2015年9月5日土曜日

吉田藤八



八雲・山越内両村の歴代戸長
 明治35年4月1日八雲村と山越内村の二村が合併して新たに「八雲村」と称し北海道二級町村制が施行されたため、明治12年12月以来続いた両村戸長役場は閉鎖された。歴代戸長は次のとおりである。
 三井計次郎 明12・12・26~明14・7・26 山越内村戸長
 同 明14・7・27~明21・9・17 山越内・八雲二ヵ村戸長(14・7・8 八雲村発足)
 松本賀積 明21・9・19~明23・9・19(23・9・15 八雲村外一ヵ村戸長役場となる)
 上田貢三 明23・9・19~明28・11・5(吉田藤八発令されたが赴任せず辞職した)
 丸田成之 明28・12・4~明30・4・19
 三井計次郎 明30・4・19~明35・4・1 引き続き八雲村長となる

出典
http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep03.htm


第2章 町村制施行前の明治時代

 第1節 維新後の行政機構

新政府による蝦夷地統治
 慶応3年(1867)12月王政復古の大号令によって維新政府が成立し、逐次新政府の機構が整えられるようになるのであるが、蝦夷地統治のための機関として最初に設けられたのは、慶応4年4月12日の「箱館裁判所」であった。この裁判所は、後世における司法機関としての裁判所ではなく、一般の民政を担当する特定の行政機関であった。
 総督に任ぜられた清水谷公考が、同年閏4月26日着任し、箱館奉行から無事引き継ぎを完了して5月1日開庁、新政府による蝦夷地統治の緒についたのである。
 しかし、維新初期における政治機構の変遷はめまぐるしく、この裁判所も清水谷総督が箱館に入る前の閏4月24日には「箱館府」と改称され、総督は「知事」と改められていたのである。そのうえ、翌明治2年7月には箱館府を廃止して、再び箱館裁判所とし、次いで9月30日には箱館裁判所を開拓使出張所と改称するという状況であった。

戊辰戦争
 慶応3年末、大政奉還・王政復古ののち新政府は、15代将軍徳川慶喜の内大臣辞任と領地返納を決定した。しかし、新政府に有利になるように薩長藩を中心とした勢力による挑発が行われ、領地返納について反対する旧幕府側は、武力による解決策をとった。こうして翌4年、京都南部の鳥羽・伏見の戦いにはじまり、3月中旬の江戸城明け渡し、9月の会津落城の結果、旧幕軍は降伏した。一方、品川から箱館に逃れた榎本武揚ら旧幕府海軍は、翌年にかけて最後の抵抗を試みたのである。明治2年(1869)5月の箱館戦争の終了までの内乱が、いわゆる戊辰戦争と呼ばれている。

