戊辰戦争で敗れた会津藩は領地没収、藩士は捕虜として越後高田や東京に送られることになった。柴家の三男・五三郎ら一行が「戸の口原」まで来ると白虎隊少年の死骸があった。村人が埋葬しかけたが新政府軍につかまった話を聞いて、五三郎は一命にかけてもと埋葬の交渉に向かうが通行切手がなく捕まった。しかし岡山藩の三宮耕庵が見過ごしてくれた。
五三郎らは費用を出し村役に頼むと夜の闇に紛れて埋葬してくれた。戦に負けると野ざらしの死骸を憐れみ埋葬しても処罰されるのだ。
いっぽう五男の五郎少年は「乞食の大名行列としか思われず」の惨めな行列に従い、負傷した長男・太一郎が乗る戸輿の後ろを猪苗代から東京まで歩いた。時には雨に濡れ十日あまりの苦しい旅の末、蒸暑い東京に着くと一橋門内の御搗屋(おつきや)に収容された。
この御搗屋は幕府糧食倉庫で江戸城中ご用の米や餅をつくためのもの、250人が押し込められた。現在の毎日新聞本社(千代田区一ツ橋)地下鉄竹橋駅を降りてすぐの所。
会津藩士は東京七カ所に分けて収容され、柴家も父佐多蔵は講武所、五三郎は真田邸、四男・四朗(東海散士)は護国寺に送られた。それでも監視つきながら外出でき、家族ばらばらに収容された柴家の五人は互いに行き来した。皮肉なことに、父子は収容されたこの時だけ近くで顔を合わせられたのである。
佐多蔵ら700名が収容された小川町講武所は、JR水道橋駅から三崎神社、日本大学一帯にあった。講武所は幕末に軍政改革のため、旗本や御家人の武術修練のため講武場として設置され、教授には男谷精一郎、榊原健吉、桃井春蔵らがいた。
護国寺(文京区大塚)には柴四朗ら314人が収容された。 護国寺は五代将軍綱吉の母桂昌院によって建立され、三条実美、大隈重信、山縣有朋、河野広中らの墓がある。
山川大蔵(浩)もいた飯田橋火消屋敷は330名ほど。
やがて会津藩事務所の新設を許され、旧藩の役員などで連絡統制に当ることになった。下北半島・斗南藩庁の前身とも。歩けるようになった太一郎はこの藩事務所に移り、松島翠庵と名を変え医者の姿になって行動した。京都・江戸詰時代の他藩の友人知人を訪ねて回り、会津藩の措置について助力を求めて歩いた。
この火消屋敷跡(千代田区富士見町)はJR飯田橋駅から徒歩10分、靖国神社にほど近い九段高校や日本歯科医大などに囲まれた文教地区の辺り。
ほかに山下門内松平豊前守屋敷(日比谷公園内)700人、神田橋門外騎兵屋敷(錦町)250人、芝増上寺350人、麻布真田屋敷など総勢2800人ほどであった。
参考: 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』2008年(中井けやき)/ 『紙碑・東京の中の会津』1980年 牧野登(日本経済評論社)
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