2016年5月5日木曜日

医術を含む文化先進の「秦王国」



宇佐八幡神は新羅の神だった
 八幡神は、いささか奇妙なところがあるが、間違いなく偉大な神である。「八幡大菩薩」と神仏習合名で呼ばれ、古代国家の大事にははるか九州宇佐の地から飛来した。朝廷からは伊勢神宮に次ぐ尊崇を受けた最高の国家鎮護神であり、その一方では武士政権の最大の守護軍神にもなっている。現在も、全国に約二万四千という日本第二の分社を数える人気神である(第一位は約三万五千の稲荷社)。

 ところが、この八幡神はもとはれっきとした新羅からの外来神だったのである。別稿(日本人および日本の誕生)で述べたが、鎌倉源氏は自らを「新羅」の末裔と信じた節がある。ならば、守護神を八幡神とするのも至極当然である。源氏の「白旗」とは実は八幡の「素幡」(しろはた)だったということになる。そう言えば、「八幡」太郎義家と名乗った者もいる。また、明治維新の元勲・西郷隆盛が育った薩摩藩では、幼少からの藩士教育が盛んだったことが有名であるが、その作法が八幡神経由の新羅由来のものだったとしたら、どうだろう。

▼中国人が住むという「秦(はた)王国」
 『隋書』倭人伝である。608年、小野妹子は隋使・裴世清を伴い、帰国した。裴世清は、筑紫から瀬戸内海に入ったとき、中国人が住むという「秦王国」の存在を知らされる。「秦王国」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んだ豊前の地(現在は福岡・大分両県に二分される)のことであった。秦氏は、秦の始皇帝の流れを汲む氏族で朝鮮経由で日本に渡来した、と自称していたのだ。

 さて、この秦氏というのが、ものすごい。論者がそれぞれに主張することを合わせれば、半島の文明文化のすべてを運んだと言ってもいいくらいだ。例えば、畑作とは実は「秦作」であり、秦氏が畑作を広めたという主張がある。また、鍛冶や鋳造技術に優れ、養蚕や機(ハタ)織りに長けていたと言う。後述するが、仏教や道教の普及者でもあり、日本最多の社数を誇る「神社」稲荷ももとは秦氏の信仰である。

 確かに秦氏は相当の多数で渡来し、豊前に留まらず山背国南部(太秦:うずまさ)など日本全国に拡がり、様々な活躍をしたことは間違いない。しかし、ここでは秦氏の神・八幡神の変貌を中心に記述し、彼らの信仰がいかにニッポン人の信仰へと流れ込んでいったのかを考えるための「補助線」を何本か引いてみるばかりである。

▼八幡(やはた)とは神の依り代であるハタのこと
 神名「八幡」は「はちまん」ではなく「やはた」が古名である。「八」は多さを表し、「幡」は後ちの「旗」である。旗とは単なる目印ではなく、神の依り代(:ヒレ)であり、そのはためく様子は神が示現する姿そのものであり、鳥に化身した神が飛ぶ様子でもある(神使としての鳥、神の乗り物としての鳥が、より古形である)。八幡とは文字通り、多数の幡を立てて祭る神なのである。

 「宇佐八幡」とは、八幡神の「分神」後の呼称で、当初は単に「八幡」(やはた)であった。現宇佐八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后、それに宗像の三姫神である。「もちろん」これは、虚偽であり剽窃(ひょうせつ)である。延喜式(905~927年撰述)によれば、八幡大菩薩宇佐大神、大帯(たらし)姫神、姫神の三神とある。最後の姫神とは宇佐地方・御許山の神である。そして大帯姫神が息長(おきがな)帯姫、つまり神功皇后に擬せられ、その結果として八幡大神は神功皇后の御子・応神天皇とされる。

