2024年4月8日月曜日

井深宅右衛門

 東京港区の白金台地にある臨済宗妙心寺派・興禅寺には、戊辰戦争時に自刃、敗戦の翌年に処刑と、それぞれ無念の最期を遂げた会津藩士二人が眠っている。神保修理と萱野権兵衛である。

 一方、白金台地を活動の拠点として、明治、大正、昭和と生き抜いたもう一人の会津藩出身者がいる。井深梶之助である。彼は、藩の降伏後、大変な苦難を乗り越え横浜のブラウン塾に学び、明治19年(1886年)、そのブラウン塾とヘボン塾の系譜が源流になって明治学院が誕生する際、J.C.ヘボン博士を助け尽力する。そこで教鞭をとり、米国留学の後、二代目総理(学院長)に就任する。その後、総理として三十年間にわたって明治学院の発展に寄与したのである。
 白金台地のへりに位置するキャンパスの一隅に、明治学院記念館がある。一階がレンガ造で二階が木造の美しい明治建築である。その二階が歴史資料館・展示室になっている。
 私は、明治学院記念館を訪ね、二階の展示室であるものを探していた…。

 慶応4年(明治元、1868)8月23日、籠城を知らせる早鐘が、一昨日来の雨が激しく降り続ける会津若松城下に三度響き渡った。しかし城内は、藩境で戦う多くの将兵がいまだ入城できず、がらんとした状態であった。
 私の高祖父・鈴木丹下は、21日に火急の御召しがあり、すでに入城し天守下階の溜まりで待機していた。その時、まだ幼げな一人の少年が、身の丈に比べて大きな銃を抱えるようにして、茫然とそこへ現れた。藩の重臣、井深宅右衛門の長男・梶之助であった。
 丹下は、何を思ったのか梶之助を手招きし、身に着けていた銀の袂時計(懐中時計)を取り出し、もはやこの時計は自分に不要なのでと言って梶之助に与えた。梶之助は、初めて見る器械を大変喜んで受け取ったが、後に15歳の自分には不相応と考え父に献上したという。
 この籠城一日目の出来事は、井深自身の回顧録に、鈴木丹下の名前とともにはっきりと記されている(明治学院発行『井深梶之助とその時代』)。
 丹下は、この六日後の8月29日、佐川官兵衛を総督とした長命寺の戦いに軍監として参戦し、敵の銃弾を浴び、城内に戻るもそこで落命する。享年29。遺体は天守の西側にあった空井戸に仮埋葬された。彼は、梶之助に時計を渡したとき、すでに自分の運命を悟っていたのであろう。
 この戦いを最後に、城下における会津軍の組織的な抵抗は終わった。そして9月22日、会津藩は開城し全面降伏した。


鈴木丹下が仮埋葬された天守閣西側の空井戸

 私は、明治学院歴史資料館の責任者の方に、その懐中時計が井深梶之助に渡った経緯を述べ、許しを得て展示室の隅々まで探した。展示室には、梶之助が実際に使っていた電気スタンドが陳列され、ブックエンドが保管されていた。
 しかし、銀の時計は出てこなかった。職員の方が親切にも展示室の全収蔵品目録を調べてくれたが、そこに該当する記載はなかった。


          明治学院記念館

 1850年ごろ、米国ボストンのウォルサム社によって大量生産に成功した懐中時計が、大量搬送も容易なことから、農業立国を脱しようとした米国の初めての輸出工業品となった。
 1860年、日米修好通商条約批准書の交換のために日本使節団一行がワシントンを訪れたとき、ブキャナン大統領から記念に贈られたのがウォルサム社製の懐中時計であった。これが日本人の手にした最初である。
 鈴木丹下が、幕末、遠く運ばれた稀少品をどこでどのようにして手に入れたのかは、全く分かっていないが、彼の生き様と併せて大変興味深いところである。ちなみに国産での懐中時計は、明治28年、精工舎によって完成されるまで待たねばならなかった。

 私は、井深宅右衛門のもとにあった懐中時計は彼の没後に本来の所有者である梶之助へ戻されていると考え、明治学院記念館を訪ねそれを探していた。しかし、私の判断は間違っていた。
  丹下の娘・光子の回想記に、明治6年の斗南(現むつ市)から会津若松への帰還時、母が野辺地の豪商に父の遺した懐中時計を五円で託し路銀の足しにしたという記述があるからだ。さらに、丹下がその高価な輸入品をもう一つ別に所持していたとは考えられないからである。
 つまり宅右衛門は、息子から献じられた銀の時計を、形見として持つのに一番ふさわしい丹下の妻であり光子の母である鈴木美和子へ、斗南移住の前に返していたのだ。この宅右衛門の行為は、会津戊辰戦争の敗戦後、困窮を極めていたときにも決して失われていなかった会津武士の矜持からだった。
 米国東部ボストンで生まれた銀の懐中時計は、太平洋を越え日本に渡り、幕末の開港地、江戸、会津若松、斗南、野辺地と数奇な旅を続け、今、その行方が分からない。
 井深梶之助は、昭和15年、召天。享年87。東京青山霊園に父・宅右衛門とともに眠っている。


青山霊園・井深家墓地(東八通り一種ロ20号8側)
中央が井深梶之助の墓、同列左端が井深宅右衛門の墓

https://boshinken.publishers.fm/article/16746/



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