箱館戦争との関係
 榎本武揚は脱出に先立ち、勝安房守を通じて「徳川家臣大挙告文」を鎮将府に提出した。これによると、王政復古は1、2の強藩の私意により出たもので、主君慶喜を朝敵とし、城と領地を没収し、家臣を路頭に迷わせた。徳川家臣救済のため蝦夷地の下賜を受けて開墾したいことを申請したが許されず、その困窮と飢餓は日一日と迫っているが、この事情を朝廷に訴えようとしても届かず、あえて一戦を辞さない覚悟をもって、江戸湾を退却する、とその意図を表明したものであった。こうして旧幕府軍艦を率いて江戸湾を脱走し、途中奥羽の戦争を支援したのち、仙台湾で新撰組土方歳三の率いる兵を乗船させ、最後の抵抗拠点として蝦夷地を求めるところとなり、開陽丸以下7隻の艦船に兵約2800余が分乗して北上した。そして明治元年10月20日鷲の木に上陸、その月26日には五稜郭を占拠し、12月15日には全島を平定、政権の樹立を自認して蝦夷地の施政に入ったのである。
 鷲の木へ上陸した旧幕軍は、後方警備のため、落部・山越内・長万部などに分遣隊を駐屯させた。このうち、落部には新撰組の大野某なる者が、隊土梶原以下10数名とともに民家に分宿していたと伝えられている。
 一方、こうした難を逃れて青森に退いていた清水谷総督は、翌2年体制を整えて討伐に出陣し、4月9日乙部に上陸して戦闘を開始した。これら新政府軍のうちの一隊は、頑強に抵抗する旧幕軍に対し、う回して背後から挟撃するため、厚沢部の安野呂から落部に向かった。こうした政府軍の行動を察知した旧幕軍は、これを入沢地区に迎え討つ計画をたて、村民を使役して土塁20数基を構築して抗戦の構えをみせた。しかし、政府軍が落部に近付いたときには、既に鶉の館も落ちて大勢は傾いていた。戦況利あらずと悟った旧幕軍の分屯隊土たちは、いち早く難を避けて退散したため、政府軍は何の抵抗を受けることなく5月4日落部に進駐した。このとき構築されたとみられる土塁は、現在なお数基がその跡をとどめている。また、退散した隊士の中には、潜伏して土着する者や、村民の養子になった者もあるという。
 一方、政府軍は落部に向かって進撃途中、白水沢(上の湯)付近で小戦闘を交じえ(後に付近の畑地から銃が発見された)、うち3名の兵士が戦病死したと伝えられている。この兵士の霊を弔う者は長い間なかったが、大正14年(1925)4月10日付近に住む林兵造(故人)が卒塔婆(そとば)を立て、毎年個人で供養を行ったが、現在ではその遺族に引き継がれ、供養が続けられている。
 なお、落部から安野呂に通ずる江差越道路は、政府軍の踏破以来、俗に「官軍道路」と呼ばれてきた。
 戦に敗れた旧幕軍は、明治2年5月17日ついに全面降伏し、この地方にも数多くの逸話を残した箱館戦争は終結となり、清水谷総督は5月19日本営を箱館に移して戦後の処理に当たったのである。

開拓使(庁)の設置
 箱館戦争の進展中においても政府部内では蝦夷地問題、すなわち開拓推進のための機構整備について検討が進められ、戦争終結後の明治2年6月4日に、
 「蝦夷開拓ハ皇威隆昌ノ関スル所、一日モ忽ニス可カラス、汝直正深ク国家ノ重ヲ荷ヒ、身ヲ以テ之二任センコトヲ請フ」
旨の勅書をもって議定、中納言鍋島直正を開拓督務に任じた。
 さらに7月8日、官制の大改革によって、事実上蝦夷地開拓を管掌する「開拓使」を設置し、同13日鍋島を初代長官に任命したが、8月25日には東久世通禧をこれに代えるという経過をたどった。
 東久世長官が諸般の体制を整え、農工移民を伴って9月25日箱館へ着き、同30日箱館裁判所を開拓使出張所と改称して施政に入ったことにより、ようやく新政府による北海道開拓の体制が整えられるに至ったのである。
 なお、漸次開拓業務が進展されるにともない、札幌に庁舎を建築し、明治4年5月札幌開拓使庁と名付けて開拓使本庁を東京から移すとともに、翌6月にはこれまでの開拓使出張所は函館開拓使出張所と改称した。

北海道・国郡の設定
 長い間用いられてきた蝦夷地という名称を改めることは、旧体制的意識か一掃し、維新の効果を高めるうえで極めて重要であると考えた政府は、具体的に検討した結果、明治2年8月15日蝦夷地を北海道と改めるとともに、区域を分割して国名および郡名を定めることを布告した。すなわちこのときに、渡島・後志・石狩・天塩・北見・胆振・日高・十勝・釧路・根室・千島の11か国に分けられ、その下に86の郡が設定されたのである。なお、それまで北蝦夷地と称していたカラフトは「樺太」と改められた。
 このとき定められた国郡の分割と命名については、幕末期を通じて蝦夷地の山川地理を詳細に調査し、数多くの地図や文献を著し、当時は開拓判官であった松浦武四郎の意見が大きく作用した。その境界決定の根拠は、ほとんどが前時代の沿革におかれており、箱館6か場所として一歩先に開けた旧和人地の野田追領以南を「渡島国」とし、東蝦夷地の首地であった山越内以東勇払までを「胆振国」と定められることになったのである。
 ここに松浦武四郎の挙げた茅部郡および山越郡の命名の由来を「北海道々国郡名撰定上書」から拾ってみると次のとおりである。