 秦氏の神山は、南豊前(いまの大分県北部)に属する宇佐地方にはなく、その北西、筑紫に近い北豊前(現福岡県南東部)にある香春岳(福岡県田川郡)である。香春は「かはる」と読むが、もとは「カル」である。カルとは金属、特に銅のことである。飛鳥の天香具山の「カグ」も「カル」のことであり、ここの銅から鏡(カガミ)や矛を作ったのである。香春には古い採銅所があり、ここの銅から八幡宮の神鏡が作られており、そこには元宮八幡宮がある。

▼元宮八幡宮と、秦氏の新宮・香春社
 ところが、元宮八幡宮の「新宮」が宇佐八幡宮ではない。秦氏の新宮は香春社である(709年造営)。その神々は、延喜式によれば、忍骨命、辛国息長大姫大目命、豊姫命である。しかしここには、藤原不比等主導の新神祇政策に従う潤色がすでに混じっていた。新宮への遷座も、中央の指示による太宰府の命によるものだった。新羅の神のニッポン化への第一歩だ。

 忍骨命(オシホネ-ノ-ミコト)とは、偉大なる母神・天照大神の御子神(みこがみ)である天忍穂根命(アメ-ノ-オシホネ-ノ-ミコト)から「天」の一字を除いただけの神名に見える。しかし屈折がある。「オシホネ」は「大-シホ-根」である(接尾の「根」は天皇和名にしばしば登場する美称)。つまり中核は「シホ」で、これは古代朝鮮語の原語「ソホ」よりの転訛、そしてその神名はニッポン神・天オシホネ命への付会(こじつけ)と思われる。ソホとは「ソフル」(聖地の意:大韓民国の首都名もこれ)の「ソフ」と同じで、神の降臨する聖地を意味する。オシホネ命は、本当は新羅の「御子神」である。

 次に、辛国息長大姫大目命(カラクニ-オキナガ-オオヒメ-オオメ-ノ-ミコト)である。「辛国」とはズバリ、新羅治下に入った「加羅国」に相違ない。「息長大姫」は息長帯姫(神功皇后)を強く示唆している。神功皇后は古事記によれば、新羅の「王子」アメノヒボコの後裔である。紀記伝承でアメノヒボコが立ち寄った地には、必ずと言ってよいほど息長氏の跡が残っている。「大目」とは、「秦王国」に六世紀末に実在した巫女のオトメやオフメから採ったものと思われる。結局、朝鮮と日本の和合名である。

 豊姫命は紀記神話の豊玉姫に比せられたりもするが、この女神こそが秦氏の主神の一つである。その名は地名「豊」を付けた程度の意味で、要は母神である。実は、秦氏の八幡信仰は母子神信仰である。そしてその御子神は「太子」と呼ばれる。ニッポン人なら「太子」と聞けば、聖徳太子を思い起こすだろう。そう、八幡神信仰には聖徳太子から、何と最澄や空海にまでつながっていたのである。

▼秦氏は新羅系加羅人だった
 秦氏の渡来は五世紀後半以降、数度にわたりあったとされている。秦氏は新羅系加羅人と思われる。六世紀半ばに加羅は新羅に吸収されるが、その前から加羅には新羅人が多く住んでいた。秦氏もそういう一族である。「辛国」のカラとは、秦氏の故地である「加羅」を指している。

 香春社の神官は、赤染氏と鶴賀氏である。どちらも秦氏一族である。後者の「鶴賀」は「敦賀」と同音であり、その「ツルガ」とは書紀にある「オホカラの王子ツヌガアラシト」の上陸地(福井県・ケヒの浦)にちなむものである。その名は「大加羅の王子ツヌガ」であり、「アラシト」とは加羅の一邑・安羅の人の意である(「アル」=「卵」とも考えられるが。後述)。秦氏も多く居住した敦賀には気比(けひ)社がある。八幡神とされる応神天皇(ホムタワケ)には、この気比の神(イザサワケ)と名を交換し合ったという、紀記に載る意味深長な伝承もある。

