会津藩士墓地 野付半島
会津藩は西別から紋別までの領地を与えられ、1860(万延元)年、標津に藩士を派遣。
1868(慶応4)年まで開拓と北方警備にあたりました。
会津藩は1862(文久2)年、ホニコイに本営となる陣屋を建築。
函館で材木を製材し、切組をつくって、船で運んび組み立てるというもの。
『蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ御陣屋御造営日記』によれば、11隻の船で物資や人員を運び(予定では17棟建設)、1863(文久3)年の秋までになんとか陣屋が整ったことがわかります。
そのホニコイ陣屋には代官以下200余名の藩士が北方警備に就いています。
この陣屋があったホニコイは、現在ホテル楠(標津町南8条西1−4−1)が建つあたりと推測されています。
ロシアの南下政策に対抗し、寒さに強いという理由で北方警備を命じられた会津藩などの東北諸藩ですが、越冬など過酷の警備で多くの藩士が命を落としています。
野付半島にある会津藩士の墓は、1863(文久3)年に亡くなった会津藩士・稲村兼久とその孫、そして佐藤某の3名の墓。
右の墓には「稲村兼久之墓 同孫女之墓」と刻まれ、左の墓は半分から下の部分が欠損しているので全部は読み取れませんが、「會津 佐藤」と刻まれている部分が残されています。
https://hokkaido-travel.com/spot/visiting/ho1157/
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