 茅部郡 東山越内領境「バロウシナイ」より、野田追、落部、鷲ノ木、沙原通り、臼尻、恵山下、海馬岩を以境とす。但陸路「シュクノッへ」小川の中にて界とす。
 山越郡 止櫛郡、西、茅部郡「ユウオイ」村なる「バロシベウシ」より、虻田領「ネツニシャ」を以て界とし、海岸十里十六丁一郡に仕度候。
 本名「ヤムウシナイ」にて栗多き沢の儀、「ヤム」は栗、「ウシ」は多し、「ナイ」は沢なり。[ヤム」を「ヤマ」と呼事敢て不審にあらず、越後蒲原(和抄名)加麻を加武音便に呼候例御座候。則蝦夷地にて今山越内と呼候様に成居候。又休越(ヤムクシ)、止釧(ヤムクシ)等も可(レ)然奉(レ)在候。

分領支配の経緯
 明治2年7月開拓使が設置され、蝦夷地開拓が委任されたが、同月22日、
 「蝦夷地開拓之儀、先般御下問モ有之候通ニ付、今後諸藩士族庶民二至ル迄、志願次第申出候者ハ相応ノ地割渡シ、開拓可被仰付候事」(法令全書)
との太政官布告を出し、「全国の力を挙げてこれに当たる」という分領支配による蝦夷地開拓の方法をとることにした。 開拓使は、この決定による土地の分与に先立って、9月14日開拓使の直轄地および兵部省の直轄地として20郡を重要地に指定し、その地以外の出願を許可する方針をとったが、これにより茅部郡は開拓使の直轄、山越郡は兵部省の直轄と定められ管理されることになった。
 しかし2月以来、会津降伏人の蝦夷地への移住開拓に関する計画支配を業務としていた兵部省は、翌3年1月5日箱館戦争の罪を許されていた元会津藩の松平慶三郎が、旧藩士らの支配をゆだねられることになったのを契機として、北海道の管轄から離れることになった。その後斗南藩主となった松平慶三郎に山越郡と、歌棄・瀬棚・太櫓の4郡の支配が命ぜられ、合わせて旧会津降伏人も兵部省から引き渡されたのである。
 こうして山越内以北4郡の支配に入った斗南藩は、他の分領支配に入った藩が、その成果を挙げることができず、中途で放棄するものが多かったなかで、よく開拓の困苦に打ち勝ち、ささやかながらも成果を上げつつあったと評価されているが、この地方で具体的にどのような事績を上げていたものかは、明らかにする史料は残されていない。ただ斗南藩士高橋常四郎は山越内の開墾係を命ぜられ、小古津内(現、浜松)に移住地を定め、明治4年に7戸18名を入植させた例があるが、これが八雲地方集団入植の初めとされている。
 明治4年(1871)7月政府は、全国の藩を廃して府県を統一するいわゆる廃藩置県を断行し、8月20日をもって分領支配制度も廃止したので、斗南藩の支配もわずか1年8か月をもって終わりを告げ、北海道一円は再び開拓使の直轄となったのである。
 ただし、旧松前藩だけは幕末以来北海道の一部、爾志・檜山・津軽・福島の4郡を領有して館藩と称し、開拓使の統轄外におかれ、廃藩置県によって館県と改称した。その後明治4年9月、弘前県(まもなく青森県となる)に併合されて、その管轄下に入るという経過をたどり、これが開拓使に移管されたのは5年9月20日のことであり、ここに初めて北海道全域が開拓使の支配するところとなったのである。
 なお、小古津内に入植した者たちは、斗南藩の分領支配が廃止された後もこの地に残っていたが、開拓使の保護に甘んじるばかりで、開拓の成果はみられず、わずか7町余(約7ヘクタール)を開拓したのにとどまり、明治15、6年ころまでにはいずこかへ離散してしまったという。

本・支庁の設置
 北海道開拓使は、地方の管轄郡を定めるため積極的に調査を進め、5年9月14日札幌開拓使庁を札幌本庁と改め、函館・根室・浦河・宗谷・樺太の5支庁を設置した。ただし、浦河支庁は7年5月、宗谷支庁は留萌支庁と改称する経過の後、8年3月に廃止され、それぞれ札幌本庁に管轄されることとなった。さらに、樺太支庁は8年11月樺太・千島交換条約締結により廃止されるという経過をたどっている。
 函館支庁は、当初は上磯・亀田・茅部の渡島国東部3郡と胆振国のうちの山越郡をもってその管下としたが、この直後に渡島国西部4部(旧館藩領)を収めて計8郡を管轄することとなった。