 香春社の主祭神・オシホネ命の「シホ」についてはすでに述べたが、1313年成立の『八幡宮宇佐御託宣集』(以下『宇佐託宣集』)によれば「八幡神は天童の姿で日本の辛国の城(き:峯、山)に降臨し、そこは神武天皇再臨の蘇於峯(そほだけ)である」とある。「辛国の城」とは、秦氏の神山であった豊前・香春岳に他ならない。「ソホ」ついては前述の通りだが、新羅の始祖王カクコセは「ソフル」の聖林(ソフル)に、加羅の初代王シュロは「ソフル」である亀旨(くじ)峯に降臨した。

 上は香春の神が新羅・加羅より渡来したことを語るために述べたのだが、せっかく神武天皇まで登場したので紀記の降臨神話にも少々触れよう。それは明らかに朝鮮神話の影響を強く受けたものである。書紀は、天オシホネ命の子・ニニギ命が降臨した山を「日向の襲(そ)の高千穂の添(そほり)山峯」と本文で記し、他の一書として「日向の高千穂の樓触(くしふる)峯」と記している。また、古事記は「日向の高千穂のクジフルタケ」としている。

 もう一言だけ。朝鮮の降臨神話では王は卵から生まれる(加羅神話の亀旨とは卵生の亀を示唆している)。実はこれが聖山より重要なのである。その卵は箱舟に乗って海から漂着したというのが、南朝鮮も含めた「倭族」神話の古形である。日本の場合は、少なくともニニギ命の場面では聖山への降臨に重点がある。ただし、命が包まれていたという「真床追衾」(まとこおうふすま)には、卵の王たちを温めた布の温かみがかすかに残っている。

▼宇佐での八幡神祭祀は辛島氏のもの
 秦氏は香春地域から、南方の宇佐地方へも広がっていた。八幡宮で創始されたという放生会(仏教法会)は、その神仏習合ぶりをよく示すが、この祭事の巡幸路が「秦王国」の領域であった。それは、香春岳の銅で作られた神鏡を、元宮八幡宮から宇佐八幡宮を少し通り越した和間浜まで十五日間かけて、豊前各地を経巡る神幸であった。まさしく「八幡」が立てられての、にぎやかな朝鮮風巡幸であったと思われる。「秦王国」の両端に二つの八幡宮が置かれたのだ。

 宇佐の地での香春八幡神祭祀は秦氏一族の辛島氏に担われた。『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(844年)によると、宇佐八幡神は「宇佐郡辛国宇豆高島」に天下ったとされる。これは香春とのつながりこそ失われているが、辛島氏の香春八幡神祭祀を証明している。「辛国」とは「日本の加羅国=秦王国」であり、ここでは辛島氏の本拠・宇佐郡辛島郷のことである。「宇豆高島」の宇豆(うず)とは「貴・珍・太」などの美称で、高島は「辛国の城(き)」と同じで峯や山のことである。

 つまり、辛島氏の神山に天下ったと書かれてあるのである。辛島氏の神山とは、本来は香春岳以外にはない。あえて、宇佐における辛島氏の神山を探せば「稲積山」である。実は「辛島」とは「辛国(宇豆)高島」をつづめた称である。ちなみに、山背の「太秦」(うずまさ)の「うず」とは「宇豆」であり、「まさ」は「勝」で「すぐり」(朝鮮の「村長」)の意である。だから太秦とは、秦氏一族の勝(すぐり)の統領(が住んだ地)を表している。

 辛島郷には、辛島氏が祭祀した鷹居社や鷹栖山の山号をもつ寺があった。この「鷹」とは、実は香春の八幡神である。香春社のある香春岳は別名「鷹栖山」であり、田川郡とは「鷹羽(たかは)郡」を読み替えたものである。平安初期(814年)の「太政官符」に、六世紀末、八幡神が鷹に成り化して人を殺したので、辛島氏の神女(これが先の「オトメ」)がこれを鎮め、鷹居社として祭ったとある。おそらく、これが香春八幡神の最初の「分社」(宇佐地方での八幡神祭祀開始)である。


