2020年3月13日金曜日

新山神社

三戸郡五戸町倉石又重7
新山神社は貞観二年(860)の創建と伝えられている。その後、元禄二年(1,689)盛岡藩士木村秀晴によって此の地に遷宮されました。尚現在の社殿は昭和六年(1,931)に造営したものです。
祭神:大国主命・素戔嗚命・少彦名命。蒼前大神・天満天神
境内由緒書より。原文はこちら。

御祭神 大国主命
例祭日 八月十八日
由 緒
 現在の御神殿は昭和十三年、拝殿は昭和六年にそれぞれ新築されている。御神殿の工事は完成まで三年の歳月を要している。天満宮は昭和四十八年社務所改築に伴い社務所内に移転している。夫婦神社は平成四年九月新築。境内の西角に二本の巨木あり。根元や枝など密着しており、縁結びの木として崇拝されている。この巨木の樹齢は数百年と言われている。
八月十八日の例大祭には倉石村無形文化財神楽舞、舘町保存会の奉納神楽舞が行われる。舘町鶏舞も一緒に大祭の行列に毎年参加する。
(青森県神社庁HPより)


http://www.komainu.org/aomori/sannnohegunn/sinnzann/sinzan.html

新郷村西越

新郷村西越日向は南部地方の南、奥羽山脈の山岳とそれに連なる丘陵台地に立地、馬淵川の支流浅水川の最上流部に位置する。川沿いに集落が散在し中心集落は日向である。
江戸期は盛岡藩領。五戸通に属していた。
慶応3年(1867)の給人は青山郡司・山田募ほか7名であった。村高は正保4年(1647)の「正保郷村帳」101石余、「貞享高辻帳」126石余、寛政年間(1789~1801)の「邦内郷村志」524石余(うち給地450石余)、「天保郷帳」324石余、慶応3年(1867)「五戸代官所惣高書上帳」では524石余。
寛政年間(1789~1801)の「邦内郷村志」では家数167・馬270を飼育。享和3年(1803)の仮名付帳では家数129、うち本村(日向)42とある。
西越村は畑地が多く、薪炭の生産を行い、馬の産地で良い馬が生産されていた。明治に入り産業は山林を利用した林業と、導入された酪農を主体とする農業であった。
茅葺き屋根の集落を見るために訪ねた。寄棟の茅葺き屋根の民家が多くあったが、多くがトタンで覆われていた。トタン覆いのない茅葺の家は、登録文化財の坂本家を除き殆どが無住の家で荒れるがままになっていたのが目につき、哀れな思いの探訪だった。

http://matinami.o.oo7.jp/hokkaidou-tohoku/singo-saigosi.html

五戸町天満


五戸町の中心部は奥羽山脈の東に発達した標高50~100m前後の台地の上に立地し、五戸川の中流域、八戸市街から西約15kmの所に位置する。
江戸期は盛岡藩領で、五戸通に属していた。
五戸村はほぼ現市街地が江戸期の町場で、上町と下町に分かれていた。上町は現在の下大町・上大町、下町は川原町である。
「慶安2年(1649)道筋帳」では、奥州街道が南の三戸から五戸を経て北上し七戸に続く。このように奥州街道の往還筋にあたっていたので、宿場としても栄えた。奥州街道は当初は南西の荒町から入り、上大町・下大町を経て川原町へと通じていたが、その後南の愛宕丁から入り、新丁・新町・下大町をへて川原町へ至った。
駅場は当初は川原町であったが、後には新町に置かれ旅客と物資の輸送で繁栄した。
盛岡(南部)藩最大の貿易港である野辺地と城下盛岡を繋ぐ場所に位置し、五戸通の物資の集散地として機能していた。
戦国時代からこの地を支配していた木村氏が、江戸初期からの五戸代官として当地に留まっていたが、延宝7年(1679)に盛岡に移住し、5戸村の五戸館には代官所が置かれ、五戸通36ヶ村を管轄するこの地域の政治の中心地であった。
町の中心街は江戸初期には下町(川原町)であって、高札場も設置され、2の日の三斎市が開催されていた。後期になると市は五戸川を隔てた上町(下大町・上大町)に移り、大町・新町には分限者の店舗が集中し繁栄を極めた。
「邦内郷村志」によると家数520とある。旅籠屋は江戸末期には6軒があった。
嘉永5年(1852)の吉田松陰の「東北遊日記」に「五戸地着の士は60名ばかり、おおむね録は甚だ微なり、村里に散在し、耕を以て生となす。……」とある。
今回の探訪で古くから繁栄していた、旧奥州街道沿い町を訪ねた。古い町並みとは言い難いが、僅かに伝統的な様式の家屋が点在している程度だった。

