2015年9月8日火曜日

家紋掟


「家紋掟」

出典

http://www.aoki.cc/cgi-bin/takao_bbs/wforum.cgi?no=265&mode=allread#265



家紋に関して大変ご質問が多いので一つにまとめました。

そもそもは家紋の使用は平安末期から使用される様に成りましたが、その家紋化した目的は「氏家制度を規則正しく保つ目的の根幹手段」として室町時代の中期から明治の初期頃まで使用される様に成ったものなのです。
家紋は当初から家紋として存在していた習慣ではなく、本来は最初は奈良時代初期に皇族が自らの「ステイタス」(印章)として使用していたものでした。その最初は何んと青木氏に関わる事から始まったのです。
家紋というものを理解する上で家紋の経緯としてそれを少し詳しく述べておきます。

蘇 我入鹿を倒した中大兄皇子の時代に遡ります。それまでは「文様」は儀式的な意味合いが強く天皇家と朝廷の「儀式の権威」として位置づけられていました。そ の儀式を司る天皇に対する「間接的権威」として扱われていたのです。ところが、この事件と成った原因から天皇家の「体制固め」(大化の改新)が始まりまし た。
先ずその一つは「経済的な原因」でした。つまり、それは無秩序に近い状態で存在する「皇子の数」でした。それまでは「数を固める事」で「天皇 家の権威」を作り上げていたのですが、そこを入鹿に狙われたのです。先ず、蘇我氏に内蔵の経費に依る経済的な弱体化を狙われたのです。
軍事的には渡来人の漢氏(あやし)又は東漢氏(やまとあやし)等の軍事集団を蘇我氏に抱え込まれ裸同然の無力化に干されました。政治的には斎蔵の祭祀による権威のみの立場に追いやられると云う事態に成っていたのです。
つまり、天皇家の財政を司る「内蔵」、朝廷の財政を司る「大蔵」、朝廷の祭祀を司る「斎蔵」の政治機構三権と軍事権を蘇我氏に奪われていた事に成ります。
この経済的に問題に付いて、4世族までの皇子皇女の数が大変多く34人にも成っていました。第6世皇子皇女までいれると50人以上と成っていたのです。(7世族以降は坂東に配置されていました。)
そこで「大化改新」と云う「大政治改革」を断行しました。
その目的の一つとして皇族に掛る内蔵の経費を少なくする為に第4世までを皇子王とし第6世以降は臣下させる事を実行しました。
その第4世皇子までに順位を付け第4位皇子までに「皇位継承権」を与え、「第6位皇子」(1)を臣下させる仕組みとして改革をしました。
この結果、これらの下俗臣下した皇子の身分を保障するために、この新たな「世族の仕組み」は「身分制度の確立」に発展し先ず「8つの家柄階級」(八色の姓の制)を定めました。
そして、この時、問題の皇子族は「真人族」(まさと)「朝臣族」(あそん)(2)と特別に「宿禰族」(すくね)を加えて3つの身分に分けました。
これら「八色の姓」に合わせて、別にその功労能力に応じて画期的な「官位階級制度」が定められたのです。これは現在でも観られない徹底した「実力主義」でした。
例えば、皇太子であろうと、他の下位の皇子が優れていれば皇太子よりも遥か上の官位を授かると云うものでした。現在でもあり得ない実力主義でした。
つまり、「家柄制度」と「身分制度」が定めた事に成ります。
そして、この2つの制度に伴い「職務制度」も定めたのです。
この「職務制度」でも下位の皇子でも能力が高い場合は重要な守護王に任じられると云う事が起こりました。
朝臣族4世皇子族までには6段階の位に準じて重要な順に天領地の守護王職を命じたのです。
そして、その皇子には順位を付けて6位皇子からは臣下する事としたのです。
この「3つの制度」によって先ず最も昇格したのは第6位皇子の伊勢王の施基皇子でした。
日本書紀に記述されています。(「日本書紀と青木氏」のレポート参照)
この時に最初に中大兄皇子(天智天皇)から直接与えられたのが第6位皇子の施基皇子の伊勢の「青木氏」(3)と特別に第7位皇子の川島皇子の近江の佐々木の地名から「佐々木氏」の氏を与えたのです。
この制度に則って実力のある皇子には氏を与えると云う「賜姓の仕組み」が出来上がりました。
この「皇族の改革」を始めとして、「八色の姓」に準じた他の臣下の特別な豪族の身分改革も起こりました。政治機構は一段引き締まる体制が出来上がりつつありました。
そこで、先ず、皇子族の「身分制度」を明確にする為に、更にそのステイタスの表現の一つとして「独自の印章」(「印章制度」)を用いて明確にする様に改革しました。
結局、次ぎの5改革が行われたのです。

5つの制度改革
「家柄制度」
「身分制度」
「職務制度」
「賜姓制度」
「印章制度」

天智天皇はこの2人の皇子にはそのステイタス(印章)として「竜胆の花」とその「葉の形」を文様として「笹竜胆紋」(4)を使用する様に命じ他の氏には使用を禁じ区別させました。
こつ「実力主義」に基づく「5つの制度」に裏打ちされた「笹竜胆の印章」が後に各氏の「家紋」への展開の始まりと成ったのです。その代表者が始祖の施基皇子の青木氏であったのです。
施基皇子は第6位皇子でありながら皇太子よりも3階級も上の官位(浄大1位 天皇に継ぐ官位)を獲得したのです。異例中の異例です。
更には、この施基皇子は天武天皇の葬儀を皇太子に代わり取り仕切ると云う前代未聞の事も起こったのです。そして、日本の律令の根本と成る「善事撰集」司を任じられると云う名誉の編纂者に任じられたのです。
天智天皇が天皇家の守護神として伊勢神宮を指定し後に天武天皇が正式に定めましたが、天皇家にとって最も大事な祭祀の地のここの伊勢の国の守護王に任じた事からもその仕事ぶりが判ります。
そして官吏として彼の有名な三宅連岩床を伊勢国の国司として送っているのです。
恐らくは、研究中ですが、この事実の実力から観てこの「4つの制度」の制定も施基皇子が指揮したと観ています。
家柄、身分、職務、賜姓の制度に裏打ちされたこの「印章制度」を更に確実な権威付けなものとして次の事も実行しているのです。
これらの制度は完璧と云わざるを得ない程に理路整然として作り上げられているのです。
この時、その皇族賜姓族の「青木氏」にはその姓の源と成った「一族の神木」(5)として「青木の木」を指定しました。当時は青木は榊と同じく朝廷祭祀の神木として扱われていたのです。
そして、その「守り本尊」として日本最初の仏師の「鞍作部止利」作の北魏方式の仏像の「大日輪座像」(6)を与えました。「神木」を指定し「守り本尊」を与えると云う事は大和朝廷の始めての事でした。
次 にそれまでは天皇一族自らを護る親衛隊が無く、「蘇我氏の増長」を招いたとして大化改新の一つとしてその「護衛隊の任務」(7)を与え、何んと細部には宮 中の「3つの衛門」の護りの実務をも与え、これに官職名として左右の衛門に位を与え、「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの「尉佐と上下」の「4階級の職 務」(8)まで設定し与えたました。(後に「北面武士」と呼ばれるようになった。)
更に天皇家の守護神として伊勢神宮を指定しここを守護する王の「守護王」(9)の最大任務を与えると云う徹底した改革でした。

因みに、江戸時代には御家人や旗本等の中級武士以上が金品を渡して朝廷より一代限りの官位をうけましたが、例えば彼の江戸南町奉行の遠山の金さんは遠山左衛門上尉景元と名乗っていた様に。この元は皇族賜姓族の青木氏と藤原秀郷流青木氏に与えられる永代官位だったのです。

その後、上記「5つの制度」と共に施基皇子で始まった「9つのステイタス」に裏打ちされたこの権威のある第6位皇子に5代の天皇が5つの主要天領地の守護王を命じたのです。

