2016年5月2日月曜日

守田神社



五 神代街道(長沼~神代~平出)


村山神社前から東への道は、長沼~神代~香白坂~三本松峠までは神代街道であるが、北国街道が屋代から丹波島・善光寺・牟礼を通るようになってからは、布野渡し~福島~川田~松代を合わせて,北国脇往還あるいは松代通りなどと呼ばれた。
牟礼からは北国街道となり、柏原・野尻・赤川・関川を経て越後高田へ向かう。
佐渡からの金荷輸送、加賀藩に代表される参勤交代が通る公用路線であった。

・村山・長沼
村山神社から一旦堤防道路に出て村山橋方向に進む。
街道当時は堤防などなく河原に道があったようで今もそれとなく道筋は見えるが夏草に覆われている。村山橋をくぐって再び堤防道路にあがると河川敷に村奈弥稲荷が見える。
中を覗くと小さな狐がたくさん並び、「狐の嫁入り」絵額があがっている。
往時はここが道で村山一里塚があった。旧道はなくなっているので堤防道路にもどりしばら行って水防倉庫の先で東に下りるとすぐに長沼宿入口の枡形となる。
南側には松の老木と地蔵尊、石祠などが並ぶ小塚がある。なんとなくこちらの方が一里塚に見える。
長沼の通りに入ってすぐ西側に平安時代の創建と伝わる長沼神社がある。境内のけやきの大木は推定樹齢450年といわれ、武田信玄の奉納とも。また、ご神体は自然石であり、隕石ではないかとも言われている。
「歴史の道調査報告書・北国街道」に昭和七年撮影の長沼宿の写真が載っている。
街道の真ん中に用水が流れ、和服姿の男性がこちらを向いている。本陣と思われるが、今はその旧家も建てかえられ一本の松だけが残る。
街道を北へ進むと林光院に突き当たり、参道前に、「右 ゑちご道 左 ぜんこうじ道」の道標がある。元文元年(1736)と古いものだ。
左の善光寺道は、国道18号線大町交差点から更北中学校前、古里小学校横を通って金箱、北堀から吉田の原町で布野からの須坂道に合したと考えられる。
神代街道は右へ折れすぐにまた左に折れる枡形となる。枡形を曲がらずにまっすぐに川に向かうと勝念寺の横を通って河川敷に入り対岸の相之島への渡し場となる。
しばらく長沼の町中を行き、突き当たりで西に曲がる。曲がってすぐの所に北へ向かう道があり、これは通称「おうま通り」という長沼城の大手道であった。

・穂保・津野・赤沼
長沼の地は越後高田から信濃に来る北国往還の要害で、太田荘地頭の島津氏の居所だったが、武田軍攻められて大倉に退いた。信玄は3回に渡って城を修復し、半円形の馬だしを持つ甲州流の城を築き、海津城に次ぐ重要拠点となった。
武田氏滅亡後は上杉景勝の所領となったが、会津移封により廃城となった。
今は、石碑を残すのみである。
「おうま通り」を行かずに街道に戻ると、右へ直角に折れて穂保に入りしばらくゆくと再びで突き当たりとなる。
角に白壁の大きな旧家があり手前の敷地には地蔵尊が並べられている。茂みの中に傘が三段重ねの古びた庚申塔が見える。これは、三重塔により三世守られると いう仏教系の庚申信仰によるものだという。中尊は三尊仏で両側面に猿が一匹ずつ見える。「長野市の石造文化財(第2集)」によると、慶安三年(1650) と古いものだ。
ここを右に曲がってすぐにまた左に折れるが、正面は守田神社である。
鳥居は西東に向いているが社殿は南に向いている。社殿正面にかつての参道らしき道が見え、長沼城の北辺であったと思われる。
守田神社となりの長沼支所にはいくつかの歌碑が立つ。 月好・雲士・春甫・呂芳といずれも「長沼十哲」とよばれた地元の俳人である。
化政期、長沼地区には一茶の門人が多くいて、中でも有力な十人は「長沼十哲」と呼ばれていた。長沼は、北信濃の俳諧の先達である善光寺門前の「猿佐」により、もともと俳諧が盛んな土地だった。
一茶との交友は文化五年(1808)年、一茶がまだ江戸在住の時代から始まり、帰省の度に長沼にも足をはこんでいた。