http://matinami.o.oo7.jp/hokkaidou-tohoku/gonohe-tenma.html

2020年3月12日木曜日

長野県の珍しい家紋

竜の爪


http://www.nihonkamon.com/nagano/chinmon_nagano.html

三本爪

龍の爪数にまつわる小話
中国はかつて東アジアの宗主国であり、周辺諸国に大きな影響を与えていました。

五本爪の龍が皇帝専用となった元・明・清の時代において朝鮮(韓国)や琉球(沖縄)など周辺諸国の王は中国への配慮から四本爪の龍しか使いませんでした。

ごく少数の韓国人は「韓国は四本爪の龍だが、日本のは三本爪なので格下である。」と言って優越感を抱いているとの話があります。

確かに日本には三本爪と四本爪の龍が混在しています。

しかし中国で五本爪の龍が確立された元・明・清の時代において、日本は元に攻められたり(元寇)、日本が朝鮮半島を侵略したり(文禄・慶長の役)して日本と中国は微妙な関係でした。民間の貿易交流はあっても政治や文化交流に関しては朝鮮半島の国のように属国化してなかったのです。

日本が中国から最も影響を受けたのは、王朝と緊密な交流をしていた隋や唐の時代であり、その当時の中国では三本爪の龍が基本でした。よって日本には遣隋使や遣唐使らによって伝わった昔の三本爪の龍が今でも残っていると考えた方が現実的です。

https://mitsutomi.jp/chinese-dragon-10638

龍は中国などの東アジア地域の古代神話で登場する神の化身であり瑞祥の象徴です。その歴史は紀元前5千年の中国仰韶文化まで遡り、1987年に河南省で数千年前の龍の像が発見されています。

中国の封建時代、龍は権力を表し皇帝の服飾品や器物にしばしば用いられました。龍の体は9つの動物からできており、角は鹿(しか)、耳は牛(うし)、頭は駱駝(らくだ)、目は兎(うさぎ)、鱗は鯉(こい)、爪は鷹(たか)、掌(たなごころ)は虎(とら)、腹は蜃(蛟:みずち)、項(うなじ)は蛇(へび)と言われています。

日本人は「りゅう」を龍または竜と書きますが、中国語では龙(発音:lóng)です。龙は龍を簡略化した文字(簡体字)であり、たいていの中国人は龍と書いても理解してくれます。一方、竜という字は、古代中国語であり現代の中国人は使いません。

繁体字が使われている台湾、香港、マカオや東南アジア諸国の華僑地域では、龙ではなく龍の字を使います。
龍と竜に違いはあるの?
日本語には「龍」と「竜」の二つの漢字がありますが、意味において違いはあるのでしょうか?

ネットで検索すると中国のりゅうが龍であり、西洋のりゅう(ドラゴン)は竜と書くという説明がありますが、根拠となる文献は見つかりませんでした。

広辞苑では「龍」は頭にかざりがあり、大きな口をあけ、からだをくねらせているへびの形を描いた象形文字。「竜」は、その省略形と解説されています。よって「龍」と「竜」は同じ生き物であると言う説が有力です。