14の値に天智天皇
天武天皇
文武天皇
聖武天皇
光仁天皇

第4世皇子までが守護王に任じられたのは下記の当時の天領地の王に及びました。
嵯峨天皇から賜姓源氏に変名されて11代続きましたが、下記の守護王や国司に任じられたのです。

天領地の守護王
伊勢王、近江王、美濃王、三野王(信濃王)、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、栗隅王、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王
以上19王/66国

この中で伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王には第6位皇子が任じられ上位王として5家5流の青木氏が発祥しました。この5つの国に青木氏の子孫を遺しました。
他 の14王ではステイタスが授与されましたが、氏を遺したとされる王と遺し得なかった王とがあります。賜姓源氏は滅亡しましたが、未勘氏として子孫を遺して いるとされていますが、史実は結果として、この14の地に多くは賜姓佐々木氏がこの「印章権威」に保護されてこの地の多くの子孫を遺しています。

以下の9つのステイタスは皇族賜姓青木氏5代と皇族賜姓源氏11代と皇族賜姓佐々木氏2代に続けられました。
(1) 「第6位皇子」 (1)
(2) 「朝臣族」 (2)
(3) 「青木氏」 (3)
(4) 「笹竜胆」印章 (4)
(5) 「一族の神木」 (5)
(6) 「守り本尊」「大日輪座像」 (6)
(7) 「護衛隊の任務」 (7)
(8) 「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの官職 (8)
(9) 「守護王」 (9)

この9つのステイタスが5代天皇に引き継がれて「光仁天皇」まで続きましたが、「桓武天皇」と「平城天皇」は律令国家完成を目指して青木氏らの「皇親政治の勢力」を排除しました。
これに反発した「桓武天皇」の第2位皇子の「嵯峨天皇」が元に戻し、これに手を加えて「嵯峨期の詔」を発し、青木氏には皇族の者が下俗する際に称する氏名として使用を禁止しました。明治3年まで3つの混乱期を除き原則守られました。
こ のわずか後に、「平将門の乱」を平定した功労で「藤原秀郷」は貴族に任じられて、その為に秀郷護衛団として第3子の「千国」を侍にしてこの詔に基づき (2)の身分を授かり、(3)の呼称を許され、(1)同等の身分を持つ青木氏として呼称する事を申請して、朝廷より母方を同じとする事を理由に、特別認可 され発祥させました。
そして、代々青木氏と同等の天皇家の近衛軍の(7)(8)の官職を与えられ、(9)として伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の守護王の補佐官吏として国司に任じられました。
(4)では秀郷は下賜「下がり藤紋」の印章を維持しました。他の藤原氏四家は「下がり」を忌み嫌い上り藤紋に変紋しましたが秀郷は下賜家紋を固持したのです。
(5)は藤、(6)は春日大社として9つのステイタスを代々保持したのです。

以上の様に藤原秀郷流青木氏は皇族賜姓青木氏と全て同等の扱いを受けていたのです。
この様に家紋「下がり藤紋」には皇族賜姓青木氏の「笹竜胆紋」と同等の身分家柄扱いを朝廷から受けていたのです。家紋はこの様に「9つのステイタス」を背景にその全体的な「象徴」として観られていたのです。
この「9つのステイタス方式」を継承して、その第6位皇子には賜姓青木氏から家紋はそのままに源氏の賜姓に変更しました。賜姓源氏は正式には花山天皇までの11代の天皇に継承されました。合わせて16代続いた事に成ります。
この同等扱いを理由に源氏とも繋がりを持つとして、後に藤原秀郷流青木氏は源氏でもあるとする説が生まれたのです。

この様な「4つの制度」(身分階級制度等)の政治システムが次第に確立してゆく中で、その「立場を表す「印」が必要に成り、そのステイタスとして平安初期には真人族の貴族や朝臣族や他の藤原氏の血筋を引く公家や八色の姓族などにも使用される様になったのです。
この「印章」となる紋だけではなく同時に「他の8つのステイタス」がその身分に合して制度として引き継がれる様になりました。

この家紋化へと進んだ時期は渡来人の帰化人が国に同化し「渡来人」と云う言葉が使われなくなった時期で、律令政治が確立した頃の桓武天皇の時期からそのステイタスを表す諸道具や牛車などに盛んに「権威ある印章」が用いられました。
記録によると牛車等に付けられた「印章」でその位身分の差異で道を譲れ譲らないなどの争いが起こるなど一種のブームと成りました。
平 安初期の最初は皇子族、貴族侍、公家侍等の40程度の氏を構成する者が使用を許される様に成り、平安中期には80程度の氏、平安末期には200程度に拡が り始めて、鎌倉時代には幕府の推薦で朝廷が授与するシステムが出来上がり、ステイタスからはっきりと家紋化として侍にも身分の区別化として用いられる様に 成って拡がりました。
鎌倉期には朝廷からこの「9つのステイタス」を授受される事が上級侍としての誉れとされました。
しかし、鎌倉時代の移行期を経て、更に室町初期には幕府体制の下で家紋の元に成った「印章」だけは武士を中心に上級武士の間で自らが定める完全な家紋となり800程度、戦国時代には1200程度と一時急激に増え、末期には淘汰されて平安初期程度に戻ってしまったのです。

この一連の「9つのステイタス」は、当初は「印章」から「家紋」に、「誉れ」から「判別」に変化して行きました。
この様に家紋を始めとして(4)(5)(6)だけは個別に成り、遂には(7)(8)(9)は実態とは別に名前だけを幕府の推薦と朝廷の授受するものと変わりました。
(1)(2)(3)は朝廷内部のものとして「禁令の詔」を発して明治3年まで原則護られました。
(2)だけは(1)と(3)の家柄を持つ氏に与える事として定められました。これは結局は鎌倉、室町幕府を開いた征夷大将軍にのみ与えるものとして遺されたのです。
因みに徳川幕府は(1)(3)の朝臣族の家柄になく南北朝の天皇家の乱れた系譜を搾取偏纂して朝廷の抵抗を撥ね退けて強引に取得すると云う有名な事件が起こりました。すでに南北朝時代はこの制度は無くなっていました。徳川氏はそこを突いたのです。
安定した桃山時代には遂には秀吉が天皇家の五三の桐紋等を勝手気ままに与えるなどして再び増え江戸初期には家紋奨励するほどに中級以上の「武士階級」は全て持つように成りました。
江戸中期からは朝廷は(7)(8)(9)を乱発して経済的な収入源とした為に中級武士以上は全て持つ様に成りました。結果的に(4)は室町末期からは自由と成ったのです。
江戸末期から明治初期の戸籍化に因って裕福な一般庶民も使用する様になり、何時しか全ての氏が使用し日本全国には8000もの家紋が存在する様に成りました。

この様な経緯を持つ家紋は初期には特定の氏だけに認められて使用を禁じられていましたが、禁令の順守が緩やかに成り鎌倉末期には慣習化されて次の様なルールに基づき使用される様に成りました。
江戸時代初期には幕府により概要が明文化されて各大名が更に慣例に基づき自らの氏の「家紋掟」を定めて氏家制度を保持しました。

こ の様に、完全な画一的な掟ではなく、統一する事は各氏の事情により異成る為に、大筋を社会慣習にて定めたものです。例えば奈良時代から存在する一連のステ イタスを保持する藤原氏の様に元来丸付き紋は使用せず、大一族一門を見分ける為に丸付き紋では困難であり、分家を始めとする分流分派を見分ける為にも「副 紋方式」の様な独特な詳細な掟を定めました。
因って、皇子族、貴族侍、公家侍、大古豪族の家紋は当時の社会慣習により、血縁関係も身分釣り合いと純潔習慣があり、丸付き紋は原則使用していません。
依って、(1)(2)(3)、(4)(5)(6)、(7)(8)(9)のステイタスが3つに分離が起こり、その結果、武士階級によって家紋が左右される様な時期からは「丸付き紋」が始まり、氏が拡大して行く室町期頃からの必然的な使用と成りました。