(二)国家神・宇佐八幡宮と大隅「正」八幡宮

▼国家守護神「宇佐」八幡宮の誕生
 五世紀末のことと思われる。雄略天皇が病いに倒れたとき、和泉国大鳥(鳳)郡(現大阪府堺市)から、物部氏に従う「豊国の奇巫」が呼ばれている。豊前(秦王国)出身の、ニッポン流ではない「巫医」のことである。そのおよそ一世紀後の587年、書紀には用明天皇の病いに蘇我馬子が「豊国法師」を呼んだとある。この間には「仏教公伝」が挟まれているが、医術を含む文化先進の「秦王国」は朝鮮風道教シャーマニズムの地であり、仏教も公伝以前から信仰されていた独特の習合信仰のメッカであった。

 そのことは、わざわざ「豊国」の奇巫や法師が内裏に呼ばれているように、また小野妹子らが「秦王国」の存在を隋使にもらしたように、中央政権でも承知のことであった。仏教を国家鎮護の要に据えようとする(そしておそらく神祇神道の革新も目論んでいた)馬子は、六世紀末に大神(おおが)比義という人物を「秦王国」に送る。大物主の大和国・大神社を「おおみわ」と読むが、大三輪氏(おそらく渡来人)と同根である。大三輪氏の祖である大田田根子の出身地・河内国スエ(加羅のスエ式土器にちなむ名)は、分国後の和泉国大鳥郡に属した。

 663年に白村江の戦いがあったが、これには日本軍として宇佐の辛島氏も従軍した。白村江での敗戦は、ニッポンの「日本」化を加速させた。おそらく712年、辛島郡鷹居社の八幡神は、中央の意向を汲んだ大神氏領導のもとに、土豪宇佐氏神域の小山田に移った。同年の古事記、続く720年の日本書紀の撰上は、古代ニッポンの神祇体制の完成を告げるものである。これを受けるように、725年、ついに八幡神は小山田から現在地の小倉山に遷座した。今に続く宇佐八幡宮の誕生である。

 国家神への転換は、720年の大隅隼人叛乱に際し、大伴旅人率いる征伐軍に、おそらく大神氏に教唆されて八幡宮禰宜(ねぎ)「辛島」ハトメの神軍が参加したことで、はずみがついたことだろう。737年には、朝廷は伊勢神宮などと共に八幡宮にも奉幣し新羅の無礼を報告、740年には藤原広嗣乱の平定を祈願し、翌年は乱平定の報賽(ほうさい)として金字の最勝王経(神様にお経!)などが奉納されている。745年、聖武天皇のご病気に際しては平癒祈願があり、翌年には三位に叙任される。749年、大仏造立のための黄金出土を託宣(見事に的中!)、次いで東大寺鎮守・手向山八幡宮として堂々の入京となる。

▼八幡宮の三神職と宇佐氏の姫神
 奈良時代末期以降は、宇佐八幡宮の大宮司は大神氏、少宮司は宇佐氏、禰宜(ねぎ:祈ぎ)・祝(はふり)は辛島氏に一応固定し、各氏が世襲した。ただし、その力関係は単純ではなかった。前述のように、新参の大神氏は土着の宇佐氏を抱き込みながら、辛島氏の八幡神を徐々に奪取していった。先住の宇佐氏の信仰は磐座(いわくら)によるものだった。宇佐氏の神山・御許山(馬城峯)の姫神とはそういう神だ。

 辛島氏、そして香春岳の神は母子神だった。辛島氏は香春の姫神(母神)と太子神の二神を祭ったのである。それが大神氏の領導で、733年、姫神は宇佐氏の姫神に替わるとともに、それは神功皇后なのだということになった(このとき、八幡大神は応神天皇となる)。ところが、823年、神功廟とされる筑紫・香椎宮から大帯姫神が分遷され、宇佐八幡宮の祭神は三柱となる。幸いな(?)ことに、姫神は「もとの」馬城峯の姫神に戻ったのだ。

