2024年4月13日土曜日

四陣の制

 会津藩では四ヶ月前から軍事訓練を行い、蝦夷への出発も文化五年1月と決められた。

 そして、総大将の軍将となる家老内藤信周は本部となる宗谷や、同じく家老の北原采女は陣将として最前線樺太、更に番頭梶原平馬景保、同三宅孫兵衛、同日向三郎右衛門と各隊の派遣が決められ、総勢千六百余名であった。
 そんな中、藩士より不満が出たのである。
 それは、松前駐在の梶原隊と、宗谷詰めの日向隊で、松前は蝦夷唯一の幕府の役所もあり、都市として栄えて居たが、その為折角選ばれて蝦夷へ行くのに戦いの場となるはずの樺太ではなく、宗谷や松前等の後方支援では武士の面目が立たないというものであった。

 通常、会津藩は『四陣の制』を用いており、『四陣の制』では先鋒、左右翼、殿を一年交代で、順番に役目を果たすものであったが、この時は特別に先鋒の番頭隊の配置先をクジにて決定した為、本来三番手で松前駐在の三宅隊が、一番の最前線樺太行きを当てたものであったから、本来一番手、二番手になるハズであった梶原・日向隊の両隊から不満が出たのである。
 両隊の隊士は昼夜に渡って抗議行動を行い、騒ぎが大きくなり始め、幕府に知れれば藩の恥として、三宅隊をなだめすかしクジでの決定を取り消し、本来の陣備えとなり、両隊の面目は保たれたのであった。


<四陣の制>
    先鋒--- 陣将隊(一隊、約400名)
        L  番頭隊(一~三番隊、各約400名)

    左右翼--陣将隊(一隊、約400名)
          L番頭隊(一~三番隊、各約400名)

    中軍--- 藩主本陣(約1000名)
        L  輜重隊(約400名)

    殿----- 陣将隊(一隊、約400名)
        L  番頭隊(一~二番隊、各400名)
        L 新番頭隊(一隊、約400名)
 
      御留守備(約500名)
      猪苗代御留守(約150名)

 一年目に先鋒についた軍は、二年目は殿、三年目は左右翼、四年目で一巡する。
 陣将は千石以上の家老で、番頭隊の番頭は八百石級、新番頭隊の新番頭は五百石級の者があてられた。

https://seuru.pupu.jp/ezoti/ezoti.htm

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