勝祈願の為に石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)の分霊を勧請した守護仏を岩屋山の岩窟に奉納し、会津夷太郎討伐の戦勝祈願を行うと見事念願成就する事が出来たとされます。
御山観音は江戸時代初期に会津三十三観音霊場の札所に選定されると広く信仰を広げましたが、山深く管理が行き届かなかった為、度々観音像が盗難に遭いました。結果的に観音像は見つかったものの、再度の盗難を恐れ、岩屋山の麓に境内を構え別当寺院でもあった照谷寺本堂に遷されました。それでも毎年4月15日に行われる例祭の際には観音像を岩窟にある御堂に遷し法要が続けられてきましたが、その御堂も朽ちた為、平成4年(1992)に照谷寺の境内に御山観音堂が造営されました。会津三十三観音霊場第20番札所(札所本尊:岩屋聖観音菩薩(胎内仏:源義家奉納)・御詠歌:遙るばると登りて拝む岩屋山 いつも絶えせぬ松風の音)。会津二十一地蔵霊場第2番札所(札所本尊:一ノ堰六地蔵尊)。山号:神護山。寺号:照谷寺。宗派:天台宗。本尊:阿弥陀如来。

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2017年8月18日金曜日

秀康・忠直家臣団履歴


秀康・忠直家臣団履歴
※出典の略称

・「諸士」(「諸士先祖之記」『福井市史』資料編4、1988)
・「寛政譜」(『新訂 寛政重修諸家譜』)
・「叢記」(福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会編『福井県郷土叢書第七集 国事叢記』(上)、1961)


赤垣甚左衛門
信濃生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)

朝倉丈也
実名景澄。能登守。元北条氏の侍大将。(「叢記」)

朝日丹波
実名重正(政)。木曽義仲の末裔と伝える。三河で誕生、初め千之助と称する。菅沼大膳亮直重(定利)に仕える。菅沼氏に仕えていたときから徳川家康に知られており、慶長六年秀康に仕える。子、千之助が火災消火で叱責を受けて自殺すると、秀康の子(直政)を養子に与えられた。その関係で後に松平直政に仕えることになったが、大坂の陣の頃浪人。土井利勝の誘いを受け、徳川秀忠の配慮で姫路城主本多忠政に仕える筈であったが、予定の知行高と異なっていたので出奔。紀伊徳川頼宣と秀康子、忠直の招きを受けるが、旧主の縁で忠直に仕える。しかし本多氏との関係で「浪人分」での召し抱えであり、正式に家臣となったのは松平直政が出雲松江に転封されてからであった。(「叢記」・古川貞雄「松江藩初期家臣団の拡大過程(一)」『信濃』19-6)

厚木某(弥三郎)
実名不詳。厚木丹後の子。丹後の父は若狭と称し、結城晴朝に仕える。永禄三年から天正十八年まで諸所に出陣。(「諸士」)

渥美助左衛門
実名不詳。のち無手右衛門と称す。父渥美河内。遠江横須賀城主で小笠原美作家臣。美作守討死の後浪人。助左衛門は九戸の乱の折り、井伊直政の備えにいて活躍。徳川家康より無手なる働き、と賞されて「無手右衛門」と改名するよう命じられる。のち故あって井伊直政に預けられた後、秀康に召し出される。越前拝領の時は先発して北庄城修築を勤めた。松平忠昌の越前入封に際して残留を命じられた約百名のうちの一人。(「諸士」)

渥美半右衛門
実名不詳。渥美久兵衛友重(大坂の陣以降忠直家臣となる)の弟。兄友重と平岩親吉・鳥居元忠に仕え、小田原攻めでは岩槻城を攻め、隠居曲輪の寄手に加わって戦功を立てる。のち秀康に仕える。(「寛政譜」)

天方山城
実名通綱([叢記」では通興)。本名は首藤。相模国山内に住したため「山内」と称した。徳川家に属して掛川城主であり、その後天方を知行したため改称。故あって高野山に蟄居の所、秀康に召し出される。大坂の陣では松平直政の手に加わり、御陣役を務めた。(「諸士」)

嵐追手助
秀康の逸話を参照。

安藤金助
実名不詳。太郎左衛門家次(紀伊徳川家付家老安藤直次の伯父)の子。松平忠直に仕える。(「寛政譜」)

安藤太郎左衛門
実名定豊。家次の五男。上の金助の弟に当たる。秀康に仕えた。(「寛政譜」)

石井備中
秀康の結城時代からの家臣。先祖の事跡は不明。(「諸士」)

石川右衛門作
矢野伝左衛門宗喜の弟、矢野五左衛門宗善のこと。初名石川右衛門作。飯尾三郎四郎の子で、飯尾氏は尾張国武江城に在城していたが織田信長に攻められ落城。(「諸士」)

石川志摩(対馬)
実名成綱。石川数正の嫡子。故あって家督たらず、五千石を与えられて徳川家康に仕えて徳川信康に仕え、自害後再び家康近習。小田原征伐で駿府城に家臣招集の際、家康口上を伝える役を勤めたが、香川刑部が家康の悪態をついたため諸士に了解を取った上で城外に待ち伏せ殺害。三河国へ立ち退く。関ヶ原合戦後、甲斐に居たが、甲斐領主平岩親吉に秀康より成綱父子の行方が知れ次第父子共に越前に来るようにと書状が来たため、父子で越前へ下向。慶長八年家臣となる。大坂の陣で奮戦。忠直より扇子二本(内一本は忠直自筆)を賜る。(「諸士」)

石川宗左衛門
成綱の子。実名乙成。初めは五郎兵衛と称した。慶長十二年(1607)に父と別に知行を与えられる。父と共に大坂の陣に出陣し奮戦。(「諸士」)