本来、この丸付き紋の目的は、青木サイトとして「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、「氏家制度」の武家社会の「家紋掟」により細かく分けるとすると、7-8つ程度の役目があります。

以上の経緯を考慮に入れ次ぎの各要素を組み入れて家紋を分析する事で、ご先祖のルーツ解明の一つの手段に成りご先祖の氏での位置付けが見えてきます。

皇族賜姓青木氏29氏は特別な史実に基づく未勘氏を除くと原則丸付き紋は使用していません。
ただ、笹竜胆紋は、当初は「部分変紋」を使用していたと観られていますが、「賜姓青木氏の笹竜胆紋」と「賜姓源氏の笹竜胆紋」と「賜姓佐々木氏の笹竜胆紋」は竜胆の花と5枚葉との間の軸の部分を変化させて判別させていたと観られます。
調査すると、賜姓青木氏の場合は軸状、賜姓佐々木氏の場合は円点状、賜姓源氏の場合は菱状であったと観られ判別されていた模様で何時しか軸状と同じに成っています。
この原因は奈良時代から平安時代の皇族の「純潔慣習」が保たれて「同族血縁」を繰り返した結果から「部分変紋」を維持する事が難しく成ったと考えられます。
この「同族血縁」が制度的に続けられていた最後の時期は、伊勢青木氏の血縁を観ると清和源氏宗家源頼光系頼政の仲綱の子との養子血縁をしている事から、1180年頃から1185年までと観られます。平安末期です。
その理由は最大勢力を誇った清和源氏は1195年で滅亡しました。後は同紋5家5流青木氏か近江佐々木氏との同族血縁しか無く成っていました。その後には美濃、信濃青木氏との血縁が観られます。依って、「部分変紋」が無くなったと考えられます。

同じく藤原秀郷流青木氏も原則は使用していませんが、116氏の内30紋が丸付き紋と成っています。依ってこの30紋は江戸初期前後に発祥した氏が多いのです。
青木氏に関しては、あくまでも丸付き紋単独で存在する家紋はなく全て分家である事が裏付けられます。つまり、単独であっても分家が生き残ったと観られる氏であります。
室町末期、江戸初期、明治初期に発祥した青木氏には全てと云ってよい程に「丸付き紋」が目立ちます。
これは、室町末期は下剋上と戦国時代を経て立身出世した者が没落した氏の家紋などを使用する、又は似せて使用した事から家紋掟に憚って「丸付き紋」を使用したことが原因と成っています。
「下剋上」で元の主君の家紋を何等かな方法で使った事が大きく原因しています。

江 戸初期は武士に成った者や家紋の持たない下級武士であった者が左程に氏を構成するほどに大きくなくてもこぞって持つ様になりました。この時、土地柄や周囲 の盟主豪族の家紋に似せて「丸付き紋」と「一部変紋」や「糸輪紋」や「囲い込み紋」の方式で変化を付けて家紋を作りました。

この時期は武士の間では急激に家紋が増えた時期です。家紋としての役割がそれほど無い家でも”家紋が無い家は武家ではない”とも観られた時期でもありました。
(参 考 当初「武家」とは「公家」に対して「氏」を構成する「侍集団」として主に天皇を護衛する武力集団として呼ばれたもので、室町末期ころから一般の「武 士」までを呼ぶ言葉と成った。大化期に伊勢青木氏から最初に発祥したもので、それまでは「部」を構成する武力の職業集団であった。)
氏家制度に沿って一族一門が結束する為のステイタスとしての役割では無く、氏が乱世で個別離散して持った為に一族間でありながらも家紋の違いが起こる等の問題が起こりました。
この時期、この様な家紋やルーツを手繰る専門の職業が生まれて、力のある者は良く似た家紋を作ってもらう等のブームが起こりました。

明治初期は氏家制度や身分制度の崩壊で政治新体制下で「契約社会」となりました。この為全ての国民が姓を持つ事を義務付けられて明治3年に「苗字令」8年に「督促令」が公布されました。
なかなかその習慣に馴染めない民衆は一度にある日村全員が村の周囲の盟主の氏を名乗るなどして苗字を持ち、苗字に合わせて家紋も同じ要領で持つ等の事が起こりました。
苗字でも民衆は8年も掛りましたから、家紋に至っては文様を考案する等は程遠く類似する家紋か盟主の家紋に「丸付き紋」を付けるなどの事で対応するのが限界でした。
この時、憚って盟主の家紋に主に丸付き紋を付ける事などして家紋化が起こりました。
例えば、全国各地に多い「下がり藤紋に丸付き紋」はこの時の家紋群で、群や村の全員が藤原氏の宗家本家筋だけが名乗る「藤原氏」を名乗り、又合わせて家紋も使う等の事が起こったのです。
この様に各地では盟主の家紋に「丸付き紋」が多用されました。
家紋で代表される「源平藤橘」の「丸付き紋」はこの様な背景から生まれました。
因って、「丸付き紋」には元来、正規には分家を意味しますが、氏の発祥の時期によってはこの様な意味を持っているのです。この時期の「丸付き紋」の家紋は村の盟主の「分家」と云う意味を広義に捉えた手段に成ったのです。
中 にはそれなりの理由根拠があり、盟主が「農兵」として駆り出しその功労として姓と家紋の使用を許すと云う行為を多用したのです。しかし、「農兵」にしてみ れば彼らには生活の中に苗字や家紋を使うそのような慣習がなかったのですから、当時としては何の価値もありませんでした。
しかし、明治の苗字令で督促されて過去のこれを持ち出した事が起こりました。盟主にしてみれば文句の言えない事でした。
明治期には盟主は地主に成り、農民には小作人として働いてもらわなくてはなりません。むしろ、苗字と家紋は新体制維持のためには是非もない事でもあり維新政府の奨励と厳しい指導があったのです。

上記した様に「印章」から始まり「家紋」化したものには必ず其々次の特徴を持っています。
1 由来姓
2 時代性
3 地理性
4 氏名性
5 特記

以上の1から5の「其々の特徴」と「氏家制度の慣習」とを把握し勘案するとその氏の家紋の発祥内容が確定できます。
特に青木氏に関する内容については明確になります。
従って、「丸付き紋」の有無で「氏の構成具合」は評価できるのです。
普通は次の要領で判断されていました。

a 嫡子が存在する場合
本家筋の末裔と分家筋の末裔に分離する。
嫡子が同紋を引き継ぐ。
本家筋の嗣子には家紋部分変更を行う。
分家筋の嗣子には丸付き紋を付ける。
妾子には丸付き紋を付ける。
因縁性のある嗣子に丸付き紋を付ける。

b 嫡子が存在しない場合(女子がいる場合)
婿養子先家紋に変紋し、婿養子が妾子の場合は丸付き紋を付ける。(養子先本家の許可)
この場合は変紋時、正式略式の場合の使い分けを行う。
婿養子に嫡子が出来ると元の家紋に戻る。(本家の許可)
2代続きの婿養子では親の婿養子先の家紋に確定する(女系化 婿先系の新氏発祥)
確定時に丸付き紋の有無の許可を婿養子先に求める。

c 嫡子が存在しない場合(子供居ない場合)
養子婿を迎え嫁を取る場合、丸付き紋に変紋する(本家の許可)
養子婿先の家紋に丸付き紋を付ける。

d 嫡子が存在しない場合(縁者より養子の場合)
家紋は変わらない。(最も一般的で多く採用された方法)

大きな氏は原則、「丸付き紋」で対応する事に成りますが、次の要素により3つの変紋の手段が採用される場合があります。
 「時代の変化」
 「地理的な変化」
 「氏の拡大」
 「全体の氏性」
以上が原因で大きい氏は確実に把握が困難と成りました。