郡出張所の設置
 地方末端における事務を処理させるため、本・支庁設置以前の明治5年2月、山越郡下の山越内村と長万部村の2村と茅部郡下の落部村を管轄する「函館出張開拓使庁山越郡出張所」が山越内に設置され、初代詰員として山本賢が任命された。なお、8月には長万部出張所が設けられて長万部村を管轄したが、8年3月には廃止され、再び山越郡出張所に事務が移されている。
 この山越郡出張所は、明治9年5月25日「開拓使函館支庁山越内分署」と改められ、翌年6月26日には落部村の区域が森分署の管轄に移るという経過をたどりながら10年4月5日、他のすべての分署とともに廃止された。
 しかし、郡区町村編成法により、明治12年7月に茅郡・山越郡役所が森村に設けられ、茅部・山越の2郡を管轄して翌13年1月開庁するなど、これまためまぐるしい変遷をみたのである。

村方機構の再編制度
 政府は、維新後における政策遂行を図るため、地方制度の改革整備に力を注いだが、その基本的な考え方としては、中央集権確立のための機構整備であった。すなわち政府は「戸口の多寡を知るは人民繁育の基」という趣旨で、明治4年戸籍法を制定し、翌年その編成(壬申戸籍)作業に入った。その際、戸籍編成のため、従前の町村の区域にこだわらず、特別行政区としての戸籍区を設けて、戸長・副戸長をおくこととし、明治5年4月9日全国的に庄屋・名主・年寄等の職を公式に廃止して町村を代表する地位を解く措置をとるに至った。
このことは、旧来の町方村方体制を破壊し、人民に対する政府の一貫支配体制を確立する意図にほかならなかったという。
 こうした制度的背景のなかにあって函館支庁では、まず函館で三区十五小区を設け、6年5月に「東部4郡(山越・亀田・上磯・茅部)に大小区画を設定、村方名主を廃して副戸長とし、年寄・小頭・百姓代を廃し村用係とする。」という布達を出し、郡村大小区画を定めた。これにより函館の三区画に次いで、四大区亀田郡、五大区上磯郡、六大区茅部郡、七大区山越郡、とそれぞれ郡を単位とする大区に区分されたのであるが、関係分を示すと、
 六大区(茅部郡)三小区 尾白内村、森村、鷲木村、落辺村の範囲
 七大区(山越郡)一小区 山越内村の範囲
という区割りとなり、これによって任命される副戸長は「村の理事者、人民惣代としての機能を継承する」とともに、戸籍吏としての事務その他の国政事務を遂行するという官吏的性格をもつものであった。
 これらの措置により山越内村の副戸長は、道行政資料課所蔵の職員表によれば、次のように松田武右衛門、新井田重吉の2人が任命された記録がある。
 (その一) 第七大区一小区副戸長 函館支庁管内第七大区 一小区山越内村商
 明治六年三月七日拝命 松田武右衛門 年給八拾円 文久五壬午年六月生
 ◇ ◇ ◇
 明治六年三月七日拝命 新井田重吉 年給八拾円 天保六乙未年四月生
 右のように、副戸長が2名発令されたということは、前述の布達でいうように副戸長が名主の改称されたものであることからみても矛盾がある。また、通説的には大小区画の設定が、明治6年5月であるといわれているのに対し、この発令月日が3月7日とされていることなど、理解しにくい点が多い。当地方における村方機構や、その陣容などがどうなっていたのかを知り得る手掛かりが、全くない状況であるから、その真偽を解明することはむつかしいので、これを併記するにとどめる。なお、当時は多くの副戸長が無給であったのに対し、官費80円が支給されているのも珍しいこととされているが、これは山越内村が村並になってから歴史が浅く、民費負担という財政的能力にはまだ欠けていたためであろうと考えられる。
 また、落部村の副戸長に相木堯太郎が就任したが、右のような任命に関する公式記録がないため明確ではなく、「函館支庁管内町村誌」によれば、明治7年と記録されてはいるものの、通常の考え方からすれば、明治6年とすることが正しいのかも知れない。