文化九年(1812)十一月、一茶は五十歳にして俳諧での成功と健康問題・遺産問題の両方を抱え、漂泊の暮らしを追えて故郷柏原に戻った。
その後、当時の俳諧熱とあいまって北信濃を中心に一茶社中を形成してく。中でも長沼社中は最も多勢で一茶の訪問も多く、その回数、12年間で664回に達したという。
そのほか六川に245回、善光寺に210回、高山村紫にも136回訪れている。
高山村には「一茶ゆかりの里 一茶館」があり、一茶の定宿であった久保田春耕家の「離れ」が移築されている。館員の説明では、煙草好きだった一茶は、囲炉裏端に座り、キセルをふかしながら俳句指導にあたったそうだ。
こうした巡回行脚は文政十年(1827七)に六五歳で没するまで続けられた。
かつて江戸へ奉公に出された道を、今度は当代随一の宗匠として、北国街道、川東道、神代街道を縦横に歩いた姿が想像される。
一茶は、柏原に永住する前、江戸との間を頻繁に往復しており、普通六泊七日かかるところを五泊六日で歩くなどかなりの健脚だったようだ。同行者があったときは、一茶は健脚で先行し、同行者が追いつくのを待つ、ということもあったという。
ところで、一茶年表に、文化三年(1806)十一月、「大黒屋光太夫とオロシアから帰った磯吉より体験談を聞く」とある。意外な組合せで驚いた。
「おろしあ国酔夢譚」(井上靖)・「大黒屋光太夫」(山下恒夫)では、光太夫らは帰国後、幕府から軟禁状態に置かれたのであり、一茶はどのような伝で磯吉に会ったのか。
一茶大辞典によると、一茶のパトロン的存在であった夏目成美による「随斎会」により話を聞く機会があったようだ。どんな話を聞いて、どう思ったのだろうか。大いに興味のあるところだ。
なお、ここまでの一茶に関することは、「信濃の一茶」(中公新書・矢羽勝幸)によった。

街道は、長沼支所を過ぎて丸い郵便ポストのところで再び右に曲がる。正面に秋葉社が祀られ「右 ゑちご道  左 さくば道」と道標を兼ねる。
わずかで左に曲がる枡形となって津野にはいる。
枡形を北に曲がらず直進すると妙笑寺がある。
境内には戌の満水といわれる寛保二年(1742)千曲川大洪水の水位柱がある。高さは約3メートル。現代ではちょっと考えられない規模の洪水である。 本堂の柱にはその時々の洪水水位が記録されているという。なかなか実際に見ることはできないが、長野の八幡原にある長野市立博物館に大きなパネル写真が あってそこで見ることができる。
妙笑寺を後にして街道を北に行くと、いったんはりんご畑の中の道となり、じきに赤沼の街並みが見えてくる。
集落入り口の一ノ配バス停のところに、覆屋に入った二体の地蔵尊と、傘を乗せた庚申塔一基がある。向かって右の地蔵尊は享保八年(1723)で、真ん中の庚申塔は二鶏二猿で左側面に元禄の文字が見える。「酉天」から元禄六年(1693)と推定される。中尊は男根か?
さらに行くと西側にいくつかの供養等などが並ぶ地蔵堂、東側は大田神社を見てアップルライン赤沼交差点に出る。これを横断してさらに北に向かう。新幹線車両センターを左手に見て、浅川を大道橋で渡る。

http://www.ac.auone-net.jp/~yoshi_35/99_blank014.html

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