この自然淘汰による履歴の把握が困難に加えて、家紋経過には次の事が起こりました。
 室町末期(新興勢力 氏のステイタス)
「下剋上」と「戦国時代」で混乱 奈良時代から始まった氏の構成が新興勢力に新しく変化した。
この為に氏を示す家紋も新しく発生した。

 江戸初期(下級武士 氏の判別)
新興勢力の氏は自然淘汰されて、氏の安定期に入り、それまで氏を構成しなかった下級武士が改めて興し独自の氏と家紋を持った。

 明治初期(庶民 家柄の誇示) 
「氏家制度」の崩壊で明治維新の「契約社会」へと変化し、全ての国民が苗字を持ち氏をあらためて構成し始めた。当然に家紋も併せ持った。

以上の3乱期には第3氏が「丸付き紋」を採用しました。
この為に「丸付き紋」の採用は一族性に問題を生じて来ました。
ただ、氏家制度が無くなり身分制度の無く成った社会慣習の明治初期以降に使用された家紋が、この家紋掟を護られたかは疑問ですが、a、b、c、d、イ、ロ、ハ、ニ、等の方法の中でただ「養子縁組」になると「丸付き紋」だけを一時使用していた事は確認されています。
現在では家紋の持つ意味も核家族社会の中で無くなり殆ど護られていない事と思います。

そこで次の4つの方法が採用されて来ました。
上記abcを繰り返して行くと次の方法が採用されて来ました。
イ 部分変紋(最も多く用いられた方法)
ロ 囲い込み紋(糸輪紋含む)
ハ 陰紋
ニ 類似変紋(イの変化)

#1 嫡子の本家筋ルートは次第に分家化する。
主に家紋の「部分変更紋」で何処の本家筋かを判別する方法を採用した。

#2 嗣子の分家筋ルートは次第に分家化する。
丸付き紋が細分化すると丸は採用できなくなる為に、主に「囲い込み紋」を採用して分家筋を判別する方法を採用した。更に「部分変更」を加えて対処した。

#3 妾子の分家筋ルートは次第に支流化する。
「丸付き紋」が細分化すると重複して維持できなくなる為に、一族性を保持する為に家紋の明暗を逆転して主に「陰紋」を作りだした。

#4 #2 #3のabcが進むと次第に傍系化する。
更に血縁性が不明確に成り傍系支流化すると「類似別紋」を採用した。
「部分変紋」にはその違いの大小に依って「類似変紋」に変化する事も起こる。

大小の氏では時代性が異なるが#1から#4の経過を辿っています。

(本来は6つの掟)
1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
2 嗣子と妾子分類
3 宗家の許可
4 配流子孫の区別
5 男系跡目の継承
6 養子縁組
7 嫡子尊厳
8 身分家柄の保全

1についての説明
先ず、宗家が家紋を決めます。そこから枝葉が拡がります。
又、それぞれの本家ができます。そして、嫡子以外は分家となります。
これを繰り返してゆきますと、1の様に呼ばれる枝葉が拡がります。
この6つに更に宗家から分派まで出来る事になります。
この大元が「総宗本家」となります。
この時、家紋の使用はそれぞれの本家筋が伝統を重んじ使用許可を出して決めます。
氏家制度の中では一族の「純血」を出来るだけ守るためにそう簡単には使用を認めません。
この許可は嫡子が行います。
嫡子は何も長男とは限りません。能力のあるものが嫡子となります。
長男が嫡子と成る事を決めたのは「江戸初期」の徳川家康が決めました。徳川家の後継ぎとして定めたものです。これに諸国の大名が習ったものです。
氏家制度の中では実力のあるものが成ります。
嫡子が出来なければ、氏の血筋目が立ちませんし、「長」がいないことにも成る訳ですから、当時の「妾」の存在の概念は罪悪感はなく子孫を残すと云う人としての大命題である為に氏家制度では普通の概念でした。
ただ、とは云え「正子」と「妾子」では身分上で原則区別されます。しかし、「正子」に「妾子」が勝れば子孫繁栄存続の目的のために「妾子」が成ることがあります。「正子」が無ければ「妾子」が「嫡子」に成ることがあります。
この為、大きい氏では妾子は次ぎの3つの身分に分けられます。
妻の身分
 后:きさき (正妻)
 夫人
 妃:ひめ、
 嬪:みめ、

 采女:うねめ

正妻と次ぎの2つの妻との間には一つランクがあり、更に妥女との間にも一つランクがあります。
当然、この子供が独立するとなると、歴然としてその扱いには差異があり、家紋の継承が問題と成ります。
正妻の身分に子供が居ないとなると必然的に下に降りて行きますが、嫡子が江戸時代までは原則正妻よりランクに従い長男と成りますが誰になるかは別問題です。
これは大きい氏には正妻等の血族結婚による弊害を避ける事もあり、戦国時代で優秀な者を嫡子にしなければ氏の存続は保てない事情もあります。
本家宗家はこのシステムで血縁性と家紋継承を保つのです。

「正子」がいる場合は「采女」の身分まででは、「丸付き紋」は当然の事として「部分変紋」又は「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序でかなり厳しい扱いを受ける事に成ります。
この3つの身分扱いは各氏で血縁性を担保するために「掟」として定めていました。
一般的には「丸付き紋」「部分変紋」「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序となっています。
「陰紋」はその意味合いや目立たない事から比較的に使用を嫌われていました。
家紋は「部分変紋」の差異が小差であるから「類似変紋」へ、「類似変紋」の差異が大差であるから次第に「別紋」へと変異しているのです。
この様な「家紋掟」の中では分家以降は余程その子孫の枝葉が大きくならないと勝手に家紋を決める事はできません。
依って主要な大豪族は原則「丸付き紋」は使用しません。多くは「副紋方式」です。
分家の分家以降は主に普通は「丸付き紋」が多いのですが、これは、普通の氏で、分家である場合か、他氏の無断使用の場合かによります。
しかし、ここで「丸付き紋」に欠点があります。
分家の分家の場合は「丸付き紋」は二重の丸となり使えないことが起こるのです。そこで「丸付き紋」に「部分変紋」が起こるのです。そこで又更に分家扱いが起こると「部分変紋」にも限界が起こる為に「類似変紋」と成ります。
この「類似変紋」に来ると「変化の多様性」つまり差異が大きく取れる特長を持っているので「別紋」に至るまでには時間的な経過期間を保てるのです。この様にして一族の家紋は変化して行くのです。
血縁性の経緯を一定に保つために戸籍簿、系譜の様に氏家制度の中ではそれを宗家本家が管理している事に成ります。
し かし、この管理が江戸中期以降緩んだと云う事に成ります。宗家本家の力が落ちた事を意味し、氏家制度も低下した事に成ります。明治期に入り氏家制度が崩壊 し、家紋の使用は庶民に広がったがその家紋の持つ意味合いは「9つのステイタス」からほど遠く成り、「氏の誉れ」と云う単位から「家の虚勢」へと変化して いったのです。
藤原秀郷一門の家紋掟ではない「丸に下がり藤紋」は庶民のせめてもの「虚勢行為」と考えられます。
例えば、藤原氏の「下が り藤紋」や「上がり藤紋」に「丸付き紋」は、元来、家紋掟では副紋方式ですので、第3氏である事になります。この様に「源平藤橘」の紋は主に副紋方式です が、源平橘の氏の子孫拡大はそれまでに至っていません。依ってこの3氏には「丸付き紋」の未勘氏が多いのです。