郡村大小区画の展開
 戸籍編成のため一応特別行政区画としての大小区画が定められたが、実際上は本・支庁権限で行われたため、全道的にまちまちのものになった。
 そこで、これを統一するために開拓使は、明治7年5月「区戸長月俸規則」を定めて本支庁に通達した。
 これによると、「区戸長の月俸は本来民費で賄うべきものであるが、戸口繁殖、民産興起による体制が整うまで当分の間官費で取計う」という趣旨で、内容では区吏の職名を正・副区長、正・副戸長および正・副総代の6つに規定し、区長の最高25円から副総代の3円に至るまで10段階に区分されたのである。
 しかし、これらも必置性ではなく、戸口の多寡やその景況などによって正副区長を置かずに戸長に兼務させたり、また、区戸長などをいっさい置かず、総代もしくは副総代にその仕事をさせるという極めて広い幅を持ったものであった。
 これにより開拓使は、旧来の村方自治への介入をいっそう強め、その判断のままに区長以下の職に統一できる道を開いたのであった。函館支庁では明治9年4月18日、函館支庁管内東部四郡で大区に2、3名を残して副戸長の大部分を解職した。 この措置によって当地方の副戸長は松田武右衛門だけを残して、落部村の相木堯太郎、山越内村の新井田重吉、長万部村の竹内弥兵衛などは「副戸長差免候事」としてその職を免ぜられた。そしてここで解任された副戸長らが、以後どのような職についたかを知る史料は少なく、今のところ、
開拓使函館支庁管下第十八大区二三小区戸長明細調(関係分抄)
 相木尭太郎 開拓使管下平民 天保六年十月十日生 第十八大区三小区 副総代 明治九年三月十七日 月給三円 茅部郡落部村
 右之通相違無之候也。
 明治九年十一月調 森分署
 (道行政資料課所蔵「民事課往復留森分署」)
という史料が発見されているだけであり、これもまた、書中任命の3月17日と、前述した解任の4月18日が一致しないことに疑問もあるが、副総代・月給3円ということで任命されていたことを示している。

北海道大小区画の実施 
 開拓使は明治9年9月、それまで本支庁ごとに実施していた大小区画を統一して「北海道大小区画」を定め、全道を30の大区、165の小区に再編した。
 この大区および小区の設定は、旧来の町や村を包括し、これをそのまま自治的団体として育成しようとしたものであったようであるが、結局は単に分署や支庁の直轄のもとで、その末端機構として機能するにすぎなかった。
 このとき再編成された区画制度によれば、茅部郡が第十八大区、山越郡は第十九大区とされ、関係分では、
 茅部郡(第十八大区)三小区 森村、鷲木村、蛯谷村、石倉村、落部村、宿野辺村
 山越郡(第十九大区)一小区 山越内村 二小区 長万部村
となっているように、落部村を含む第十八大区三小区などは、六か村を包括する広域的自治機構の醸成をねらったものであった。
 以前の郡村区画時代から副戸長として在任した松田武右衛門は、明治10年5月22日依願差免となり、同日付で澗山浩平、三井勝用の2名に対し、 第十九大区副戸長申付候事
 但し等外四等(月俸六円)ニ准ス
の辞令が交付された。したがって、第十九大区を見る限りにおいては、山越内村担当が澗山浩平、長万部村担当が三井勝用というように、一村一名の副戸長配置だったわけである。
 なお、同年11月12日相木堯太郎が死亡したが、その後任発令の形跡は発見されておらず、第十八大区の副戸長菊地忠兵衛が担当したものと思われる。
 さらに、明治12年3月26日付で、
 第十九大区十二小区戸長三井勝用等外二等(月俸八円)ニ准侯事」
 (道行政資料課所蔵「官記辞令録」)
とあり、三井勝用の戸長昇格辞令が記録されているが、澗山浩平の辞令は不明であり、少し後の5月21日付の函館租税課文書(同前「戸長文書録」)に「第十九大区戸長澗山浩平」宛のものが残されているにとどまるが、とすればその任命は同時か、またはそれと相前後して戸長に任命されていたことが推測されるのである。