 それから、宇佐氏は海部出身だとも言う。八幡宮の姫神がいまの宗像の三女神にいつどのように替わったのかは筆者の不識だが、同じ海部でかつより著名な宗像の三女神が同体だとされたのであろう。馬城峯の磐座が三神から成ることや、「うさ」に通じる「スサ」の名を持つスサノヲの娘が宗像の三女神であり、スサノヲ自身も新羅出身との伝承もあることがそうなさしめたのだろう。

▼八幡宮の最高神職「禰宜」をめぐる争奪
 大神氏は、八幡神が国家神となっていく過程の中で主導権を掌握していった。そもそも、大神氏が中央から送り込まれたのはそれが目的であった。東大寺の大仏が完成した際、辛島氏を差し置いて、八幡宮「禰宜」大神杜女(コソメあるいはモリメ)と主神司(大宮司)の大神麻呂が上京し、朝臣姓を賜っている。奈良時代も末、道鏡事件が起きる。例の「道鏡を皇位に」と託宣したのは大神氏の巫女だ。結局、和気清麻呂が宇佐に参宮し再度託宣を受け、託宣は覆る。こちらは辛島氏の巫女が下したものだった。

 八幡神の降神秘儀と託宣は、本来秦氏の巫女の専儀であり、それが八幡宮の禰宜だった。だからこそ、八幡宮の三神職のうち、禰宜が最高職だったのだ。ところが、この頃までには大神氏がその禰宜職まで襲うようになっていた。和気清麻呂は道鏡事件で「大隈」へ配流となったあと召還されるが、773~4年には何と豊前国司に就いている。実はこのときに清麻呂が決めたのが、八幡宮の三神職の世襲なのだった。

 ここで、巫女に注目しておきたい。神懸かりして託宣するシャーマンが八幡宮の巫女である。誰かに似ていないだろうか。そう、紀記中最大のシャーマン・神功皇后である。巫女に憑依しているのは母子神である八幡神だ(八幡神は「太子神」として現れるが、そのとき巫女は言わば「母神」である)。母神の神格にぴったりなのが神功皇后なのである。大神氏はこうして「太子」たる応神天皇を持つ「大帯姫神」を持ち込んだのである。神功皇后が討伐に向かう中でもらす新羅への「愛憎」のうち、愛の方は「望郷愛」だったのかも知れない。

▼秦氏の移住と大隅国の成立、そして隼人叛乱
 平安期以降、辛島氏は八幡宮の中でしだいに劣勢に立たされ、鎌倉時代の『宇佐託宣集』に至る。そこには、八幡神は「宇佐郡の(宇佐氏の神山)馬城峯」に降臨し、先述の鷹に化身した八幡神を「大神比義が鎮め祭った」という縁起が臆面もなく語られている。ただ、ここにも八幡神自身が発した「辛島の城に始めて八流の幡を天降して、我は日本の神となれり」という言葉の中に「辛島の城に」という語句が、消しようもなく残ってはいるが。

 宇佐八幡宮の大神氏支配と辛島氏排除、また八幡神のニッポン化(つまり脱「加羅・新羅」化)が進展した平安後期以降、突如として「正八幡宮」を名乗る者が現れる。鹿児島社(大隅正八幡宮)である。なぜ鹿児島に八幡宮なのか。また、宇佐八幡宮をニセモノ呼ばわりする理由は何であり、自身の正統性は何をもって主張するのか、というような疑問が起こる。時代を遡らなければならない。

 太宰府の命で「秦王国」の人々の一部は、七世紀頃から日向南部に移住したらしい。そこは未だ朝廷に服さぬ「隼人」たちの国であった。699年に「稲積」(辛島氏の神山の名)城が築かれ、713年には日向国から大隅国として分立されるが、隼人の叛乱が相次いでいた。『続日本紀』には、714年の記事として「豊前国の民二百戸(五千名ほどか)を移して」とある。秦氏は曽於郡とそこから分けられた桑原郡に多く住んだ。「曽於」はソホであり、新郡名「桑原」とは豊前香春にある地名である。そして、曽於郡には韓国宇豆峯社が、桑原郡には鹿児島社が建てられたのである。