ちなみに古代中国では雄のりゅうを「龍」、雌のりゅうを「竜」として分けていたとの話もあります。

龍とドラゴンの違いは?
中国の龍と似た生き物として、西洋にはドラゴンがいます。どちらも外見は似ていますが、ドラゴンと龍はまったく異なります。

西洋のドラゴンは、翼を持ち火を吐く悪魔の化身(モンスター)でありキリスト教では悪と罪の象徴です。

一方、中国の龍は、邪気を追い払い災害を避け、縁起の良い力をもった幸運をよぶ生き物であり、中国皇帝にとっては権威の象徴です。

ちなみに英語では、西洋のドラゴンと区別するため、中国の龍をチャイニーズドラゴン(Chinese dragon)と呼びます。

龍の爪(指)は何本あるの?
皆さんは龍の爪(指)は何本あるかご存知ですか?

龍の爪なんてどうでも良いと思うかもしれませんが、昔の中国人にとって爪の本数はとても重要な意味を持っていました。

実は古代の中国では龍の爪数について明確に定まってなく唐・宋の時代までは三本爪が基本でした。※前足が三本爪、後足が四本爪の場合もあります。

元代に入ると五本の爪をもち、頭に二本の角をはやした「五爪二角」だけが本当の龍であると定義されます。延祐(えんゆう)元年(1314年)には五爪二角の龍文が皇帝専用の文様となり、以降中国では皇帝以外の者が五本爪の龍を使用することが禁止されます。

明・清の時代になると爪の本数が所有者の地位を意味するようになり、階級によって三本爪、四本爪、五本爪を明確に分けるようになりました。

爪の本数と階級
前述のとおり明・清の時代になると爪の本数が所有者の地位を意味するようになり、三本爪、四本爪、五本爪が使われます。爪の本数が多いほど地位が高いとされます。

五本爪の龍
最高位の王を表していました。五本爪が使えるのは皇帝だけであり、もし他の人が間違えて使うと政治犯として罰せらました。

四本爪の龍
皇族を表しており、親王や地方の王だけが使うことが出来ました。ちなみに四本爪の龍を刺繍した礼服は蟒袍 mǎnɡ páo(大蛇の長衣)といい、皇帝が着る龍袍 lóng páo(龍の長衣)とは区別して呼んでいました。もし親王や地方の王が五本爪の龍袍を着ると、それは皇帝に反旗を翻したと解釈されました。

三本爪の龍
役人の礼服などで使われていました。

龍の爪数の決まりは、服飾以外の芸術品にも適用されています。現存する明・清時代の芸術作品はほとんどが四本爪の龍です。皇帝に捧げた五本爪の龍は非常に希少であり博物館などでしか見れません。

ちなみに皇帝の住居であった北京の紫禁城(故宮)の九龍壁の龍は五本爪です。しかし山西省大同市の皇族屋敷(大同大王府)の九龍壁の龍は四本爪であり階級をわきまえています。

https://mitsutomi.jp/chinese-dragon-10638

秦 河勝

秦氏6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島倭国へ渡来した渡来人集団で、そのルーツは始皇帝ともいう[3]。河勝は秦氏の族長的人物であったとされる。

弓月国出身の弓月君と一緒に渡来した部族の子孫の秦氏の一員といわれる。聖徳太子の側近として活躍した。また、弓月国を含む広い地域(中東中央アジア東アジア西部)で広く定着していた東方キリスト教(東方緒教会)の信徒で富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれる。四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、東方キリスト教思想の慈善事業制度(四箇院)の設置に関わった。
推古天皇11年(603年)聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、蜂岡寺を建てそれを安置した[4]。推古天皇18年(610年新羅の使節を迎える導者の任に土部菟と共に当る[5]。皇極天皇3年(644年駿河国富士川周辺で、大生部多を中心とした常世神を崇める集団(宗教)を追討している[6]
風姿花伝』第四に述べられている伝説によれば、摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦(現在の兵庫県赤穂市坂越)へ漂着した後、大避大明神となったとされている。そのため、兵庫県赤穂市坂越で没したとする説がある。坂越・大避神社はこの大避大明神を主祭神とし、神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓がある。同じく赤穂市有年(うね)にも大避神社があるがこれは坂越の分家である。