井上太左衛門
実名重成。正就(寛永五年八月十日江戸城西の丸で殺害される)の兄。清秀の子。徳川家康から秀康に付けられ、先手物頭を務める。のち病によって遠江国横須賀に蟄居。寛永二年幕臣に復帰。(「寛政譜」)

今村大炊助(掃部)
「諸士」では実名不詳とあるが、盛次(『福井市史』資料編4、822頁など)である。父は今村九郎兵衛といい、三河国今村に居住、家康に召し出されて慶長年中御納戸役など勤める。
 九郎兵衛家督は二男彦兵衛が相続し、三男・四男・五男(伝右衛門)らと共に幕臣となる。嫡男掃部は秀康の附人を命ぜられて丸岡城主となった。慶長十七年(1612)家中騒動で改易。猶子今村段右衛門正形(実父今村伝右衛門)は掃部改易後、松平忠昌に越後で召し抱えられて越前に復帰した。

岩上越中守(左京)
実名は朝吉。はじめ左京と称した。父は三浦(岩上)隠岐守朝堅。結城晴朝のとき、三浦を改めて小山氏庶流岩上氏を名乗るように命ぜられ、一字も与えられて岩上朝堅といった。朝吉嫡子は養子(笹治大膳正時の弟)左京吉次。共に大坂の陣に出陣。但し実子朝親ものち松平忠昌より知行を与えられている。(「諸士」)

宇佐美次郎右衛門(喜平次)
山名次郎右衛門のこと。はじめ宇佐美喜平治と称していた。結城時代に秀康に召し出される。大坂の陣に出陣。(「諸士」)

内田小(庄)八郎
美濃生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)

江川安右衛門
実名不詳。はじめ弥平治と称す。壬生上総介(義雄?)に仕えていたが天正年中、秀康に招かれ召し出される。(「諸士」)

江口石見(守)
実名は不詳(「叢記」では元近)。先祖は江戸崎五郎右衛門で常陸国江戸崎城主。天正十八年に落城し、江戸崎石見が秀康に召し出されて姓を江口と改めた。忠直の時、蟄居して越前越知山麓に居住。子半大夫幸村は松平忠昌に召し出された。(「諸士」)
(※「叢記」では丹羽長重重臣、江口三郎右衛門の子とする。)

大井田監物
実名房仲。上杉景勝に仕え、与力知行をあわせて二万石を領し、佐渡の城主であったと伝える。その後秀康に召し出され(慶長八年には既に家臣となっている)、忠直時代大坂の陣に出陣している。忠昌の代に暇を願い、法体となって道夢と号したがのち召し返される。子二人も召し出され、そのうえ房仲自身も加増の上、御旗奉行を命ぜられ、法体で役を勤める。上杉家での合戦働きの覚、や大坂の陣での書付などを残した。(「諸士」)

大串弁之助
武蔵生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)

太田安房(守)
実名資武。太田資正の三男。寛永二十年十一月十日死去。(「叢記」)

大藤小太郎
実名不詳。先祖はかつて武田が本名だったが北条家に仕えていたとき、武田家と北条家が合戦に及んだため名と家紋を改め大藤式部大輔と称した。北条家滅亡後浪人し、秀康に結城時代に召し出され、越前では千石を与えられる。大坂の陣で重傷を負い死亡。(「諸士」)

大町靭負
実名広次。秀康の結城時代以来奉公。但し摂津国大坂で召し出されたという伝あり。大坂の陣に出陣。嫡子勝左衛門は別に知行を与えられていたが、広次が死去し、家督相続を仰せつけられる前に勝左衛門も死去したため本家は断絶した。(「諸士」)

岡部淡路守
岡部豊後守の嫡子。秀康の小姓を務めた。秀康死去の時に殉死の覚悟であったが、幕府より殉死の禁止が伝えられたため願いは果たされなかったが大坂冬の陣で討死。(「諸士」)

岡部伊予守
入道名自休斎。駿河生れ。町奉行を務める。逸話参照。(「叢記」)

岡部五郎兵衛
実名不詳(「叢記」長教)。近い先祖は岡部丹波守元綱で、代々今川家に仕えていた。そののちは武田氏に仕え、滅亡後北条氏に仕えたのか、氏康・氏政の感状を所持しているという。それ以後徳川家康に仕え、秀康には結城時代に召し出された。子の五郎兵衛は慶長十七年に家督相続。(「諸士」)

岡部(内記)豊後守
実名不詳。岡部の姓は母が秀忠に奉公しており、岡部と称していたため。豊後守曾祖父は内記・内記之助と称していたため、当初豊後守は内記豊後守と称したか。
 家康より秀康に付けられ、その後松平忠昌に付けられた。大坂の陣の慶長二十年(元和元年)五月六日、忠昌が翌日の先陣を家康に願ったが叶わず、豊後守も同席しており忠昌をなだめて陣所に引き取らせたが、翌日忠昌が先駆けしたため、前日の上意のため豊後守は討死した、と伝えられている。(「諸士」)

岡見治部
実名治広。治資の子。妻は土岐治英の娘。北条氏に属し、その滅亡後は常陸国江戸崎に蟄居する。やがて秀康に召し出されて五百石を拝領、越前転封にも従って元和三年四月十八日、越前において死去。(「源姓岡見氏系図抄」『龍ヶ崎市史』中世史料編)

荻田主馬
実名長繁。初め孫十郎と称す。越後で上杉景勝に仕え、上杉義春の組下であった。御館の乱で北条丹後守(景広)に槍を付けた。のち主馬と称して秀康に召し出されて千石を与えられた。家康は本多冨正を召して「主馬を小身のまま召し使うのは秀康の不覚である」と語ったので急に一万石となった。(「叢記」・下村效「上杉氏家臣、荻田長繁の口宣案」『戦国史研究』25))