 720年の隼人叛乱に際しては、先述したが宇佐から辛島ハトメ率いる「神軍」が出動している。太宰府の命や大神氏の督促もあっただろうが、大隅に住む一族の危難の救済に向かったものと思われる。実は例の「放生会」とは、このときの隼人征伐に縁を発している。八幡宮の神軍が隼人を殺生したので、放生供養せよとの八幡神のお告げによるものなのだ。事実は、それまでの八幡神の神幸に「放生会」の意味に基づく仏教的儀式が付け加えられたということであろうが。

▼大隅国における秦氏

〈韓国岳〉

 大隅八幡宮(鹿児島社)は708年の創建と伝わる。香春新社や宇佐八幡宮造営も含めて、この八世紀初めの動きはただ事ではない。南九州での薩摩・大隅国設置=隼人征伐は、外来神であった八幡神をニッポン神化し、これを先兵とすることで遂行されたのである。もとより南方だけのことではなく、北方の蝦夷へも征伐軍は進んでいた。「日本」によるニッポンの制圧は政治・軍事面と並行して、紀記神祇神道による各地の外来神および「国つ神」の鎮圧として遂行された。晩年に入り辣腕を振るう藤原不比等の執念の影を感じる。

 さて、大隅国府(桜島北方、鹿児島湾北奥。現国分市)を中心に移住秦氏が多く住む地域の、西に大隅八幡宮、東に韓国宇豆峯社があった。あたかも豊前の香春社(ないし元宮)と宇佐八幡宮のように。韓国宇豆峯社の名の意味はもう読者諸氏には判明であろう。「辛国の(宇豆=大いなる)高島=城=峯」である。少し注意を願いたいのは「韓国」の用字である。「辛」ではなく「韓」の字が用いられている。これは「正八幡宮」の主張に通じる、自らの出自を明示しようとする用字・命名なのだ。

 ここから北に霧島山峰が望まれるが、その最高峰は天孫降臨の「高千穂峰」ではなく「韓国岳」である(「高千穂」は日向北部にもある)。ここには強い主張がある。例の『宇佐託宣集』は「日州(日向)の辛国城(辛国宇豆高島)、蘇於峯(そほだけ)これなり。蘇於峯は霧嶋山の別号なり」と記し、『続日本紀』は、788年の霧島山の噴火記事を「大隅国贈於(そほ)郡曽乃(その)峯」と呼称・記述している。朝鮮風の「ソホリ」とは本来誰のものかは言うまでもない。

▼「正八幡宮」を名乗る大隅八幡宮
 鹿児島社である。いまでは「鹿児島」と言えば、旧薩摩国に属し桜島に西から対峙する鹿児島市を中心に考えがちだ。しかし秦氏が住んだ鹿児島社あたり(もと日向国曽於郡、次に大隅国曽於郡、さらに桑原郡、現姶良郡隼人町)こそ「鹿児島」だったのである。「カゴ」とは、天香具山の「カグ」と同じであり「カル」(金、銅)である。霧島山にも宇佐・稲積山にも銅は出ない。ただ、香春岳のみである。「島」とは高島と同じで山と言っていいが、地域でもよいだろう。ヤクザの言う「シマ」もこれを受ける。

 大隅八幡宮は、もと隼人の聖地・石体宮(しゃくたいぐう)に発する。神仏習合ならぬ「神々習合」である。大隅国隼人の地主神に、新住民・秦氏の八幡神信仰が架上されたのだ。平安末期の記録には、その神官は辛島氏出自の漆島・酒井氏とある。なお、秦氏は大隅から薩摩国にも移住した。西方の旧国府があった川内市に新田社という八幡宮がある。現主祭神をニニギ命とするが、その神官・惟宗(これむね)氏とは秦氏である。この社は「亀山」にある。

