会津藩士墓地 白坂観音寺
この辺りは、白河口の戦いの激戦地で、東軍はいったん西軍を退けましたが、ふたたび来襲、西郷頼母、横山主税らが稲荷山に陣して迎え撃ちました。
しかし、約700名ともいわれてる死者を出して敗退し白河城は落城。戦後、この墓城は有志により管理され、毎年6月第1日曜日には長寿院住職の読経のもと慰霊祭をおこない、会津藩のご子孫も参列されています。
戦死墓
戦後、地元新町の人々が建立し戦死者の霊を弔ったものです。文字は阿部藩の重臣・阿部秋風の書です。
銷魂碑
松平容保が書した銷魂碑には、白河口副総督の横山主税をはじめとする304名の名前が刻まれています。
田辺軍次墓
田辺軍次は、東軍が敗れたのは、大平八郎が西軍の道案内をしたからだと信じ、白坂宿鶴屋で、大平を斬殺しました。田辺はその場で自決しましたが、八郎の養子直之助が養父の仇である田辺の墓を建て、白坂観音寺に葬りました。のち白河会津会によりこの地に改葬されました。
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