荻野河内(守)
実名は永道という(文書の署名は『福井県史』資料編3、1982、によれば「家次」)。父は荻野伊賀守。丹波国にいて浪人のまま死去。永道は青木紀伊守(秀以)に七千石で召し出されて城代を務める。紀伊守死後丹波へ戻るも秀康に召し出されて千人扶持を与えられる。大坂冬の陣では永見民部の備えの頭を務め、夏の陣では留守居として城を預かった。

荻野小大膳
荻野河内守の嫡子。実名永清。大坂冬の陣に父と共に出陣するが、討死した。(「諸士」)

奥村桐之丞
実名不詳。初め北条家臣。小田原攻めで蒲生氏郷の家臣、結解十之丞の槍を合わせ、十之丞の股を突いた。(「叢記」)

小栗市正
小栗備後守の弟。秀康・忠直に仕える。(「小栗家譜」『頸城文化』22)

小栗吉六(五郎左衛門)
小栗備後守の嫡男。実名正重。当初吉六と称し、徳川家康に仕える。祖父小栗大六(秀康に仕える)死後、父、備後守と共に秀康家臣。忠直嫡男光長の転封に従って家老職を務め、寛文五年死去。(「小栗家譜」『頸城文化』22)

小栗忠八
実名不詳。三河国青野城主小栗修理太夫の弟、小栗主計の子と伝える。(「諸士」)

小栗備後守
実名重勝。大六重国の子。父が秀康に仕えるも徳川秀忠に仕えていた。父が結城で死去した後に子の吉六と共に秀康家臣となる。土屋左馬助の殉死ののち大野城代。大坂の陣で越前勢が獲った頸は3700余であったが、そのうち75つの頸は備後守が獲ったとされる。松平忠直が隠居し、嫡男光長が越後に転封と決まると致仕、高田城代となる。致仕した後も江戸に赴くとかならず徳川秀忠に召されていたという。寛永八年八月二十八日死去。(「小栗家譜」『頸城文化』22)

小田彦太郎
実名守治。小田氏治の二男。小田氏の没落後、常陸国下妻に蟄居していたが越前に赴き、慶長十五年二月二十七日死去。(「源姓岡見氏系図抄」『龍ヶ崎市史』中世史料編)

落合主膳(美作)
忠直の勘気を蒙って和泉国堺に蟄居するが、徳川(紀伊)頼宣に召し出されて落合主膳と名乗る。子多左衛門勝重は皆川平右衛門勝照(皆川広照の子)の養子となった。(「諸士」)

乙部九郎兵衛
父は掃部で小早川秀秋に仕えていた。慶長八年、大久保忠常の肝煎りで秀康に召し抱えられる。松平直政が上総姉ヶ崎に領知を与えられたときに松平忠直から付けられ、代々松江松平家家臣となる。(「烈士録」『大野市史』3・古川貞雄「松江藩初期家臣団の拡大過程(一)」『信濃』19-6)

海福久右衛門
実名不詳。遠江国高天神城主、小笠原弾正小弼の家臣であったが小笠原氏没落後秀康に召し出される(文禄年中)。大坂の陣に出陣して御旗奉行を務めた。(「諸士」)

海福瀬左衛門
実名不詳。久右衛門の子。父と共に大坂の陣に出陣。城に乗り込むとき、父久右衛門組下の者が疲労していたため瀬左衛門が旗を持って前田家の先を乗り越えて「桜ノ門」に旗を立てたという。(「諸士」)

梶原美濃(守)
実名政景。太田資正二男。太田資武の兄に当たる。

片山主水
実名は吉次か(『福井県史』資料編3、466頁)。徳川家康に仕え、秀康に付け人を命じられて代々家臣。実名は吉頭ともいったか。(「烈士録」『大野市史』3)

加藤四郎兵衛(宗月)
実名康寛。父は芦田右衛門佐信蕃で武田家に仕えていたが滅亡後徳川家に属す。信蕃は天正十一年岩尾城攻めで討死。嫡子竹福丸は家督相続を命じられて諱と松平の称号を賜り松平源十郎康国といって小諸城にいた。弟の福千代丸は天正十四年十三歳で元服、諱と松平の称号を賜り松平新六郎康実(のち康寛)と称した。小田原攻略では兄弟共に奮戦するも、兄康国が自害したため家督を相続。上野国藤岡に知行を与えられ、右衛門大夫に任ぜられた。のち故あって蟄居していたが慶長五年、秀康に宇都宮で召し出され、加藤四郎兵衛と号して日光の警護を仰せつけられる。越前入国では大野郡木ノ本に知行を与えられた。秀康死後、剃髪して宗月と号し、大坂の陣では大野郡が一揆所ということで大野城代をつとめた。(「諸士」)

上三川左衛門
実名実基。安芸守成業の子。成業は宇都宮氏が没落後浪人となったが、子の左衛門実基は慶長年中の初め秀康に召し出された。慶長十二年、秀康二男忠昌が上総姉ヶ崎を拝領したときに付けられた家臣の一人となる。大坂の陣では御旗奉行を務めていた。実基は越後で死去したが、嫡男はそれ以前に早世、二男は日光山座禅院の僧侶(太兵衛義政)であったので嗣子がなく断絶した。しかし由緒ある家であるので二男を召し寄せて家督を相続させた。(「諸士」)

木内三太夫
実名不詳。千葉氏の末裔と伝える。結城時代に召し出された(慶長四年以前)。

岸利(理)兵衛
実名光次。初め新助と称す。祖父岸五郎左衛門は和泉国岸和田より越前に下向、鷹道の源政頼の弟子となり鷹職となって越前国蟇目に居住。朝倉孝景の代に光次の兄光重が土地を購入したのが確認され、その後織田信長より土地安堵の朱印を与えられ、弟光次の家督相続後は柴田勝家・丹羽長秀・長谷川秀一に判物を与えられる。秀康の代に検地が行なわれ、知行朱印状が与えられた。子吉重は忠昌の代に鷹匠頭を仰せつけられたが、かつて役儀を務めたことがないといって拒否。知行を半分没収されて六十五石となったが検地の結果百四十石であった。のち百石を吉重、残りを従兄弟総兵衛光清に与えることになった。(「諸士」)