 860年、「大安寺」僧・行教が石清水八幡宮を勧請する。これが平安期における八幡信仰流行の一大契機となった。が、12世紀初頭成立の『今昔物語』には「初め大隅の国に八幡大菩薩と現われましまして、次には宇佐の宮に遷らせ給い、ついに、この石清水に跡を垂れましまして」と記される。13世紀後半の『百練抄』には、大隅八幡宮に突如として出現した石に「八幡」の銘が浮き出した(隼人神の影が残る「石体垂迹」)が、これを偽りだとして焼いた宇佐八幡神の神官が致死の天罰を受けたという話がある。

 要は、同じ八幡宮の鹿児島と宇佐との対立なのだが、これはいったい何なのだろうか。前述のように大隅の神官は辛島氏系であったが、宇佐の辛島氏本家は、平安末期までに禰宜職は大神氏の巫女に奪われ、宇佐神宮寺の権検校職へと冷遇されていた。さらに、検校職からも排除されようとしていたのだ。これへの抗議が、大隅の辛島氏に「正八幡宮」を名乗らせ、宇佐八幡宮を無視する八幡神伝承を語らしめたのだ。

▼日向国周辺の「天孫降臨パラノイア」
 鹿児島社は、元官幣大社、大隅国一の宮で、現主祭神は天津日高彦穂穂出見尊と豊玉比売命である(相殿には、仲哀天皇とその后・神功息長帯姫、その御子・応神ホムタワケとその后・中姫の四神を祭る)。例の、山幸彦の彦ホホデミ命と豊玉姫である。もちろん、これも付会である。香春社の主神も天照大神の御子・天オシホネ命に似たオシホネ命であったが、改めてそのあたりの天つ神の系譜を示そう。

  アマテラス大神-天オシホネ命-ニニギ命(降臨)-彦ホホデミ命(山幸彦)-ウガヤフキアエズ命-イワレ彦命(初代人皇・神武天皇)

 紀記の「日向にニニギ命は降臨した。イワレヒコ命は日向から東遷した」などの記述から、日向国を中心に九州には「天孫降臨パラノイア」が蔓延している。どこもかしこも「降臨地」だらけで、あちこちの神社にはニニギ命らが盛んに祭られている。しかし実は、それらの天孫降臨伝説のすべてが「ソホリ」(ソホ・ソフル)か「クジ」(クシ:亀旨)の名をもってそこを「聖地」として聖別していることからも分かるように、奇妙なことに「外部」に依拠しているのだ。

 九州での「降臨」伝説は、新羅・加羅から秦氏が八幡神とともに持ち込んだとも考えられる。豊前の秦王国から日向へ、そして大隈となった現鹿児島県東部から西部の薩摩へと、秦氏の移住先には八幡神信仰が移植され、その降臨伝承がニッポンの天孫降臨神話に置換されていった。降臨神話のすべてとは言わないが、少なくとも、もと八幡神信仰のあった地でのそれは置換されたものに相違ない。

 正八幡宮には「降臨」伝承の他に、次のような「漂着」伝承もある。「大隅正八幡宮縁起」は云う。震旦国(中国)の陳大王の娘・大比留女(おおひるめ)は、七歳のとき夢で朝日を受けて身籠もり、王子を生んだ。 王たちはこれを怪しみ、母子を空船(うつほぶね)に乗せて海に流したところ、「日本の大隅の磯岸に着き給う。その太子を八幡と号し奉る。(…)大隅国に留まりて、八幡宮に祭られ給えり」。母は「筑前国(…)香椎聖母大菩薩と現れ給えり」と。

 この「漂着」伝承は、新羅などの朝鮮王神話とまったく同型の「倭族」神話である(たいへん原型に近い)。八幡神が南朝鮮の神であることをこれほど明白に語るものは他にない。ここにも八幡神は「太子」(童神)であることが述べられている。「オオヒルメ」は天照大神の造型の際、モデルとなった神格である。母神は香椎宮に現れたとあるが、つまり息長帯姫(神功皇后)であるということだ。

http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html

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