 第2節 戸長役場の発足

戸長役場の設置
 発展が遅れていた北海道はともかく、全国的には人民の利害を直接反映しない大小区画制のもとでも、公的に認められてはいなかったものの、町村民の寄合が事実上の町村の議決機関として継続され、旧来の町方・村方自治の復活を望む声が高まりをみせる状況にあった。
 政府は、こうした社会的背景に対処して、明治11年(1878)7月「郡区町村編制法」、「府県会規則」、「地方税則」の三法を制定し、自治制度の復活を図った。しかし、これらの三法は、当初から北海道を除外していたものであったが、このうち「郡区町村編制法」だけがその翌年から北海道にも適用されることになり、7月からはこれまでの北海道大小区画制を廃止し、郡区町村制が施行され、町村は行政区画であると同時に自治団体としての性格を持つことになった。こうしてこれまでの区戸長などをすべて廃止し、全道90郡、826町村を設定したのである。しかし、実際的には近世の町村自治と異なり、この事務を取り扱う役所を「戸長役場」と称し、官選の戸長をそれに当てるというものであり、しかも、村といってもなお人口希薄な地帯の多い関係もあって、必ずしも一村に一戸長役場を置くというものではなかった。
 この地方に戸長役場が設置されることになったのは、明治12年12月になってからであった。
 開拓使函館支庁第九十八号
 当庁管下各郡内へ別紙ノ通り戸長配置候条此旨布達候事
 但右ノ外ハ郡区長二於テ戸長事務兼掌候義ト心得ベシ
 明治十二年十二月二十五日
 函館支庁
 開拓使大書記官時任為基
 (別紙)
 戸長配置表 (関係分抄録)
 茅部郡落部村
 右へ戸長一人
 山越郡山越内村
 右へ戸長一人
 長万部村
 右へ戸長一人
と布達され、この地方では一村一戸長の配置となり、落部・山越内のそれぞれに戸長役場が設置され、翌日落部村戸長に相木幾一郎、山越内村戸長に三井計次郎が任命された。
 (その1) 相木幾一郎
 茅部郡落部村戸長申付侯事
 准等外三等月俸七円
 明治十二年己卯十二月二十六日
 開拓使
 (その2) 三井計次郎
 山越郡山越内村戸長申付侯事
 准等外二等月俸八円
 明治十二年己卯十二月二十六日
 開拓使

戸長の性格
 町村は、戸長の配置により戸長の管轄区域をもって地方団体として認められることになったわけである。しかし、戸長は官選であり、開拓使の定めた「戸長職務概目」でその所掌事務が挙げられ、しかも「その他本支庁長官・郡区長の命令する事項はその命令に服務」としているように、国政事務の遂行を戸長や町村に対して要求できる極めて官治的性格の強いものであった。
 戸長職務概目の内容は次のとおりである。
 戸長ハ布告布達ヲ町村内ニ示シ、地租及租税ヲ取纏メ上納、戸籍徴兵下調、地所建物船舶質入書並ニ売買加印、地券台帳、迷子及行旅病人変死其他事変アルトキハ警察署二報知シ、天災又ハ非常ノ難二遭フ窮追及孝子節婦其他篤行者ヲ具状シ、町村ノ幼童奨学勧誘、町村内ノ人民印影簿ヲ整置、諸帳簿保存管守、河港道路堤防橋梁其他修理保存スヘキ者ニ就キ利害ヲ具状スル等及本支庁長官又ハ郡区長ヨリ命令ノ事務ハ規則又ハ命令ニ依テ服務、其他町村限リ道路橋梁用悪水ノ修繕掃除等凡協議費支弁事件幹理スルハ此限ニ非ズ

浦役場の設置
 三井戸長は、明治13年3月茅部山越郡役所から「浦役人兼務相達候事」の辞令を受けた。浦役人とは、浦役場の役人のことであるが、これは明治10年太政官通達をもって船舶関係の事務、すなわち、水産物の検査や出船入船の安全をはかり、案内不十分の船には商売のあっせんをし、海難救助を行うことなどの事務を担当させたのである。こうして海岸地方の主なところに浦役場を設けるという既定の制度により、これが山越内にも設置されることになったのである。しかし、この浦役場の設置によって特別の機構が設けられたものではなく、単に「山越内浦役場」の標札が掲げられ、戸長役場事務担当者の仕事として加重されたものにすぎなかったという。
 なお、この浦役人および浦役場は、いつまで存続していたのかは不明である。

