2023年12月3日日曜日

会津藩士墓地 会津藩殉難者墓地

 会津藩士墓地 会津藩殉難者墓地


会津藩殉難者墓地には352人が祀られている。文久2年(1862)の入洛から慶応3年(1867)の6年間に京の地で亡くなった237霊、そして鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀るために明治40年(1907)建立された慰霊碑がある。なお禁門の変の戦死者は22霊を除いても6年間に200人以上の人が亡くなっていることは異常な状況であるように感じる。大佗坊さんのHP 会津いん東京 の中にある 黒谷会津藩墓地では、この墓地に祀られている方々を詳しく記している。興味のある方は是非ご参照ください。ここには、産寧坂・二寧坂・一念坂の項で触れたように、明保野亭事件で切腹した柴司の墓もある。元治元年6月5日(1864)新選組による池田屋襲撃事件が発生する。 この事件に関係した者の掃討作戦中の6月10日、明保野亭を探索していた新選組と会津藩は不審者を認め、槍で刺して捕えている。それが土佐藩家老・福岡宮内家臣の麻田時太郎であった。新選組は、武田観柳斎、浅野藤太郎を含む隊士15名と会津藩士5名が動員されていたので、現場の指揮権は新選組にあったと思われる。しかし土佐藩士・麻田時太郎を刺したのが会津藩士柴司であったため、問題は複雑化することとなる。結局、池田屋事件後の殺伐とした雰囲気の中で生じた些細な過ちが会津藩と土佐藩の間の外交事件にまで発展し、2人の藩士が命を落とすこととなっている。


この墓地は上記のように明治40年(1907)に鳥羽伏見の戦いの戦死者を祀る慰霊碑を建立すると共に、墓地の整備と入口の位置の変更、門柱の建設、そして墓所の参道に道標を設けている。そのための募金趣意書が大佗坊さんのHPに残されている。その中に下記のような文がある。

     茲に会津小鉄と称する故上坂仙吉氏あり、曾て我藩の恩義を受けたるを徳とし、独力其酒掃に任し忌日毎に香花を供して幽魂を慰め多年之を怠らさりしか、往年不帰の客となれり。その後、矢ッ車大西松之助氏、小鉄の志を継き、西雲院の住職家田真乗師等と心を協せ力を合せて墓地の清除並に忌日の法要を営み、在京阪神等の旧藩人を會して忠魂を追吊し来り、漸くにして今日の現状を保つを得たり。


 上坂仙吉こと会津小鉄の出自についてはいろいろな説があり定かでない。会津小鉄と呼ばれるようになったのは、会津出身ではなく会津の印半纏を着ていたためと言われている。文久2年(1862)松平容保が京都守護職として入洛すると、小鉄は会津藩中間部屋の元締・大沢清八と懇意になり、会津屋敷の出入りを許されている。侠客の小鉄の表家業は口入れ屋であり多くの配下を抱えていたため、会津藩や新選組の市内警護の支援を行っていたと思われる。鳥羽伏見の戦いでも会津藩のために軍夫を用立て、幕府軍が敗れると、置き去りにされた会津藩兵と桑名藩兵の遺骸を埋葬している。


小鉄は明治維新以後も黒谷の会津墓地を守り、明治18年(1885)白川の自宅で亡くなっている。小鉄の墓は会津墓地を管理している西雲院の境内にある。また小鉄の遺志を継いだ矢ッ車大西松之助氏とは、会津小鉄一家に属する侠客で、この墓地整備が行われた後、明治43年(1910)に亡くなっている。


 なお、金戒光明寺の境内に多くの道標があり、これが会津墓地へ導いてくれる。これらの碑は昭和33年(1958)に元越後交通社長であった柏村毅が建立したものである。金戒光明寺の奥に位置する会津藩殉難者墓地は、人通りも少なく静謐さを保ち、手入れが行き届いている。


https://visual.information.jp/blog/2010/02/27/201002-article_28/

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