徐福がはじめ、有明海北岸を拠点にした可能性は、風浪宮の北にある「吉野ヶ里遺跡」にも窺えるという。
そこには漢の武帝が行った祭祀と類似した遺構を持つ墳丘墓があるらしく、徐福とは年代はズレているものの、大陸の「方士」が関与していた可能性は十分に考えられるという。
少年少女のなかに、徐福の「方士」の能力を受け継いだ人がいたのかも知れない。
それに、そもそも弥生中期にはじまったという青銅器の製造なども、一連の工程は「完パケ」として導入しなければ意味がないわけで、徐福の百工とその後継者たちの存在は、ハナっから否定してしまっては勿体ない話のような気がする。
徐福の3000人の少年少女
でもそうなると疑問として湧いてくるのが、そんな先端技術をもつ集団が、なぜ今に名を残すような国を建てて、弥生時代の日本を支配しなかったのか、だろう。
まだ邪馬台国すらない時代なんだし、現地の縄文系弥生人に中国語を覚えさせ、中国式の生活をさせれば、「もう一つの中国」の出来あがりじゃないか。
だが、現代の日本人の言語にもDNAにも、その痕跡は残されていない。
彼らは日本の支配層にはならなかった。
ならば徐福の連れてきた3000人(実際には130〜200人ほどか)の少年少女たちは、一体どこに行ってしまったんだろう。
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