2014年11月5日水曜日


2)鎌倉時代の塩田平と比企能員・北条重時との関係
 元暦2(1185)3月、平家が壇の浦で滅亡した。翌年正月、塩田庄の地頭に惟宗忠久(薩摩島津氏の祖)を任じた。惟宗氏は、平安末期に近衛家に仕え、忠久の父広言(ひろこと)が近衛家領島津荘の下司となり、初めて島津氏を称した。忠久は幕府創建の頃から頼朝に近侍し、その忠を賞され、薩摩・日向・大隈3ヶ国に亘る広大な島津荘の荘官に任じられと共に、その惣地頭として強大な勢力を保持した。一定地域の地頭を統轄する惣地頭とは、領地を分割相続した鎌倉時代、小地頭の庶子たちを統率する一族の嫡流を継ぐ者を称した。
  島津忠久は頼朝の庶子とも伝えられている。 頼朝は朝廷の実力者丹後局と深く交際していた。忠久は丹後局の子とも言われた。忠久も初めは惟宗忠久を称し近衛家に仕えていたが、頼朝やその側近比企能員の信頼を得ると、島津忠久と名乗り鎌倉幕府初期、種々の要務に携わった。
 頼朝が平家を壇ノ浦で滅亡させ、元歴2(1185)年11月、「地頭守護」の設置権を握った。その2か月後、腹心の忠久を塩田庄の地頭に補任した。その時の補任状が今も残る。頼朝の宿敵義仲が依田城を本拠とし、依田窪塩田平を有力な勢力基盤としていたため、忠久に義仲の残存勢力の一掃に当たらせた。こうした経緯から頼朝が没してからも、北条氏は塩田庄を重視し信濃国守護所を当地に置いた。小県郡塩田は現上田市の南西に位置する数k四方の盆地であるが、近世上田領に属し「塩田3万石」といわれ上田藩の穀倉地帯であった。古来、その北辺を東山道が通る要路であり、政治的にも経済的にも重要な位置を東信濃において占めていた。
 八田知家は下野宇都宮氏の2代当主宇都宮宗綱(八田宗綱)の4男であるが、異説として父は源義朝ともいわれている。源氏とは深い縁故で繋がる知家の子茂木知基が、将軍実朝の時代、依田庄の地頭職に補任している。
 信濃の最初の守護職は、比企能員であった。能員は頼朝の乳母の養子であり、その妹は、頼朝の嫡子頼家の乳母、その娘は頼家の室となり、長子一幡を産む。頼朝との深い縁は、能員を御家人筆頭の一人とした。頼朝が政権を握ると、越前・加賀・能登・越中・越後の北陸道と信濃・上野の東山道の守護人となっていた。
 頼朝が没したのは建久10(1199)年1月13日であった。享年53。長子頼家が継いだが18才であった。幕府は宿老会議を組織し、若い頼家に頼朝のような独裁権を与えないよう仕組んだ。その構成員は、北条時政・同義時・大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政の13人で、以後その重臣合議制で訴訟などの採決が下された。頼家は親裁権を奪われ、対抗上、5人の昵近衆(じつきんしゅう)を側役として置いた。そのうち4人、小笠原弥太郎(長経)比企三郎(宗朝)同四郎(宗員)中野五郎(能成)が信濃国と関係が濃い。小笠原弥太郎は甲斐から信濃にかけて勢力を扶植してきた佐久伴野庄の地頭小笠原長清の長男であり、比企三郎(宗朝)、同四郎(宗員)は、信濃守護能員の子である。中野五郎(能成)は信濃国中野を名字の地とする北信地方の雄族であった。こうした経過が頼家の没後、「泉親衡の乱」となり、その結果が「和田合戦」を誘発し、最終的に北条氏の地位を盤石にさせた。
 比企能員の娘若狭局との間に一幡が生まれ、比企氏が将軍外戚の地位に立ったため、時政がこれを警戒した。建仁3(1203)年8月、頼家 が急病となり危篤に陥ると、時政は頼家の跡目として、一幡が将軍職と関東28か国を相続し、頼朝の第2子千幡(実朝)には諸国惣地頭職を分与するとした。 比企一族は憤懣激昂したが、その年の9月、比企能員は北条時政に先手をうたれ、一幡の屋敷にいるところを急襲され、一幡と共に主な一族は殲滅された。この ことを知った頼家は和田義盛・仁田忠常に時政追討を命じた。しかし義盛はこれを時政に密告し、忠常は時政によって誅殺された。頼家は危篤状態を奇跡的に脱 したが、孤立した頼家は出家落飾を強いられ、同月29日に伊豆修禅寺(静岡県田方郡修善寺町)に幽閉された。翌元久元(1204)年7月18日、北条時政の討手により殺された。
 比企氏が建仁3(1203)年、北条氏により一族が誅伐されと北条義時が守護職となる。以降、義時の子、極楽寺流の重時、その孫(赤橋)義宗、その子・久時と相伝される。貞応3(1224)年6月13日、義時が享年62で急病死し、六波羅にいた長兄泰時が鎌倉執権に迎えられ、第3子駿河守重時が信濃守護となった。重時はその後も若狭・和泉・讃岐といくつかの守護職を兼務するが、連署を退く建長8(1256)年まで、32年間信濃守護であった。
 塩田地方の南に聳える独鋸山(とっこさん)の北斜面には延喜式内塩野神社、中禅寺薬師堂、前山寺(ぜんさんじ)三重塔などの中世の文化財が集中している、その中央に塩田城跡が ある。今でも中世前期の広大な城郭址と町割り遺構が残存していた。上町(かみちょう)・下町(しもちょう)・立町(たつまち)・市町・下城戸(しもき ど)・道場・談議所など特異な字名が中世の城下集落の証となっている。独鋸山の北斜面からは広闊な塩野平を一望し、山頂からは善光寺平が望める。その地に 北条氏祈願寺の前山寺と、北条氏菩提寺竜光院を左右の要とし、信濃守護所を構えた。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/murakami3/mu3.htm

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