2015年9月7日月曜日

野口富蔵成光


アーネスト・サトウの回顧録「一外交官の見た明治維新」
(坂田精一訳)にこの野口富蔵成光の記述がある。

野口は、英語を学ぶため郷里を出て、始め箱館の英国領事に雇われたが、
慶応元年(1865)秋、サトウと同居するようになった。
明治二年(1869)、サトウに付いてイギリスへ渡る。

2年間のサトウの援助のあと、日本政府留学生になり、帰国後、公職についた。
アーネスト・サトウは、野口のことを「あくまで正直で、誠実な男であった」と
述べています。

野口は、内務省出仕のあと、陸軍省・工部省を経て京都府に出張を命じられた。
会津藩が蝦夷地の一部を拝領したのが安政六年(1859)、函館の
イギリス領事館開設が同年なので、若い藩士に英語を学ばせたのは辻褄が合う。

慶応三年、最後の日光例幣使一行の暴徒が掛川で江戸に帰るサトウの宿泊所に乱入、
そのとき、右手に刀を握り、左手に拳銃を構えて暴徒を追い払ったのが野口だった。
この時の日光例幣使が、小説家武者小路実篤の祖父である武者小路公香。

会津戊辰の役で奮戦した物頭、野口九郎太夫は富蔵成光の兄、
彰義隊に加わった弟留三郎は上野で戦死、伯父の四郎三郎は白河で戦死している。
野口富蔵の墓は神戸追谷墓地にある。最近やっと墓番がわかった。

http://blog.goo.ne.jp/mearikutiari/e/f20cca7cdc860ca9663553e21f8c4822

0 件のコメント:

コメントを投稿