「橘紋」は藤原氏に圧迫さ れて子孫を多く広げる事は出来ず大衰退を余儀なくされ、この衰退を末裔は忌み嫌い、橘氏自身がこの橘の紋を使う事をやめると云う事が起こりました。依っ て、第3氏の丸付き紋の「橘紋」も著しく敬遠されました。丸付き紋になる程に橘紋は使用されなかった筈なのです。子孫もそれだけに広がっていないのです。
ところが、橘紋には上記の由来性、時代性、地理性や宗派性に先ず矛盾し尚且つ丸付き紋が実に多いのです。
この氏は地理性が極めて限定されいて大変氏が小さいのですが、矛盾しての名乗る氏が驚きを超える程に多いのです。

平 家の「揚羽蝶紋」は滅亡して関西以西に逃亡して農民として隠れ忍びましたので、この家紋を公に使う事が憚られ室町期に入ると表に出てくる事が再び起こりま した。この為に史実から末裔の素性が明確になりません。各地で農民として生きていた為に「丸付き紋の揚羽蝶」が出来る程に管理されていなかった筈なので す。「揚羽蝶紋」に対して実は平家の分家には「臥羽蝶紋」もあるのです。平家には「丸付き紋」は元来なくこの様な家紋掟により分家筋は実は「臥羽蝶紋」が 使用されていたのです。丸付き紋の史実がとれない平家の未勘氏も子孫の数より数倍も多い氏が驚くほどにあります。

源氏の11家11流がありましたが、清和源氏、村上源氏、宇多源氏、嵯峨源氏の末裔が何とか政争の中でも生き残りましたが、中でも引き継いだ鎌倉時代の清和源氏の頼朝の末裔が滅亡して史実は子孫を遺せなかったのです。
何とか「不入不倫の権」で守られていた賜姓青木氏の5家5流と近江の佐々木氏、宇多天皇の滋賀佐々木氏がこの笹竜胆紋を維持して来ています。
清和源氏の未勘氏が膨大と云う言葉で表現出来る程に多いのです。何んと家紋から観ると1165氏も名乗りを揚げているのです。1/100も無い筈です。未勘氏を入れると2000前後にも成ります。
普通でも身分家柄上同族血縁を原則としている為に、これほど清和源氏が子孫を遺す事そのものが難しいのに源氏だと名乗っている氏があるのです。
そうだとしたら、源氏の末裔を尽く潰した鎌倉幕府の北条氏らは放って置く事はありません。
鎌倉幕府の後の政権を取った足利氏も家紋の違う傍系支流ですから、本流の末裔が生きているのであれば足利氏の室町幕府に参加していた筈です。
そして、副紋も丸付き紋等も使わない掟のある氏であり、嵯峨期の詔で禁令が出ているのに、家紋は笹竜胆紋ではなく氏名も異なる氏が源氏だと名乗っているのです。ほとんどは史実がありません。

因 みに、上記した藤原氏に殆ど抹殺され、氏名家紋を使う事さえ嫌われた橘氏ですが、家紋から観ると86氏も名乗っているのです。藤原秀郷一門でさえ永嶋氏は 34氏、長沼氏が52氏、進藤氏は48氏、長谷川氏は111氏、もちろん青木氏は116氏で、「関東屋形」と呼ばれて平安、鎌倉、室町期、江戸初期までに 全盛を極めたこれらの秀郷一門の氏でさえせいぜい30-50程度です。
それが橘紋86もあると云うのです。未勘氏を入れると150くらいにも成ります。

ところが、藤原秀郷一門の主要5氏で観てみると、全部で361氏ですが、家紋から観てみると不思議に371氏なのです。未勘氏を入れると凡そ500程度に成ります。意外に少ないのです。
これは、一門が「第2の宗家」として青木氏を中心にして管理されていた事を物語り、なかなか第3氏が秀郷一門の氏名(家紋)を名乗れなかった環境があった事が云えます。

つまり、代表的なものとしてあげれば、傾向として「源平橘」は滅亡しているので氏の「厳しい管理の目」が無く自由に名乗れると云う現象が、室町末期、江戸初期、明治初期の3乱期に起こっていた事を意味します。

賜 姓青木氏でも、或る伊賀の立身出世した者が、元近江青木氏が滋賀に移動して再び近江に戻りましたが、一部滋賀に残った全く絶えた分家を乗っ取り、滋賀の青 木氏を名乗り、その近江青木氏本家がこれに異議を申し立て2度も戦いをしました。最終、秀吉の承認の下で決戦をし滋賀から近江に戻った近江青木氏本家は負 けてしまったのです。伊賀上田の者は滋賀青木氏を堂々と名乗り、後には滋賀青木氏本家を名乗ると云う事件さえ起こりました。そしてこの滋賀青木氏は著しい 子孫拡大を果たしました。

藤原氏に付いても群村単位で農民が名乗りましたが、氏家制度の管理が解き放たれた明治期に成って名乗った事、秀郷宗家本家筋が名乗る氏名を名乗ったが、家紋はなかなか使えなかった事と丸付き紋等を使用した事によるものと考えられます。
藤原氏全体では未勘氏があまりに多すぎて検証は困難です。

この様に、絶えた有名な氏を名乗った「虚勢」の未勘氏が実に多いと云う事なのです。
氏家制度の慣習の中では上記した5つの条件から検証するとそれを明確に検証できるのです。

この現象は「源平籐橘」全てに云える現象です。如何に室町末期や江戸初期に武士となった者が搾取して家柄身分に「虚勢」を張っていたかが判ります。
殆ど、5つの条件 即ち、由来性、時代性、地理性、宗派、特記や当時の慣習などから調べると矛盾が出てくるのです。

伊勢青木氏よりはじまった賜姓紋の笹竜胆紋は副紋も一切使用していませんので、本家筋の「総紋」の継承と成りますので、丸付き紋の笹竜胆紋は「未勘氏」(明確でない氏か史実として認められるが継続した証明がとれない氏の事)か第3氏の使用となります。

笹竜胆紋や下がり藤紋の青木氏は、各青木村を形成して嫡子がいない場合とか死んだとかした場合は、青木村を形成している事により縁続きの者を迎え入れて同じ血筋を保持し家紋を保持する事が出来たのです。これを護る「宿命的な伝統」のそのような仕来たりがあったのです。

笹 竜胆紋は5家5流の青木村と24の国の青木村、下がり藤紋は武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする地域に116氏の青木村と24国に青木村を形成してい ますので、宗家本家筋が血筋と家紋維持のためには縁者を迎え入れる事は氏家制度の中で管理されていればそう難しい事ではありませんでした。

笹竜胆紋の青木氏と下がり藤紋の青木氏との相互血縁も母方血縁族ですので不可能ではありませんでした。
例えば、讃岐藤氏の秀郷流青木氏が足利氏系青木氏や甲斐の武田氏系青木氏を保護し血縁、
神奈川の秀郷流青木氏が信濃諏訪族青木氏を保護し血縁、
伊豆の賜姓青木氏と神奈川の秀郷流青木氏が血縁、
その伊豆賜姓青木氏と本家筋の伊勢賜姓青木氏との血縁、
信濃賜姓青木氏と美濃の秀郷流青木氏との血縁、
その信濃賜姓青木氏と伊勢賜姓青木氏とが江戸末期まで各1300年程の歴史を持つ伊賀和紙と信濃和紙で結ばれた長い期間の血縁関係、
皇族丹治氏系青木氏と入間秀郷流青木氏との血縁

以上の様に複合した血縁関係等の多くの史実があり、恐らくはこれ以上に慣習として頻繁に更に相互間で行われていた事が予想できます。
同じ村単位だけではなく、何処に血縁族が居て互いの宗家に話を通せば相互間で紹介し合える仕来りが生まれていた事を物語ります。

