2024年4月19日金曜日

斗南藩ゆかりの地

 

【出典】

佐藤 史隆

季刊あおもりのき発行人

https://shimokita-tabi.jp/himitsu/shirabetemita_13


会津若松市の木「アカマツ」とむつ市の花「ハマナス」が碑を包む

1870(明治3)年春、斗南藩の人々約1万7千人は、会津をはじめ東京や越後高田など各地から陸路や海路など複数のルートで藩領にやってきました。廃藩からの復活。石高は低くとも、新天地での再出発という淡い期待もあったかもしれません。しかし、待っていたのは、寒冷で、痩せた土地での厳しい生活でした。

むつ市大湊には斗南藩士上陸の地の記念碑があります。ここは、主に新潟からの海路で来た斗南藩士たちが上陸した場所です。

石碑は、会津鶴ヶ城の石垣に使用されている慶山石で造られ、碑文は会津松平家13代当主松平保定(もりさだ)による揮ごうです。斗南藩の人々のふるさと会津若松市の方角に向けて建てられています。


移住した人々の生活は困窮を極めました。

食料は、政府から米が支給されたものの、ひどい品質のものでした。人々は草や木の根もあさり、飢えをしのごうとしました。冬になると炉に焚火をしても寒風が部屋を吹き抜け、部屋は氷点下10度から20度という寒さ。食べ物も布団も満足なものはなく、弱者である子供や老人が次々と息を引き取ったといいます。


≪柴五郎一家居住跡≫むつ市中央2-32-52


自慢記事で紹介した柴五郎一家の住居跡です。斗南藩士上陸の地から車で約5分のところにあります。むつ運動公園テニスコートのすぐ近くです。2020(令和2)年に建てられた記念碑が、ひっそりと林の緑に包まれていました。

会津で、敵軍に攻め込まれた際に命を絶った祖母、母、姉、妹。家族を失った深い悲しみの中、父・柴佐多蔵と兄嫁・すみ子と共にここにたどり着いた若干12歳の五郎少年は、どんな気持ちで生活したのでしょう。


五郎の父は、犬の肉を食べられなかった五郎に対して、「ここは戦場なるぞ、会津の国辱を雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」と叱ったといいます。気持ちを強く持ち、歯を食いしばって極貧を耐えたことを伝えるエピソードです。


徳玄寺の山門

柴五郎一家居住跡から田名部方面へ車で約10分。むつ市中心街の一角に浄土真宗の徳玄寺があります。ここは、まだ乳幼児だった斗南藩藩主・松平容大の生活の場であり、重臣たちが会議を行った場所です。


斗南藩主だった松平容大の揮ごうによる石碑

徳玄寺から歩いてすぐのところに曹洞宗の円通寺があります。円通寺は、恐山菩提寺の本坊です。(下北のヒミツでは特別編として恐山菩提寺院代の南直哉さんのインタビューを公開していますので、ぜひご覧ください。)

円通寺には、斗南藩の仮館として藩庁が置かれました。これは、重臣たちが、現在のむつ市を拠点にまちづくりをしようと考えていたことを示しています。

また円通寺は、藩主・容大と父・容保がわずかひと月ながら、一緒に過ごした場所です。境内には、1900(明治33)年に建てられた会津藩士の招魂碑があります。容大の揮ごうによるものです。

訪ねた日、白くもやがかかっていた白亜の尻屋埼灯台

斗南藩士たちが下北に移住を開始したのは1870(明治3)年4月からですが、翌年7月には廃藩置県により斗南藩は突然終わりを迎えます。1年あまりの短い期間の中でしたが、それでも彼らは産業基盤、生活基盤を整えようと行動していました。


1876(明治9)年に建設された尻屋埼灯台。第2回深掘り記事でも触れていますが、建設に際し、斗南藩士が深くかかわっています。


明治政府は、国策として国際的な貿易を活発化させることを目的に、日本各地で灯台の整備を進め、尻屋崎も選ばれました。そこには、1871(明治4)年の斗南藩士による熱心な設置運動があったからだといわれています。航行の安全が図られることで、港が活性化し、厳しい生活からの脱却につながると考えたのです。

斗南藩の市街設計計画などを解説する案内板

田名部市街と尻屋を結ぶ県道6号沿いに、斗南藩史跡地があります。

斗南藩は政策として、丘陵地帯を開拓し、街を建設しようとしました。街は、一番町から六番町までの大通りによって屋敷割をし、東西には門を配置、1戸建約30棟、2戸建約80棟、深井戸18か所などが建設されました。現在もこの場所には、井戸跡や土塀跡が残されています。

斗南藩の人々はここを「斗南ヶ丘」と呼び、開拓を推し進めようとしましたが、自然条件が過酷だったことと、廃藩置県による藩の終焉により頓挫しました。


斗南藩史跡地には、秩父宮両殿下が1936(昭和11)年にこの地を訪れたことを記念し、1943(昭和18)年に会津相携会(現・斗南會津会)によって記念碑が建てられています。


小高い丘と墓石を包むように立つ木々が印象的

斗南藩史跡地から車で1分のところに旧斗南藩墳墓の地があります。

小さな丘の上にあり、歩いてのぼると木々が墓碑を守るように生い茂っています。

斗南藩廃止後、藩主・容大は政府の命令により東京に行くことになり田名部を去ります。1873(明治6)年には、米の配給の打ち切り、転業資金の交付があったことから、斗南藩士の多くが下北からふるさと会津や東京などへと転出し、残った斗南藩士は50戸ほどだったそうです。

この斗南藩墳墓の地には、わずかに残った斗南藩の人々の墓碑があり、また会津ゆかりの人々が碑を建立しています。


いつか報われることを信じ、艱難に耐え抜いた斗南藩の人々。藩の廃止後も各地で活躍しており、柴五郎や広沢安任などが特に知られています。その力強い姿は、今を生きる私たちをも勇気づけてくれます。


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