2024年4月13日土曜日

秋月悌次郎

 幕府は安政6年9月、松前藩より本来の松前藩の領土を除く蝦夷地全土を上知させ、奥羽強藩、仙台藩・会津藩・津軽藩・南部藩・庄内藩・秋田藩に分譲して与え、幕領を含めて警備に当たらせる。


 会津藩は東蝦夷地「ニシベツ」(現在の別海町西別地区)から西蝦夷地「サワキ」(現在の紋別郡雄武町沢木)に至るまでの「網走」を除く90里余(360Km)に及ぶ領地を賜り、警備にあたる事となり、品川台場の警備を免ぜられる。
 本営を「ニシベツ」(西別)に置き、分営を「シャリ」(斜里)「モンベツ」(紋別)に設けた。また、この度の蝦夷地警備中に京都守護職を命じられ、会津藩は蝦夷地の各所に兵舎を建てようとするものの、資金不足等により宿舎の建設は中断され、実現したものは僅か6棟に過ぎなかった。

 また、この警備期間中に若年寄となり、この蝦夷地へ陣将代として派遣されていた田中玄純が病の為、文久2年7月勇払(現・苫小牧)にて55歳で病没している。(墓は函館市高龍寺)
 
 京都で公用方として活躍した秋月悌次郎は、その活躍を嫉む一部の保守派の反感を買い、後ろ盾であった家老の横山主税が死亡してしまった為、斜里代官として蝦夷へ左遷され、再び上京する事となったのは慶応2年の12月であったが、既に時遅く、薩摩藩が長州と手を結んでした後の事で、秋月の人脈を持ってしても、どうにもする事もできなかったのである。

 <標津代官>
万延元年→文久2年一ノ瀬記一郎(雑賀孫六郎)
文久2年→慶応3年 南摩綱紀

 <斜里代官>
慶応元年→慶応2年秋月悌次郎

 <紋別代官>
慶応2年→慶応3年籾山省介(他に柴 守三がいる)

https://seuru.pupu.jp/ezoti/ezoti.htm


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