久世但馬(守)
実名不詳。元佐々成政の家臣。慶長十七年の家中騒動で成敗される。逸話参照。(「叢記」)

国枝頼母
実名家次。美濃の国枝小兵衛の子。十六歳で親の仇討ちをする。稲葉右京進との関係があったため若年より越前家にいた。そのあと寺沢志摩守(広高)に仕えたが立退き、豊後臼杵に居住していたが、慶長八年、秀康に召し出されて大坂の陣に従軍。山川讃岐が若年であるので介添えを仰せつけられた。(「諸士」)

窪嶋半助
甲斐生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)

剣持弥作
実名正重。弥作は初名で、のち六郎右衛門。正重の父は今川義元に仕えた剣持豊後守。正重は結城時代に召し出された。(「諸士」)

香西太郎右衛門
実名不詳。父は長宗我部氏家臣、香西備前守といって讃岐国香西城主であったと伝える。結城時代に召し出された。(「諸士」・「叢記」)

高徳掃部(主計)
実名不詳。大番組に属す。下野で生まれる。
 あるとき三男、右衛門三郎が原田七左衛門(同じ秀康家臣)の子の刀を望んだところ、断ったため右衛門三郎は「たとえ千金を延べて作った刀だとしても、侍が望まれて断ることはあってはならない」と七左衛門の子を叱りつけたので、渋々与えた。しかしその与え方が悪かったのか右衛門三郎が怒って討ち果たしてしまった。帰宅してこの事を伝えたところ、掃部は「でかし候」と誉めた。しかし掃部は右衛門三郎を召し連れて原田七左衛門の屋敷へ赴き、「私には子供が沢山おりますが、お手前には子供が一人しかおらず不幸なことでありました。忰を連れてきたので如何様にもなされるように」と言ったところ、七左衛門は「それならば我が子にいたそう」と答えた。掃部は「このようなうつけの忰は何の役にも立ちませんが、よい子に育ててくださるように」と原田七左衛門の養子にしたということである。(「叢記」)

小嶋頓八
実名不詳。与五右衛門の嫡子。慶長八年召し出される。大坂の陣も父与五右衛門と共に出陣するが、その後病死、嫡流は断絶した。(「諸士」)

小嶋与五右衛門
実名不詳。朝鮮出兵の時、名護屋の陣所で召し出される。大坂の陣にも出陣。その後、北庄城の瓦門番を務めるが、忠直の正室勝子が江戸へ戻ったという雑説が流れたとき、忠直の命に従って門への出入りを厳重に行なったが、忠直が配流された後この出来事で勝子の不興を買い、暇を得て駿府へ赴き、徳川忠長の元に差し置かれたが病死。二男五与右衛門好寛がのち越前家に召し出されて存続。(「諸士」)

近藤五郎左衛門(縫殿助)
実名用可。五左衛門とも。幕臣近藤石見守秀用の二男。秀康・忠直に仕えるが、元和元年、大坂の陣の際に父の請いで幕臣になる。父と共に合戦に従い、天王寺口で頸を得る。元和八年、上使を承って越前に赴くが、帰路相模国大磯で落馬し、死去。(「寛政譜」)

桜井武兵衛
実名不詳。もと北条氏家臣。秀康の子、直政が信濃松本から出雲松江に加増転封されるときに福井藩から松江藩に分与される。「桜井武兵衛戦功覚書」を記した。(『群馬県史』通史編3、742頁)

笹治大膳
実名正時(『福井市史』資料編4、683頁によれば「常勝」)。結城時代に召し出される。父は山県昌景の庶子、上村左兵衛。左兵衛は尾張にいたが、浪人のまま死去。大膳が召し出されたとき、笹治兵庫の一族になるようにと命じられ、それ以後笹治と改めた。兄は山県内匠といい、大坂の陣では忠直の供をして真田幸村の備えに一番槍をつける武功を立てるが、恩賞が無いのを忠直の代より申し立てていたが、忠昌の代になって大坂の陣の恩賞は差し止めることになったが、それでも不満を言い立てたので暇を願い、願い通り下されたので内匠家は断絶した。(「諸士」)

笹治兵庫
実名重昌。初め加藤庄次郎といった。斯波治部大輔義将の子、斯波治部大輔義重の二男笹治兵部丞義春の曾孫。重昌は初め小早川秀秋に仕えて備前国岡山に居住。秀秋の没落後に京都に居たが秀康に召し出される。大坂の陣は病で出陣せず。(「諸士」)

四王天又兵衛
実名政実。先祖は武蔵国四方田というところに居住し、四方田と名乗る。四方田但馬守政長が土御門天皇に綸旨を賜って四王天と改称。但馬守政孝の子。明智光秀家臣で本能寺の変で森蘭丸を討ち取る。光秀滅亡後、豊臣秀吉を恐れて紀伊国湯浅に潜伏。領主青木紀伊守(秀以)と旧知の仲だったので三百石を与えられて秀以の越前転封にも従い、舟橋(北庄城下)の押さえとして置かれた。秀以が病死して家が断絶したため浪人、翌年秀康が越前に入国し召し出されて再び舟橋に置かれる。
 慶長九年、秀康に召され、働きは認めるが先に加増するものが多いので加増が後になると告げられて金子を渡された。翌年には自宅に秀康が来訪。そのときに川筋で漁をすることは禁じられているがその免除を伝えられる。大坂の陣は留守居を務め、子の又兵衛孝信が出陣した。(「叢記」・「諸士」)

