2016年5月4日水曜日

秦王国



秦王国は『隋書』東夷伝の俀国に出てくる。俀国の都・邪靡堆への行路記事の
明年(大業四年〔608〕)、上遣文林郎裴清使於俀国。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷洲、疑不能明也。(以下略)
である。
  多くの人たちは、俀国(倭国)は畿内大和にあったとしているから、この行路は朝鮮半島南部から九州北部を通って畿内大和に至るまでの道のりを記したものだと考えているようである。その途中にある秦王国は筑紫から東に行ったところにあり、周防あるいは豊前にあてる説が多い。こういった説に対して、私は、「至竹斯國又東至秦王國」の「東」は「南」のことだとし、秦王国を太宰府市あたりとした。なぜ「東」が「南」になるのか。その理由は前掲行路記事の「經都斯麻國迥在大海中又東至一支國」にある。対馬を経て東へ行き壱岐に至る、とある。この部分は『魏志』倭人伝には「始度一海千餘里至對海國・・・又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國」とあり、『魏志』倭人伝では、対馬(対海国)から壱岐(一大国)へ行くのに「南」であったものが、『隋書』俀国伝では「東」となっている。したがって、これに続く筑紫からの「東」をそのまま「東」として、筑紫の「東」に秦王国を探すのはまったく『隋書』の文意に反していると私は思うからである。
  大和岩雄氏は『隋書』の秦王国について、『日本にあった朝鮮王国』で平野邦雄氏、後藤利雄氏、直木孝次郎氏、泊勝美氏などの説を紹介し、大和氏自身は泊説であるという。泊説は秦王国豊前説であるが、その論拠は大宝二年(703)の豊前国の戸籍であり、その戸籍には秦氏系の名が非常に多いことから、そこを秦王国とみるのである。筑紫からの経路は、そこから東へ行って秦王国を経て十余国を通過し難波に達したとする。「東」はそのまま「東」だとしている。
  『隋書』の文意に反してなぜこのような解釈をしなければならないのか、私には理解できないが、このことは別にして、今仮に、隋使が筑紫から「東」へ向かったとして、彼等は果たして豊前を通って難波に向かっただろうか、という疑問が私にはある。
  『日本書紀』の神武紀には、イワレヒコは日向から速吸の門、筑紫国の菟狭、筑紫国の岡の水門へ行き、そこから安芸国へ行ったとある。『古事記』も同様である。岡の水門から安芸に向かうとき当然関門海峡を通るはずであるが、関門海峡は岡の水門から行くと南南西から北北東に開いた海峡であり、ここを通った後はイワレヒコのように安芸国に向かうのが一般的のように思われる。したがって、仮に隋使一行が筑紫から関門海峡を通って難波に向かったとしても、彼らがわざわざ向きを変え、遠回りとなる豊前に向かっていったというのは普通では考えられないことなのである。秦姓が多いことを理由に豊前国を秦王国だとすると、隋使一行はとんでもない方向から難波に向かったことになってしまう。ありえないことではないが、非常に不自然である。また秦姓が多いところが秦王国であるのなら、豊前国だけが秦王国ではないはずである。戸籍は703年のものであり、しかもたまたま秦姓については豊前国の戸籍が現在に残ったのであり、このことを以って、600年頃、太宰府市あたりには秦姓の人たちはいなかったと決めつけることはできない。「秦」という名の由来についても種々様々の説があり、「秦姓」と「秦王国」の関係ばかりを強調しすぎると、『隋書』が示している本来の歴史を見失いかねない。このことには気をつけなければならない。
  豊前国には秦姓の人たちが多くいたが、だからといってそこが秦王国と呼ばれたとは限らない。逆に秦姓の人たちが少なくても、何かの理由で秦王国と呼ばれた可能性もある。要するに中国史書を通した整合性が大切なのである。
 『日本書紀』推古天皇十六年〔608〕夏四月条に次のような記事がある。
小野臣妹子、至自大唐。々國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世清・下客十二人、從妹子臣、至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世清等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。
この記事は『隋書』の大業四年〔608〕の記事のこととされている。確かに唐の使者の名も裴清(『隋書』)と裴世清(『日本書紀』)で同一人物とみられ、年代も一致しており、これらの記事が同一事件を記したものとされるのも当然のことなのかもしれない。しかしこのことはもう少し丁寧にみていかなければならない。
  『隋書』には次のような記事があり、俀国(倭国)は畿内ではありえないことがわかる。
其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
「其國境東西五月行南北三月行」は俀国(倭国)の範囲を示している。倭国は東西対南北の比率が5対3の形をし、まわりを海に囲まれているという。前述したように「東」は「南」のことであるから、この「東西対南北」の比率は、5対3ではなく3対5となる。つまり、倭国は東西に短く南北に長く、その比率が3対5の島であるということになる。これは当然畿内ではありえず、東西に長い四国でもない。九州島意外にはありえないのである。
  このことは次の時代の正史『旧唐書』によってさらに明らかになる。
倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國。
 倭国は「東西五月行南北三月行」と、『隋書』と同じように書くが、日本国は「東西南北各數千里」「西界南界咸至大海」「東界北界有大山爲限山外即毛人之國」とあり、その大きさは東西南北とも数千里で、西と南の界は海、東と北の界は大きな山となっていて、その山の外は毛人の国であるという。倭国が日本国でないことは明らかであり、日本国が近畿大和を中心とした地域であるならば倭国はそれ以外の地域であり、『隋書』によれば九州島なのである。だから唐の使者の名前と年代が一致しているからといって、『隋書』俀国伝の大業四年〔608〕の記事と『日本書紀』推古天皇十六年〔608〕夏四月条の記事とをごちゃ混ぜにして考えてはいけないのである。『隋書』の「東」をそのまま「東」とするのは、そもそも608年の二つの記事が同じ事件を扱ったものだという見方がその根本にあったからだといえる。唐の使者を迎えたのは『隋書』では小徳阿軰臺と大禮哥多毘であるが、『日本書紀』では難波吉士雄成である。二つの記事を同じ事件とみる人たちは、こういった部分についてはどう説明するのだろうか。
 “秦王国が豊前にあったとみるのは703年の戸籍の記録によるもの”という、いかにも科学的にみえる説も、このときすでに邪馬台は畿内にあったとする考え方がその根底に流れているようである。
  『隋書』の記事から秦王国は豊前だというためには、『隋書』における隋使は豊前を通って難波にいったとしなければならないから、戸籍の記録を云々する前に、『隋書』と『旧唐書』の倭国、日本国の地理・地形がすべて畿内ヤマトのことである、ということを証明する必要がある。この証明には邪馬台国東遷説が有利であるが、東遷の時期は、それまでは倭国のみが現われる隋の時代と初めて日本が現われる唐の時代の間でなければ資料史実に整合しないから、この証明も難しいだろう。
  要するに一連の複数資料に基づかない説は、つながった資料事実による裏づけがないため、その証明は当然の如く難しくなるのである。
 秦王国豊前説は資料に基づいた説と思わせるところはあるが、結局のところ『隋書』の「東」の意味と俀国の地理地形、『旧唐書』の倭国・日本国の地理地形を無視した説になってしまっていると言わざるを得ないのである。


http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/note18.html

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