郡・村総代人
 戸長役場時代においては、今日のような町村議会の組織はなかったが、一応、住民の利害得失に関する事項について郡長あるいは戸長から協議を受けて、これに答申する職責を担う総代人制度が設けられていた。この総代人には、町村の総代人と郡の総代人とがあり、前者は町村費などについて参与権をもち、後者は郡を代表して郡内の戸数割の決定にあたったのである。
 この総代人の制度は、明治11年の「総代人撰挙法及総代人心得」という布達により創設されたものであるが、これによって従来の「総代・副総代」の名称は廃止され、新しく「総代人」という名称になった。町村総代人の選挙資格要件は、(1)その町村に本籍があること、(2)二〇歳以上の成年男子であること、(3)管内に不動産を所有すること、であり、披選挙資格要件は、(1)、(2)は同じで、(3)として、管内に100円以上の地券を所有すること、もしくは中等以上の身代で管内に不動産を所有すること、などとなっていた。
 こうして町村総代人は、各町村から2名が公選され、区内町村総代人の中から互選により小区総代人が2~4名選出され、任期は町村、小区ともに2年であった。
 また、「総代人心得」は次のとおりであるが、これによって総代人は、公借・共有物・土木起工だけでなく、制限はあるが村民の利害得失に関する事項も取り扱うようになったのである。
 総代人心得
 第一条 総代人ハ九年十月第百三十号公布ニ依リ、金穀公借共有物取扱土木起工等ノ事ニ預ルヲ以本務トナスト雖、時宜ニ寄人民ノ利害得失ニ関スル事ハ区役所ヨリ議スルコトアルヘシ、但有志醇金ニ出テ一区一町村ノ課出ニ非ル土木起工ノ如キハ本文ノ限ニ非スト雖、一区一町村ノ利害得失ニ係レハ之ニ于預スル事ヲ得。
 第二条 前条ノ場合ニ於テハ、実際民情ヲ酌量、宜ク公利公益ヲ目的トシ、必シモ軽挙アル可ラス。
 第三条 九年第百三十号布告第二条ノ場合ニ於テハ、該条但書ニ依リ其代理トナルヲ得ヘシ。
 第四条 小区総代人、町村総代人管掌ノ区分ハ唯事ノ大小等ニ寄ル者ト雖、第百三十号公布第一条ノ場合ニ於テハ其別ナキ者トス。
 第五条 総代人ノ集会ハ小区ナレハ区戸長、町村ナレハ戸長用係出席スル者トス。
 第六条 総代人ハ給料ナキ者トス。然レトモ公用ニテ旅行スルトキハ、用係ト同ク旅費ヲ給ス。
 (布令類聚)
 総代人の制度ができてわずか2年後の明治13年から、大小区割が廃止されて郡区町村に変わった。したがって小区総代人も消滅して、新たに郡区総代人がおかれることになった。
 郡区町村制は、明治13年1月1日から実施されたが、その年の7月8日付をもって、従来の「総代人撰拳法」と「総代人心得」は改定された。その「撰拳法」によれば、町村総代人は1名または2名とし、郡総代も1名または2名をおくこととし、任期は2年で、毎年その半数を改選することにした。また、選挙資格は、満20歳以上の男子で、その町村内に一か月以上居住するものとし、被選挙資格は、前述の資格のほかに、中等以上の身代で、管内に不動産を有するものとした。
 総代人制度は以後長く存続されたが、明治30年代の一、二級町村制の施行によって廃止された。
 この総代人の活動が実際どのように機能されていたものか、その細部について知ることのできる直接的な史料が残されていないので明らかではないが、明治17年以降において郡総代および村総代を務めた形跡を認められる人々の名を挙げれは次のとおりである。
 なお落部村の総代については、郡・村総代の区分も不明であるが、総代を務めたと認められる人々の名を挙げれば、山戸久三郎・宮川勘之亟・角谷金作・佐々木徳右衛門・奥田庄三郎・宮川清次郎・松浦富三郎などがある。

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