嶋田右京
実名成重。幕臣嶋田重次の二男。徳川家康に仕えるが、口論してその者を討ち果たして退去。その後秀康・忠直に仕え、忠直の配流後に浪人となる。寛永二年徳川秀忠に召されて幕臣となる。寛永三年八月十五日死去。(「寛政譜」)

春秋兵庫
実名重元。水戸下田野城主。江戸氏と関係があったらしい。寛永元年四月十九日死去。(荻原龍夫編『江戸氏の研究』名著出版、1977)

清水丹後(守)
実名は孝正(『福井県史』通史編3)。三河生れ。敦賀に居住したという。慶長十七年の騒動で罰せられて伊達家に預けられた。(「叢記」・「忠直年譜」)

鈴木市右衛門
実名重堅。重飩の子。初め市蔵と称する。徳川家康に小納戸役として仕え、のち故あって秀康に仕えた。(「鈴木主税家代々勤書」『福井市史』資料編4)

鈴木多宮
実名不詳。市右衛門の子。(「鈴木主税家代々勤書」『福井市史』資料編4)

関根織部
実名勝直。元北条氏家臣で広沢兵庫重信の弟。秀康の逸話も参照のこと。(「叢記」)

高田遠江(守)
実名一英。始め小左衛門と称す。豊臣秀吉時代、増田長盛に属し、知行一万石。関ヶ原合戦では増田長盛は出陣しなかったが代理として出陣した。戦後長盛は高野山へ引きこもるが、本多正信・井伊直政から長盛と手を切るべき旨と言い渡され、長盛を高野山麓に送り届けて長盛妻子も処置して京都に居た。そのところ本多正信・井伊直政の指図によって慶長八年正月秀康に召し出される。召し抱えの節は正信より越前家家老へ書状が遣わされたという。大坂の陣は御国寺社町奉行を勤めていたので出陣せず。(「諸士」)

高梨理内(清大夫)
信濃出身。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)

高屋善右衛門
下の高屋越後の後継者と考えられるが間柄は不明。(「諸士」)

高屋越後(筑後)
実名不詳。安藤守就の三男。美濃の高屋四郎兵衛の養子となり、姓を高屋に改めた。結城で秀康に召し出され、越前転封にも従う。大坂の陣では本多冨正の備えに加わり、首級十九を得たと伝える。嫡子七郎左衛門は家督相続以前に死去。嫡家は断絶した。(高屋善右衛門が跡を継ぐも、どのような人物か不明。)(「諸士」)

多賀谷権太夫
実名村広。権太夫は初名でのち刑部を名乗る。秀康の結城家相続の為に上洛した安芸守政広の子。土浦城代を務めた後、越前に移る。大坂の陣では番頭を務める。松平忠昌時代には忠昌の子、昌勝の傅役を十年務めた。(「諸士」)

多賀谷左近
実名泰経。(「秀康給帳」では慶長十二年死去の父光経とも考えられる。)越前では加賀国に隣接する地域(坂井郡)を一円的に知行し、支配した。泰経は元和二年に没。養子左近経政が家督を相続せず、多賀谷家は断絶した。しかし経政の子、修理経栄が松平直基(前橋松平、松平大和守家)に仕官し幕末に及んだ。(『福井市史』資料編4の文書解題)

多賀谷左内
忠経か?重経の子、光経の弟。近江佐和山に居住し、万治二年十二月二十日卒した。(『結城市史』第一巻 古代中世史料編所収「多賀谷氏系図」)

竹嶋周防(守)
実名不詳。遠江出身で家老。久世騒動で刀を奪われ、城内に監禁されたことを恥じ、騒動で無罪の裁定が下されるも帰国途中に自害。詳細は忠直の逸話参照。(「叢記」・『徳川諸家系譜』四所収「忠直年譜」)

伊達与兵衛
実名宗綱(宗綱の没年は不詳で、子与兵衛宗定が大坂の陣で討死しているので子宗定とも考えられる)。吉宗の子。奥州伊達家と同族。今川氏から高天神小笠原氏に仕え、小笠原氏が徳川氏→甲斐武田氏→徳川氏→北条(氏規)氏と仕えたのでそれに従う。小田原城攻めで小笠原氏家臣として韮山城に籠もり、その武勇を秀康に認められて召し抱えられた。
(長倉智恵雄「漂泊の戦国武士二人の伊達与兵衛-『駿河伊達系図』から-」『地方史静岡』11、1983・『京都大学文学部博物館の古文書第五輯 駿河伊達家文書』思文閣出版、1989)

谷左衛門助(佐)
実名吉長。谷衛友の二男。衛成の弟。秀康に仕え、のち去る。(「寛政譜」)

谷伯耆(守)
実名不詳。谷衛友の弟か。衛好の二男。(「寛政譜」)

長勝院
万。秀康生母。池鯉鮒の方。三河池鯉鮒大明神、永見吉(貞)英の娘。秀康死去後剃髪、泰清院と称した。元和五年十二月六日死去。享年七十三。越前孝顕寺に埋葬。(「秀康年譜」「叢記」)

土屋市兵衛
実名吉住。父、井堰豊後守は徳川信康に仕え、のち浪人して京都や北国にいた。小田原征伐では池田輝政に従い、秀康が越前に入国したとき、輝政が吉住を召し連れて越前を訪れ、秀康に召し抱えるように願ったと伝える。大坂の陣に出陣し、忠直の供を務めた。(「諸士」)

土屋左馬助
実名昌春(昌明)。昌義(茂)の子。昌義が天正十年三月、昌春が二歳の時討死したので、脇谷某に匿われ、成長した後に徳川家康の小姓となる。のち秀康に仕える。越前入封後、大野城主。秀康の死去三日後に殉死した。二十七歳という。子主膳は忠直母、清涼院の計らいで父と別に三千石を与えられており、寛永元年、松平忠昌入国後に二千石を与えられ、左馬助と改名した。(「叢記」)

