19世紀に入るころになると、たびたび日本近海で異国船を目にするようになり、江戸湾の警備が必要になりました。
文化7年(1810)幕府は、会津藩に江戸湾警備の任務を命じました。命を受けた会津藩は鴨居と三崎の地に陣屋を構え、三浦半島のほぼ全域を会津藩領としました。任務につくと観音崎と浦賀の燈明堂近くの平根山へ三浦半島で最初の台場を造り、守りを固めました。この任務が永遠に続くものと思っていた会津藩士は一家をあげて横須賀に移住してきたので、鴨居には藩士の教育機関である藩校の養正館も設けられました。ちなみに江戸湾警備についた他の藩はすべて単身赴任でした。
このような状況のもと、横須賀で生涯を閉じた会津藩士およびその家族も多く、現在確認できる墓石だけでも70基以上にのぼります。
会津藩は文政3年(1820)にその任務を解かれますが、ペリーが来航した嘉永6年(1853)には房総半島で再び任務に就き、ペリーが久里浜へ上陸した時には海上警備をしていました。
明治維新で会津藩が新政府軍に破れると、会津を離れ、因縁深い横須賀へ新天地を求めて来た人も多く、その子孫の方が現在も住まれています。
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0535/aizuwakamatsu/history/grave.html
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