「第2の宗家」の秀郷流青木氏はこの管理を江戸初期頃まで一元化して管理したいた事が判ります。

氏家制度の青木村は「只一族が集まる」というだけではなく、「9つのステイタス」の家柄、身分、家紋、伝統、血筋等を護るために「血縁関係のシステム」即ち「氏家制度の根幹」を担っていたのです。
この様に同じ青木村だけではなく各地に分布する青木村から迎え入れる事も頻繁にしたのです。この様にして広い範囲から宗家、本家、分家、支流、分流、分派から迎え入れる事で血筋の弊害をなくしていたのです。
その証拠の一つに、甲斐武田氏が滅びた時、甲斐賜姓青木氏、武田氏系青木氏、諏訪族青木氏ら一族一門が藤原秀郷一門を頼って神奈川や栃木など、四国讃岐、土佐、阿波にも逃げ延びたし実が残っています。これは真に宗家本家筋のこの管理が行き届いていた事を証明するものです。

一般の「丸付き紋」は、この事から宗家、本家、分家、支流、分流、分派の5つの中で血縁性の高低で直系性が無く成る場合に多く使う事を求められました。
この6つの流れの中で女系と成り新たに氏を発祥させる事となると、ここで始めて丸付き紋の家紋が出てくる事に成ります。「丸付き紋」で違いを出し「支流性」を表現して宗家との区別をします。
始めから「丸付き紋」の氏はこの結果で生まれるのです。
「丸付き紋」の家が血縁性が低下した場合に丸付き紋に更に丸付き紋の変紋は物理的に困難ですので、「部分変紋」や「囲い込紋」や「陰紋」が一定の規則の下で使われたのです。

家紋200選から観るとむしろ本家より分家が勢力を持った結果3割もの丸付き紋が多い事になります。

2番目の嗣子と妾子扱い
これに当たる場合は嫡子が指示しない限りは「嗣子」は原則丸付き紋は使用しない事になります。
しかし、嫡子の指示が無い場合の「妾子」は原則使用することになります。ここに区別がつきます。
只、妾子が嫡子となった場合は自らが決める事になりますので問題はなくなります。
ここに、嫡子、嗣子、妾子の問題が出て類似家紋が増加する事に成ります。
氏家制度の中での妾の概念は制度を維持する為の方法に主眼が置かれていて、元来は男子子孫を遺す事に目的があり、妾子の妾の差別的な概念が強く生まれたのは長男=嫡子となった江戸期に入ってからの事です。

3番目は宗家の許可です。
氏家制度は宗家を頂点にして一門を構成しています。
当 然に、勢力を持つ宗家から経済的、武力的、政治的な保護を受けて成り立っていますから、この組織からはみ出しての勢力拡大は困難です。一族の互助システム ですから、家紋はそのステイタスですからその許可は宗家の許可を必要とします。宗家に睨まれると家の存続は元より家紋使用も難しい事になります。
家紋類を分析すると、現実には3割近くが丸付き紋の使用を指示された事になります。
そして、宗家本家筋より丸付き紋の分家筋の方が勢力を持った氏が3割近くもいた事を物語ります。

4番目は配流子孫の区別です。
平安初期から氏の戦いが起こり始めて負けた側が遠地に追いやられる事に成ります。
この史実として各地には配流されましたが、その史実は認められるが、戦いや勢力争いなどに敗れて島流しや逃げ延びたりしてその地で再び子孫を広げた場合などの時にその確たる証拠等がない場合のその家紋の使用は原則丸付き紋を使うことになります。
皇族、賜姓族の青木氏では5家5流以外に嵯峨期の詔により後に皇族青木氏を名乗り史実として認められる日向青木氏等の3氏の「丸に笹竜胆紋」の青木氏がいます。
源氏や青木氏外の丸に笹竜胆紋は上記した経緯から明治期か江戸期の第3氏となります。
比較的この場合の家紋が多く、源氏や藤原氏や橘氏や京平氏等の家紋にはこの「未勘氏」のものが大変多いのです。源氏等を名乗る氏の9割はこの配流子孫の類の未勘氏です。
この配流子孫の未勘氏には史実が明確な子孫と史実が発見されない子孫に分かれています。
ほとんどは言い伝えだけで史実の無い未勘氏です。

5番目は男系跡目の継承の原則です。
氏家制度ですから男子が跡を継ぐ事になります。
当然に上記した嫡子、嗣子、妾子に分けられます。
江戸の初期までは嫡子は原則正妻の長男と云う事では必ずしもありません。
一族一門を束ねるだけの器量を保持しているかどうかが問われる時代で又その制度でした。
因って、下の者に器量があれば嫡子に成る事もあります。
当然に内部で争いが起こります。それを乗り越えての試練でなくては一族一門を束ねる事は出来ないと考えられていました。必要悪の様なものでした。
中には本家からではなく分家に良い嫡子とみられる者が居れば養子に迎え入れて長に据える事も行いました。比較的分家から養子を迎える事が多かったのです。
本家に男子が生まれるとは限りません。そうなると分家から迎え入れて血筋や家紋を保つ必要が出ます。大きい氏では縁者関係まで広げて探し出して本家筋の血筋を護る事になります。
そうでない氏や分家支流筋は女子に婿養子、養子婿を迎えて嫁をとる方法が起こります。

6番目は養子縁組です。
原則丸付き紋です。
女子に婿養子をとると、男系の制度ですから一時婿養子の家紋を使います。婿養子に男子が生まれるとその男子が跡目と成れば家紋は元の家紋に戻ります。
しかし、再び女子に成れば婿養子を迎える事に成ります。この様に2代続いて女子となるとその家は女系となりますので男系の最初の婿養子先の家紋が定着してしまいます。
つまり、家紋は変化して新しい養子先系列の氏を発祥させた事に成ります。この場合は元の家紋に丸付き紋は使えなくなります。
又、多くは養子先からも本系列ではないので養子先家紋に丸付き紋とする事が多く起こりました。
この様に成らない様に宗家本家筋だけは無理でも縁者関係から婿養子を何とか探してきます。

女子もなく養子婿を迎えて家を継続する場合です。多くは分家筋の事となります。この場合は縁者から迎えない場合は血縁関係は無くなります。女子を縁者から迎えてそれに婿養子とする場合もあります。
家を継続すると云う事だけの目的で採る処置です。
従って、江戸時代では武士で家紋の持った家からの養子婿であればそれを家紋とする事に成りますが、どうせ許可は下りないので本家からの許可は多くは無視した様です。それでも摩擦を避けるために丸付き紋を使用する場合が多かった様です。
元々問題が起こらない様に丸付き紋の場合は丸の太さを変えたり中の一部を変えたりして新しいものを作りだしました。
家紋も持たない下級武士などそうでない場合が多かったので、家紋は無く新たに定める事も起こりました。しかし、大きな氏では出来ない事ですが、江戸中期以降では男系の血縁名性が途絶えても家紋掟を無視して家紋も継続してしまうと云う事が起こりました。
ほ とんどの武士が家紋を持ち始めたのは江戸初期からで旗本、御家人等にブームが起こりこぞって持つ様になりました。従って、江戸初期からの発祥が殆どなので 本家の許可云々の問題はあまり起こりません。ルーツを手繰れてもせいぜい普通は江戸初期までで室町期に入れる氏は少ないのです。
その点では青木氏は平安期まで遡れる氏です。
家紋8000の中では武士の場合は戦国時代を経てきたために子孫が少なくなりほとんどはこのタイプです。農民等から身を興して新たに氏を興した場合が多かったのです。
又、 先祖が武士であってもそのルーツが下剋上や戦国時代で消失して判らなくなるなどして新たに氏を興したのです。この為に、未勘氏が多く成ったのです。使用し た家紋のその氏に憚って丸付き紋とする事が多く起こりました。この場合は中の一部も変えると云う方法を使い争いを避けました。