富永雅楽助(刑部)
実名勝安。山城守政辰の二男。富永氏は代々北条氏に仕え、曾祖父山城守政直が北条早雲・氏綱・氏康に仕え江戸城を守った。祖父神四郎直勝は江戸城に加え、葛西城将となるも、永禄七年鴻台で討死した。父政辰は北条氏政の一字を賜っている。政辰の嫡男(勝安の兄)は直則で幕府旗本となった。(「諸士」)

※系図には「雅楽助」とは記されていないが、石高が同一なため、同一人物と考えられる。

中川源太郎
実名一茂。先祖は播磨国平野城主真島山城守。その三男真嶋出雲守(新助)が武者修行に出、河内国に居住、姓を小寺と改めた。その子が中川源太郎(のちの出雲守)で、秀康に結城時代より仕え、中川の称号を与えられた。忠直生母清涼院の連枝であるということで重用されるが、訳あって将軍家より信濃国へ蟄居を命ぜられ、そのご信濃国を領していた徳川忠長に仕えた。子直重も当初忠長に仕えたが、のち松平忠昌時代に越前家に帰参した。(「諸士」)

永見右衛門
実名吉望(貞武)。永見吉治の子。母が家康の従妹にあたり、母と共に越前に行き、慶長六年、初めて秀康に仕えるという。慶長十二年閏四月九日、秀康死去の翌日に殉死。二十四歳。子の右衛門佐は元和八年、忠直に成敗された。十六歳。(「叢記」)

永見左太郎
実名吉克。淡路守。系図には「左太郎」と称したとは記されていないが、嫡男淡路守吉之に「初名左太郎」とあるので吉克も名乗ったと考えられる。父は吉英で、池鯉鮒城主。娘に長勝院(秀康母)がおり、吉克は兄。天正年中吉英が自滅、池鯉鮒城が没落し、吉克は浪人した。しかし池鯉鮒大明神の別当という由緒で長勝院が秀康に頼んだところ召し出された。大坂の陣に忠直に従って出陣。(「諸士」)

永見志摩守
実名吉次。はじめ毛受忠左衛門と称した。祖父毛受小三郎は三河田原城主であったと伝える。小三郎の子、孫兵衛は三河小山に閑居していたが、妻が永見吉英の娘で長勝院の妹であり、孫兵衛の子吉次が秀康に召し出された。秀康の二男、忠昌が五歳の時に附属を仰せつけられ、大坂の陣の前、駿府で家康の命で秀康の外戚の称号である「永見」と改めた。忠昌の嫡男、光通が家督相続の御礼に江戸城に登城した際は、光通が幼少のため、将軍の言葉への返答を吉次が代わって行った。(「諸士」)

永見民部
実名不詳。通称は頼母とも。家康の子であるが、対面を許されず、秀康生母長勝院の計らいで秀康に寄食。越後に居住して永見氏を名乗るという。忠直の時代に大坂の陣に出陣する。元和九年八月、秀康二男、松平忠昌の領知、越後高田において死去。(「叢記」)

棗八右衛門
実名不詳。関ヶ原合戦の勝利を祝して、秀康が父家康に使者を送った中の一人。越後生れで徒頭として取り立てられたという。(「叢記」)

西尾仁左衛門
実名宗次。父は宮地久右衛門で、当初は宮地久作と称した。後に遠江国の西尾是尊という浪人に養子に行き、西尾久作と改めた。高天神城の合戦等々に加わり活躍が目立ったのを秀康が聞きつけ、召し出された。大坂の夏の陣で真田幸村を討ち取り、家康・秀忠父子に目見えし褒美を賜り、また忠直からも刀などを賜った。(「諸士」)

長谷川次郎左衛門
実名不詳。祖父長谷川淡路守・筑後守(下記参照)共に幕臣であったが、父筑後守が忠直に嫁ぐ勝姫(秀忠娘)の付人になって越前に下る。次郎左衛門はそれ以前から越前家に仕え、大坂の陣には冬・夏とも出陣。忠昌の越前入国に際して、越前に残留を指示された。(「諸士」)

長谷川筑後守
実名正成。天正四年より家康に仕える。慶長十六年、勝姫が松平忠直に嫁ぐときに附属して越前に赴く。その後忠直が配流され、子光長が越後高田に移った後も勝姫に仕え、寛永二年には幕府より加増される。寛永十五年九月死去。享年七十五。弟宣次の子孫は長谷川平蔵(宣義)である。(「寛政譜」)

西村三助・三平
実名不詳。一族に西村定秀という人物がいた。定秀は上杉景勝に属し、伊達政宗と対陣したときに政宗の陣所を攻めて敗北させ、陣にあった道具や幕を奪い取った。のち伊達家が幕と交換に白石四万石を与えようとしたが、上杉家は「領知は槍先で奪い取るものである。幕は必要なので返すことが出来ない」と返答した。これにより定秀の家の家紋にも竹に雀を付けたと伝わる。(「諸士」)

波々伯部九兵衛
実名家繁。のち靭負と称す。父高家と家繁は徳川家康が上洛をした際に伏見で目見えし、召し出されることになったが秀康に付けられて越前へ従った。大坂の陣に出陣し、その後城代を仰せつけられ代々務める。松平光通(忠昌の嫡男)の時代、慶安三年(1650)、九十七歳まで隠居せず、その後二男勝政に家督を譲った。ちなみに勝政は当初加藤清正に仕えていたという。(「諸士」)

