2014年11月6日木曜日


ソニーの創始者・井深大氏の祖先は岡田冠者親義・の話
井深大氏の出自については、会津松平藩の九家老の一つ井深家であることは、会津 地方や高遠地方の地方史家ならずとも割と知られている事柄のようである。これは、歴史に興味があるないに拘わらず、天下のソニーを一代にして築き上げた井 深氏への興味として知られるようになった経緯があるし、井深氏本人が語るところにも拠る。その部分をを再確認すると
・・・ 室町時代初期の大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁=御庁)において、もっぱら政務 に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。大塔合戦敗戦後は小笠原氏の本拠である現在の松本市近くの岡田伊深にある伊深城山を拠点として戦国時代を むかえた。武田信玄の信濃侵攻により主家の小笠原氏が出奔したため武田氏に従属した。・・井深家は会津九家と称された藩内の名門である。戦国時代末期、井 深茂右衛門重吉は武田勝頼の人質となっていた保科正光の救出に功を挙げるなど、保科家の重臣であった。その子茂右衛門重光は保科正之の家老となり、正之の 埋葬の際は祭式に加わっている。重光の男子3人が分家し、幕末には7家に分かれ、井深本家は当主・茂右衛門重常が家禄1,000石で若年寄を務めた。・・ 重光の次男・三郎左衛門重喬家の幕末の当主は日新館の武講頭取であった井深数馬(200石)で、次男・虎之助は石山家の養子となり、白虎隊士として自刃。 長男の井深基は愛知県西加茂郡や碧海郡の郡長などを務め、孫に井深大がいる。・・・


ここでも、岡田冠者義親と井深氏との関係は見えてこない。
も う一つ、「主家の小笠原氏が出奔したため武田氏に従属した」とあるが、保科氏との関係も不鮮明です。その部分を、少し掘り下げて調べて見ると・・・小笠原 長時の敗北により府中を手に入れた武田信玄は、林城ではなく、深志城を安曇・筑摩郡の支配拠点とし、城の改修を行います。松本城にみられる丸馬出しや枡形 などの施設は武田氏の築城技術に拠るものと言われ、山城に比べて防御性の低い平城を守るための巧みな施設として設けられたものです。この時に深志城改築に 指名されたのは工藤祐長でした。以後の記述は、推測にもとずく私見であり、証左は状況による証拠のみになります。この深志城改築には、信濃の情勢と府中の 情勢を知る信頼できる”知恵もの”が必要になります。協力者は、保科正俊であり、長時の家臣であった井深茂右衛門重吉であったのではないかと思われます。 工藤祐長は深志城改築後に直ぐに内藤昌豊と名を改めます。そして、これも直ぐに、保科正俊の次男を内藤家の養子に迎えます。この三者には、強い信頼関係が 見て取れますが、武田軍の中での顔見知りや地縁血縁程度では強い信頼は生まれず、一つの仕事をともに遂行する過程で信頼関係は生まれるものでは無いか思い ます。以後に見える武田勝賴に対する評価は、内藤昌豊と保科正俊は、かなり類似するところが彼等の行動から見て取れます。以上私見ですが。・・・ここで、 井深家と保科家は繋がったのではないかと思います。そして、正俊、正直、正光、正之と過ぎ、正之が将軍家光の弟と判明し、最上藩を経て会津藩へ移封とな り、井深家は重臣として随行し、歴代の保科・松平藩の家老として仕えたのだろうと思います。

伊深城・井深家・・・
 


[出典]
http://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/m/201402/1

0 件のコメント:

コメントを投稿