七番目は嫡子尊厳です。
氏家制度の中では嫡子が絶対的権限を持っています。
嫡子に選ばれると他の嗣子妾子はその嫡子の心一つで家紋を引き継げるかどうか決まります。
家紋を引き継げると云う事は一族の中に残れるかどうかが決まる事です。
家紋を継げるという事はそれなりに財産分けがある事に成りますが、嗣子妾子はほとんどは他家に養子に出る運命です。勢力を拡大しない限りは抱え込むと氏の財政が圧迫するのです。むしろ、他家に出す事で勢力範囲が拡大する事に成るので積極的に行われたのです。
どちらかと云うと、結婚適齢期に婿養子に入ると云うよりは小さい子供のころから預けると云う習慣が多かったのです。その後に正妻や妾に嫡子が生まれたりすると、養子には家を新しく興して傍系支流を発祥させたりしました。
従って、家紋が変化することの方が氏家制度の中では正常な事であったのです。その為にも宗家本家だけは家紋や伝統を絶対的に護る必要が生まれたのです。
ただ、乱世であったことから婿養子に出て男子が多く生まれた場合で、養子先を子供に任して実家に跡目の問題など絶えたなどの事が起こると実家に戻る等の事が頻繁に起こりました。
固定された嫡子が長男と考えられるようになったのは江戸初期からで家康がその先鞭を付けたのです。

八番目は身分家柄の保全です。
氏家制度の中では「血縁はつりあい」で行われます。
その為には、家紋の判定が重要に成ります。
婿養子や養子婿では「つりあい」をある程度無視した形で行われました。
特に婿養子に男子の子供が生まれる事で解決するので家紋問題は解決します。
つり合いのとれない婚姻の場合は家紋継承が許されるかは問題で、丸付き紋を指示されたり、影紋や家紋の一部を変える変紋を要求されるか囲い紋を要求されるかは本家次第と成ります。
宗家本家筋の血縁には「吊り合い」が重視されますが、分家以下ではそのような事を云っていては跡目の継承は困難となります。養子縁組はこの様な事をある程度無視しなければ成り立ちません。
そこで、このままでは氏家制度が崩壊して行きますので、養子縁組には家紋の継承には一つのルールを設けていたのです。

以上の様な理由で一族の家紋は変化して行きます。
故に藤原秀郷流青木氏では116氏に成り、皇族賜姓青木氏(皇族青木氏含む)では24氏(29氏)に成っています。
この様に長い間に一族の家紋は元の総紋を宗家本家がどんな事が起こっても引き継ぐ苦労が伴いますが、上記の理由で分家筋では緩やかに拡がってゆきました。

その様な家紋継承にはそもそも次の様な方法があります。

A 「総紋」と云うのがあります。
こ れは宗家、本家が引き継ぐ一族の始めからの紋でそれが氏が拡大すると代表紋になるのですが、これが家紋掟により、分家と成った者が次第に家紋が変化して行 き藤原氏で云えば361氏の家紋数に成ったと云う事です。その元の家紋が「総紋」と呼ばれるものです。藤原秀郷一門で云えば、「下がり藤紋」と云う事にな るのです。この「総紋」と「藤原氏」の氏名を継承している事は361氏中限られた数の24氏と成る筈です。中でも「氏名」に付いては藤原氏にはある掟があ り「藤原氏」そのものを名乗れる氏は武蔵入間の「総宗本家筋」だけと成ります。つまり、「氏名」も「総称」なのです。それを名乗ると成ると、"藤原朝臣青 木左衛門上尉・・・・"と成ります。
この「総紋」を継承するには男系跡目を必ず果たさなくてはなりません。その為に宗家本家筋では妾子の方法も必 然的に必要であり、それだけでも宗家本家筋に男子が生まれなかった場合には一族一門より男子を養子婿に迎えて嫁取りをします。女子がいれば婚姻し婿養子と しますが、居なければ縁者から養女を迎えて婿養子をとる等して縁者による男系跡目の方策を構じて何等かな方法で宗家本家を維持し、家紋の一族紋の「総紋」 の伝統を維持します。ここが宗家本家筋の大変なところなのです。当然に総宗本家を持つような大きい氏では確実に維持できる何等かな方法を構築しているので すが。

本家と分家の違いを出す方法
B 「副紋方式」(主紋に他の血縁族の家紋も併用して使用する)があります。
本家筋で は養子を迎える努力はするが、どうしても叶わない場合は「総紋」にその迎えた養子先の家紋を併用する方法、或いは「総紋」の中にその養子先の家紋かその一 部を組み入れて一つの家紋を作り上げます。藤原秀郷流青木氏の本家筋では「下がり藤紋」にこの2つの方式の何れかを採用しています。
宗家本家筋は依然として「下がり藤紋」です。
領国の宗家筋は総紋を維持する環境が周囲に整っていますので、総紋方式で継承して行けますが、地方に定住した本家筋には総紋維持は困難ですので副紋方式を用いたのです。
本家筋に近い分家筋ではここまで縛られませんが、丸付き紋を使わない下がり藤紋に藤の花数を変えるなどして変紋します。この意味から良く見られる現象ですが傍系支流が総紋の下がり藤紋である筈がなく、血縁性から副紋でもなく丸付き紋でもなく別紋である筈です。
藤原秀郷一門で「下がり藤紋」を家紋としているのは青木氏を含む主要7氏だけで、藤原氏だけでも系列から見て9氏しか使用できない筈です。主要7氏の宗家本家筋は結局、養子縁組が起これば副紋を使用する事に成ります。
361氏を監視しこの「氏の管理」をしていたのが「第2の宗家」と呼ばれた武力を持ち内外に睨みを利かしていた一門一族の大護衛団の青木氏なのです。

C 「丸付き紋方式」
明らかに分家となるとその氏が定めた家紋掟により養子先の家紋に変化して行きます。
丸 付き紋を使用する氏は宗家本家に伺いを立てて丸を付けますが、許可が得られない場合は養子先の家紋と成ります。嗣子となった妾子の場合はこの対象に成りま す。妾子は多くは他家に養子と成ります。この妾子が養子に入った先で男系に恵まれなかった場合は実家に家紋の使用の伺いをたてますが、妾子である事を理由 で許可が得られない多くの場合は丸付き紋の使用と成ります。

基本的には丸付き紋は分家紋ですが、一部に女系に成ってでも分家と見なして使用している氏があります。
この様に分家の広義のとらえ方がひろまり分家の一種の分流や分派は丸付き紋と成ります。
血縁性の乏しい支流に広義に丸付き紋を使っている場合が多いですのでが、元来は別紋である筈です。
あくまでも丸付き紋は原則として同紋に分家筋以下を区別させる為に用います。

この他に次のような場合があります。
有名家紋の様な他氏の家紋を無断拝借する場合に多少なりとも遠慮して丸付き紋を用いました。
この現象は室町末期、江戸初期、明治初期に起った。
本流ではないが血縁性の低い支流であるがどうしても本流の家紋を使用したいとして丸付き紋を無断使用する事が室町末期に起こりました。

更には進んで直接血縁がなく自分の親族がその縁者である場合に丸付き紋を用いました。
縁者の縁者の場合であるので無断使用が多かったのです。
この様に、室町末期に一族の味方を誇示する事から、又その一族の背景がある事をにおわせて身を護ったことから丸付き紋が使用されました。

D 「影紋方式」
本家に遠慮して家紋の明暗を逆にして用いる。
丸付き紋を使用せずに家紋の明暗を逆転させて血縁性のある支流を誇示させる方式である。
室町末期に多く用いられました。

E 「変紋方式」
文様の一部を局部的に変更して用いる方式である。
軸、葉、花、花弁等の形や数を変更して用いる。
宗家から同紋の使用が許されないので、一見同紋の様に見えるがよく見ると一部が異にしている文様に変更して一族性を表現した。特に、妾子の場合にこの方式を多く採用した。
一般の家紋はこの方式から広まった。この方式からは血縁性が薄れる方式である。
室町末期、江戸初期、明治初期に広がりました。
特に江戸初期に御家人や旗本に多用されました。

