2016年5月4日水曜日

秦氏



秦氏(はたうじ)は、「秦」をの名とする氏族東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。

出自[編集]

日本書紀』において、応神14年(283年)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されている。[1](別名は融通王[2])を祖とする。『新撰姓氏録』によれば弓月君は始皇帝の末裔とされるが[3]、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって[4]、その真実性には疑問が呈せられており[5]、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。
  • の遺民が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)の系統。(太田亮[5]
  • 百済系渡来氏族。弓月の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音である。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。(笠井倭人佐伯有清[6][7]
  • 弓月君は中国五胡十六国時代族が興した後秦に由来する。また、族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す。(田辺尚雄[8]
隋書』には、風俗華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されており[10]、これを秦氏と結び付ける説もある[11]
本居宣長新井白石は『新撰姓氏録』や『古語拾遺』に依ってハタでなく韓国(からくに)語のハダ(波陀)と読むとした[12]

歴史[編集]

日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡など各地に土着し、土木養蚕機織などの技術を発揮して栄えた。アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)説話のある地域は秦氏の居住地域と一致するという平野邦雄の指摘もある[13]難波津の西成・東成郡には秦氏、三宅氏、吉氏など新羅系の渡来人が多く住み、百済郡には百済系の渡来人が住んだ[14]
山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公のを与えられた[15]欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾に任ぜられたといい、宗家朝廷の財務官僚として活動したらしいとされる[要出典]。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した[16]
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分かっているが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5〜6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ[要出典]、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとされる調査結果もある[要出典]。伝秦河勝墓はこの地にある。また、山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される[要出典]。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される[要出典]
山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる[17]。秦氏は松尾大社伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった[要出典]
関東にも渡来人がかなり入ってきたようであり、秦氏は相模原にも上陸し、現在の秦野市の地域に入植してその名を現在に留めている。
天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与されるが、忌寸のほかに公・宿禰などを称する家系があった。
平安遷都に際しては葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとする説もある。平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家、南家などは松尾大社の社家に、荷田家、西大路家、大西家、森家などは伏見稲荷大社の社家となった。なお中世になり社家を継いだ羽倉家については、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒したことが疑われている[18]
日本最古の戸籍半布里戸籍にも記されている(富加町)。

秦氏が創建に関係した主な神社・寺院[編集]

神社
寺院

秦氏に関する人物[編集]

平城京跡出土の木簡に記述されている秦氏

末裔とされる氏族[編集]

末裔・枝氏は60ほどあるとされる[25]

末裔を称する人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』応神14年条
  2. ^ 『新撰姓氏録』左京諸蕃
  3. ^ 『新撰姓氏録』左京諸蕃
  4. ^ 上田正昭『帰化人』中公新書、1965年,p71
  5. a b 太田亮『姓氏家系大辞典』
  6. ^ 笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」(『考古学論考』『古代の日朝関係と日本書紀』所収)
  7. ^ [佐伯:1994 369]
  8. ^ 田辺尚雄『日本文化史体系』「奈良文化」章。関晃『帰化人』至文堂、1966年、p96-97
  9. ^ 佐伯好郎「太秦(禹豆麻佐)を論ず」( 喜田貞吉主宰『地理歴史 百号』明治41年1月収載)
  10. ^ 又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)
  11. ^ 大和岩雄『日本にあった朝鮮王国』白水社
  12. ^ 関晃『帰化人』至文堂,昭和41年,p96-97
  13. ^ 平野邦雄『大化前代政治過程の研究』吉川弘文館,1985年。中屋宗寿『民衆救済と仏教の歴史 中』郁朋社 2012,p261-2
  14. ^ 直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社学術文庫、1988,p45
  15. ^ 太田[1974: 1016]
  16. ^ 太田[1974: 1017]
  17. ^ 稲荷神の由来となった秦伊侶具の出自について、『稲荷社神主家大西氏系図』に「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒」とある。
  18. ^ 西田長男『神道史の研究』第2巻、p86。雄山閣、1943年
  19. ^ 上田(1965)p143.
  20. ^ 上田(1965)p20.
  21. ^ 上田(1965)p20-21.
  22. ^ 大江篤『日本古代の神と霊』臨川書店2007年、p271
  23. ^ kotobank,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,大江篤『日本古代の神と霊』p222
  24. ^ 大江篤『日本古代の神と霊』p271
  25. a b c d e f g 豊田武『苗字の歴史』中央公論社p34
  26. ^ 関晃『帰化人』至文堂,昭和41年,p103
  27. ^ 伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析(1)」名古屋大学『言語文化論集』 v.26, n.2, 2005, p.8
  28. ^ 古語拾遺』、関晃『帰化人』至文堂,昭和41年,p105
  29. ^ 寛政重修諸家譜(第18)新訂』 続群書類従完成会、1981年,p150
  30. ^ 川勝家文書』 東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年,p437-438
  31. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』一巻、p36,1934年。

参考文献[編集]

  • 太田亮『姓氏家系大辞典』1934年。
  • 平野邦雄「秦氏の研究」(「史学雑誌」第七〇編第三・四号、1961年、『大化前代社会組織の研究』吉川弘文館 1969所収)
  • 上田正昭『帰化人』中公新書、1965年。
  • 関晃『帰化人』至文堂,昭和41年(1966)。
  • 豊田武『苗字の歴史』中央公論社,昭和46年(1971年)
  • 太田亮著、丹羽基二編『新編 姓氏家系辞書』秋田書店、1974年
  • 『日本の渡来文化』中央公論社、1975(中公文庫、1982年)。
  • 直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社学術文庫、1988
  • 大和岩雄『秦氏の研究』大和書房,1993年。
  • 佐伯有清編『日本古代氏族事典』雄山閣出版、1994年
  • 中村修也『秦氏とカモ氏』臨川書店、1994年
  • 加藤謙吉『秦氏とその民』白水社、1998
  • 笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」(『古代の日朝関係と日本書紀』吉川弘文館、2000年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


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