長谷部釆女
実名不詳。休楽と号す。長谷部長兵衛尉信連の末裔とつたえる。永禄の頃朝倉義景の元にあったとき、不慮の喧嘩で立ち退く。その後先祖の縁で能登の長九郎左衛門方へ隠れ住まっていた。そののち京都へ出、謡の指南や躾についての知識があったために、秀吉の養子であった秀康に謡の指南をするために出入りする。家康が上洛したときにその縁で目見えをし、秀康の家臣として付けられた。子の右馬之助は大坂の陣に出陣。(「諸士」)

林伊賀守
実名忠定。林藤五郎の二男。幼少より家康に仕え、後秀康に附属。1万石を与えられて越前勝山城主。久世騒動によって処罰され、真田信之に預けられたがのち許される。寛永五年九月朔日死去。享年六十一。孫定頼からは母が土屋左馬助の娘だったので「土屋」を称した。(「寛政譜」)

原田七右衛門
高徳掃部を参照。

原隼人
実名貞胤か。甲斐生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。

また、言い伝えるところとして、真田幸村の古い知り合いであったため、大坂冬の陣の際、忠直に対して、隼人との対面を許してくれるように願った。忠直はそれを許し、隼人は幸村の陣所に向かい、雑談は数刻に及んだ。分かれ際に幸村は「我等は近々討死と決まった。飾りとして抱角之兜をつけ、秘蔵の馬に乗って快く討死したいと思う。対面も今日が最後であろう」と言ってお互い名残を惜しんで分かれたという。(「叢記」)

原平左衛門
実名不詳。先祖である原若狭守・同大炊助は千葉家に仕え、のち北条家に属した。千葉胤富・国胤の感状等を所持していたという。(「諸士」)

広沢兵庫
実名重信。武蔵生れ。信秀の子。敦賀町奉行であったという。(「諸士」)
参考:扇谷上杉氏家臣団

藤岡彦太夫(七兵衛)
信濃生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)

本多伊豆守
実名冨正。志摩(守)・丹波守も称し、晩年は元覚斎と称した。本多重富の子。父が岡崎信康に附属していたが、信康の自害後蟄居、冨正は信富の弟、作左衛門重次に養育された。秀康が豊臣秀吉の養子となるとき、重次の子、成重の代わりとして秀康に付けられ、大坂に遣わされる。その縁で秀康の筆頭家臣となる。慶安二年八月二日死去。享年七十八。(「諸士」・武生立葵会編『府中領主本多富正の生涯』)

本多左門
実名不詳。三河生れ。慶長四年、土浦城代となり、千二百六十石を領した。大坂冬の陣では「国城代」を命ぜられたという。(「叢記」)

牧(野)主殿(助)
実名易貞。父清兵衛は永禄十二年には家康に仕えていた。易貞は、幼少の時、家康から直に「お前は秀康に附属するか、それとも秀忠に附属するか」と聞かれて、日頃懇ろにされているので、秀康に仕えたい、と言上したという。家康はそれを聞いて笑い、望み通り秀康に附属させた。大坂の陣では先備を勤め、忠直配流後、弟忠昌の越前入部に際しては金津まで出迎え、城内を案内した。(「諸士」)

丸山権之丞(助)
信濃生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)

三沢甚右衛門
実名不詳。信濃生れ。慶長六年、越前で秀康に召抱えられる。(「諸士」)

御宿勘兵衛
実名正倫。北条氏・黒田氏・家康・秀康に仕える。知行の不足を訴えて秀康家を退散、名前を変えることなく豊臣家に仕える。元々軍配者で武名も高く、大坂の陣の前に秀頼に「越前勢に当たるようにして下さるよう。もし越前勢をうち崩したならば、越前を拝領仕りたい」と述べ、自ら「越前守」を名乗ったという。

また伝えるところによると、越前家の野本右近と古い知り合いで、大坂夏の陣の末期に野本と会って言うには、「私は不肖とはいえ、一方の武将として貴殿らの手へ立ち向かっている。忠直様のご秘蔵の馬である、荒波を拝領仕りたき旨頼み入りたい。」とのことであった。野本は忠直へそのことを言上したところ、忠直の怒りは強く、「このような言いぐさをどのようにするべきか」と言った。野本はしばらく忠直をなだめ、結局馬を遣わした。翌日、勘兵衛は荒波に乗って討死したという。(「叢記」)

水科新助
信濃生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)

三寺久左衛門
実名正信。祖父は長野業正という。父長野正宣は武田信玄に仕え、五十三貫文の地を領したという。上野国三寺郷に住したため子孫は三寺を称号としたという。(「諸士」)

水戸三七
実名実(宣)通。初め江戸但馬守と称した。江戸重通の二男。佐竹義重の娘を妻とするが、水戸城落城に際して離別。重通の娘が結城晴朝の養女となっていた関係で結城に逃れ、その時に「水戸」と改名。元和九年、病気のため合力米を返還した。(「諸士」・『江戸氏の研究』)

皆川平右衛門
実名勝照。父は皆川広照。広照は慶長五年の上杉氏征伐、その後の上田城攻めに従うが、平右衛門勝照の儀について所存があったため、家督を弟の山城守隆庸に譲り、父子共々秀康に仕えた。勝照は子が無かったために、落合美作の子を養子とした。多左衛門勝重と称した。ちなみに、平右衛門の妻は北条家臣茂呂又十郎の娘であった。(「諸士」)

村田伝右衛門(信濃守)
実名近氏。伊勢出身で、意竹の子という。慶長五年、石田方が大坂に武将の妻子を留め置いたが、秀康の母をこの伝右衛門が伊勢の神主を頼んで奪還したという。(「叢記」)

柳田縫殿助
結城氏の一族。結城晴朝に仕え、晴朝隠居後は秀康に仕える。越前転封後の慶長七年、結城一族の由緒を以て当時十歳の松平直政に付けられる。柳田氏は松江松平家の城代家老となった。(「烈士録」『大野市史』3)