F 「囲い紋方式」
角舛や糸輪で囲って用いる方式である。
糸輪は丸付き紋に似せて用いたもので変紋方式の一種である。
江戸中期以降に用いられたもので土豪集団、職人集団、氏子集団、檀家集団等の集団紋に多く用いられました。明治期には氏子の庶民はこの神紋や寺紋を使いましたので爆発的に増えたのです。
元の文様は神紋や寺紋から発展し小集団同士が結束して自主防衛の連合体を作りその集団紋としたものに多く観られます。
文様として囲う事で集団性を表現したものです。それを家紋としたものです。

この様な氏家制度を保つための社会慣習があり、家紋はその過程で変化して行くのです。
従って、各氏の家紋がこの上記する方式の何処に属するかにより氏家制度の中で大方の先祖の氏の位置するところが判るのです。

丸付き紋の青木氏
以下39の青木氏に関わる丸付き紋
・ 丸に州浜、丸に三つ盛州浜、・丸に抱き角、・丸に違い鷹の羽、・丸に蔦、丸に陰蔦、・丸に木瓜、丸に横木瓜、・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に三つ柏、丸 に蔓柏、・丸に梅鉢、・丸に揚羽蝶、・丸に九曜、・丸に三つ星、・丸に一つ引き、・丸に二つ引き、・丸に三つ引き、五瓜に丸に三つ引き、・丸に桔梗、・丸 に三階菱、丸に三つ目菱、・丸に剣花菱、・丸に花菱、・丸に抱き茗荷、・丸に三階松、・丸に根笹、・丸に違い矢、丸に八矢車、・丸に隅立四つ目、丸に三つ 目、・丸に扇、丸に違い扇、・丸に日の丸扇、・丸に並び扇、・丸に立ち沢潟、丸に三つ鱗、丸に青の角字

・印は「家紋200選」に撰ばれている丸付き紋の家紋です。
つまり、この青木氏の丸付き紋の氏は大豪族の氏です。

丸付き紋中の大豪族28紋/39紋で72%も占めています。
青木氏全体361氏の家紋からすると、家紋200選の丸付き紋28紋は7.8%を占めています。
全体の39紋では11%となります。
家紋200選全体から観ると28/200で14%です。

青木氏は丸付き紋の分家筋でも家柄、身分に釣り合いを合わせて血縁している事が云えます。

この分家を分家、分流、分派、その他で分析すると、次ぎの様に成ります。
分家 21家 79.5%
分流 12家 30.7%
分派  5家 12.8%
其他  1家  2.5%

殆ど、直系の分家で血縁(79)しています。
それも大豪族との血縁(72)です。

この丸付き紋の氏は次ぎの様な血縁で成り立っている事が云えます。

1 男系跡目が2代続きで叶わず変紋した氏。
2 直系の分家筋で丸付き紋に変紋した氏。
3 同族血縁した氏。

先ずは分家筋の氏に1の事が起こり他氏から養子縁組で変紋して家紋が増えて行くのですが、以上の内容データから観ると1-2にて氏が拡大して家紋が増え、そこで3-2-1の順に氏が構成されている事に成ります。
これほどの「家紋200選」にある丸付き紋の氏28氏もある事は1と2で起こった事とは、氏家制度の中での慣習からは、血縁関係は出来難いと考えられます。
大豪族を幾つも一門に持つ藤原秀郷一門の氏には血縁に関してはそれなりの明確な戦略があったのです。
イ 24の赴任地には土地の豪族との血縁族を拡げて勢力基盤を固めている事、
ロ 氏家制度の本筋でもある「血縁にはある一定の釣り合い」を求めている事、
ハ 氏が大きく成る弊害を克服する為に各地の同族間の純潔血縁を求めている事、

こ の「3つの戦略」を遂行すると一つの血縁上の問題(良い子孫が生まれない事)が生まれる為に、各地で他氏との血縁で一門で無い血液濃度の平均化を図る必要 から、3を実行する事で「3つの戦略」は可能と成ります。故に、普通ではあり得ない上記の79%であり、72%等のデータが出て来るのです。

つまり、家紋から観ると、1-2-3-3-2-1-3を繰り返す事による家紋データなのです。
この中で、この上記する「家紋掟」は(1-2-3-3-2-1-3)の循環が働いているのです。

この家紋は次の事に大きく関わっているのです。
X 氏家制度の社会慣習
Y 家紋の掟
Z 宗派の慣習
1、2、3のサイクルは、上記X、Y、Zに大きく影響を受けて定まって行くもので、これを考慮しないでは判断できない仕組みの掟なのです。

家紋は9つのステイタスを背景として初期には用いられ、次第に氏の判別としての目的が強く成りましたが、それでも忘れては成らない事として「家紋」と同様に「宗派」も一種のステイタスであったのです。

家紋ステイタスと連動してそのステイタスとみられていた宗派は「古代密教」を掲げる3つの宗派でした。
天台宗密教、
浄土宗密教、
真言宗密教
以上です。

この3つは其々又違う階級の氏を宗徒としていました。
青木氏に関しては浄土宗古代密教を慣習として引き継いでいました。
あくまで密教でありますので、密教でない宗派との運営上のシステムが異なります。

氏 が自ら寺を建立して自らの氏の者の住職を立て自らで運営し自らの氏だけを祭祀する排他的運営方式ですので、宗派の発展は特定地域に限定する事に成ります。 この「菩提寺方式」がこれがステイタスの象徴と成っていたのです。その菩提寺に「寺紋」として「家紋」を使う事に成ります。
藤原秀郷一門はこの浄土宗古代密教ですが、24地方に赴任していますので、限定されたところにしか無い寺と成りますと、一時的に浄土真宗に仮入信すると云う事が起こりました。
赴任地に定住し勢力を拡大させた者は多くは同様に菩提寺を建立しましたが、一時的な事が本宗と成ってしまった氏も一部に確認できます。
この様に「家紋と宗派」は、その氏のステイタスであったのですから、簡単に「家紋も宗派」も氏家制度の中では変える事はあり得なかったのです。
それは氏家制度の中でそれまでの氏の「先祖の伝統」が切れてしまう事を意味しているのです。
自らの「伝統」を切る事は氏家制度の中では氏への冒涜の何物でもありません。
これは一人の判断で出来る事ではありません。
今と違い「家紋と宗派」は生活に根付いていて、連動しての「氏の伝統の象徴」であったわけですから個人の判断では困難です。
従って一定のルールで維持した「家紋と宗派」を勝手に変えると云う事は有り得ないのです。

因みに甲斐青木氏において武田氏が潰れる3年前に改紋と改宗した人物がいて大問題と成り親子、親族間の争いに発展したのです。結局は2人の子供が浄土宗の菩提寺を建立して家紋を元に戻すという大事件が起こりました。
この様に「家紋と宗派」は氏家制度の中では連動して動いていたのです。
ここでは複雑に成る為に宗派の慣習を論じない事として別に機会があればその掟や社会慣習に付いて研究論文を記載する事にします。

青木氏に関しては室町末期から江戸初期前後に発祥した氏の家紋の丸付き紋と観られ、恐らくは上記した掟から丸付き紋と成るには50年から100年程度の期間が必要と成ると考えられます。
依って、江戸初期から江戸中期前までに分家化したものと考えられます。
江戸中期以降は政治的に安定期に入り家紋も当然に安定化に入り新たな氏の発祥は青木氏に関わるものとしては考え難いのです。
(幕末から明治初期に調査編纂された資料による為に家紋掟による以後の家紋の変化は未確認)

江戸末期には家紋掟の順守が低下した事から丸付き紋にする氏がどれだけ居たかは疑問であります。
多くは藤原秀郷流青木氏の末裔が室町末期から江戸初期にかけて家紋掟により新しく発祥させた氏の
丸付き紋と観られます。
(この資料は室町末期と江戸初期の第3氏の青木氏も含む)

以上は氏家制度の社会慣習の中で家紋に関する各氏の定めを凡そ共通する内容をまとめたもので、特に「丸付き紋」を中心に考察したものです。

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