柳下由右衛門
実名は不明。大坂の陣で忠昌にお供をし、戦功が少々あったため、帰陣後加増された。(「諸士」)

矢野右衛門助
実名宗善。矢野伝左衛門の弟。初め石河右衛門作と称し、のち矢野五左衛門と称した。(「諸士」)

矢野伝左衛門(忠助)
実名宗喜。初め飯尾源四郎、次いで石河忠助と称した。先祖飯尾蔵人は尾張武江城主で三万五千石を領し、斯波家に仕えていたという。

蔵人とその子三郎四郎は織田信長の甥、織田五郎左衛門が美濃伊母に在城していた頃、蔵人の私恨により伊母城を攻めたところ、織田信長が武江城を攻めて家臣の裏切りによって落城した。

三郎四郎の子、伝左衛門は飯尾源四郎を石河忠助と改め、のち徳川家康が遠江浜松にいた頃に召し出された。その後秀康が伝左衛門の譲渡を願い、許されたため結城に移る。越前入国の時に矢野忠助と改名、さらに後になって伝左衛門と改名した。慶長十七年(1612)より美濃国境の押さえとして勝山城を預けられ、大野郡十万石を支配した。忠昌が越前入国の時には、指図で直接忠昌に奉公した。(「諸士」)

山方内匠
笹治大膳正時の兄。大坂の陣で忠直の御供をし、天王寺の真田丸に攻め入って一番槍の功名を立てた。しかし恩賞が下されなかったため、忠直代に数度申し立て、忠昌の代に至って恩賞を差し置かれたが、なお訴えて暇を願って松平家から退転した。そのため山方内匠家は断絶した。(「諸士」)

山川讃岐守
実名朝貞。朝貞が十一歳の時に越前に移る。大坂の陣では忠直の先手を務めた。朝貞の嫡子、朝重が家督を相続した後の忠昌の時代、病気のため暇を願い、関東へ戻って死去した。朝重の弟、内膳朝成は朝重死後忠昌に召し出されている。(「諸士」)

山名次郎右衛門
宇佐美喜平次のこと。

山本宮内(少輔)
山本内蔵助(対馬守)の嫡男。別に知行を与えられて奉公していたが、早世した。(「諸士)

山本信濃
実名家次。駿河国田中に居住し、代々北条氏に仕えて舟大将を勤めていた。北条氏滅亡後秀康に仕え、越前移封後には舟大将を勤めていた由緒で、越前三国湊の守りを命じられたが、その受け方の作法に誤りがあり、秀康の怒りに触れて暇を出された。そのため武蔵国に居住していたが、忠昌が越後を領していたときに子の太郎左衛門重次と共に召し出され、越前移封にも従った。(「諸士」)

山本清右衛門
武田信玄に仕え、のち家康に召し出されて仮に井伊直政に預けられる。長久手合戦の蠏江城攻めのとき、敵を打ち取って直政に見せたところ、今日の城攻めの一番首であると家康に直接披露された。そのため家康が食べた初瓜の半分を与えられたと伝えられる。

その後真田家に仕えて上田城攻めのとき、依田兵部と清右衛門が城外で働いたところ、依田は討死し、清右衛門も数ヶ所傷を負ったが、依田の死骸を囲み、首を獲らせなかった。のち浪人して信濃にいたが、秀康がこの働きを聞きつけて召しだそうとしたが断る。だが清右衛門旧友の大工原九右衛門というものを使者として重ねて召しだそうとしたため、秀康に仕える。大坂の陣にも出陣した。(「諸士」)

山本対馬(摂津)
実名成本。のちに内蔵助と称す。道号通吸。山本勘助の血をひいているというが、系図が消失したため不明であるとされる。結城で召し出され、大坂の陣に従い、先手頭を勤めた。このとき、どのような手柄があったのかは不明であるが、家康より藤島の小脇差を拝領し、今に伝えるという。(「諸士」)

由木左衛門(西庵)
武蔵国出身。由木利重の子であるという。久世騒動に連座して成敗される。(「叢記」)

雪吹喜左衛門
実名重英。初め九蔵と称した。高天神籠城七人の内の一人と伝える。結城で秀康に召し出され、越前にも従う。大坂の陣には忠直に従い、忠昌の越前入部に際しては忠昌が選んだ百五名に選ばれた。(「諸士」)

吉田修理(亮)
実名好寛。もと豊臣秀次の家臣で、石橋彦四郎と称していた。大坂の陣の元和元年五月七日、溺死した。父は吉田内記守氏で、織田信長の家臣。好寛の兄は内記と称し、永禄十一年(1568)の伊勢大河内城攻めで討死。内記の子九郎左衛門と長蔵は織田信雄に仕えた。(「叢記」)

力丸藤左衛門
実名勝時。北条氏直と氏家(?)に仕えた。氏家が高野山に入るときに御供をして送り届け、その後暇をとって浪人していたところ、多賀谷修理大夫の取り持ちで秀康に召し出された。(「諸士」)

http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/echizen-kasin.html

清野氏



清野氏の出自については諸説あり明らかではないが、1440年(永享12)の「結城陣番帳」に雨宮・漆田・生仁氏と共にその名が見える。武田氏北信濃侵入前には鞍骨城を本城とし、東に竹山城、西は唐崎城、南西は鷲尾城を外郭としこの地一帯に勢力を持っていたと見られる。
村上氏に属していたが、1550年(天文19)、葛尾城落城の3年前には寺尾城の寺尾氏と共に既に武田氏に通じていた。
1582年(天正10)武田氏滅亡後は上杉景勝に従い、その後景勝が会津へ転封となると、それに従い1万1千石の知行を得ている。

http://www.geocities.jp/tanbou06/kiyonosiyakata.htm