2014年11月5日水曜日


九)鎌倉幕府滅亡と中先代の乱
 後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐は、その有力御家人・足利高氏が裏切り、元弘3(1333)年5月8日、六波羅探題を壊滅させたことにより、討幕軍が圧倒的に優勢となり、新田義貞が稲村ヶ崎から鎌倉への侵攻に成功し、5月22日、北条高氏以下一族が東勝寺で自刃し て終局を迎える。その際、諏訪真性盛経ら多くの諏訪一族が、高時に殉じて自刃している。諏訪真性は、幕府奉行人の諏訪左衛門入道時光の兄であったが、時光 は志賀郷を所領していた。時光の養子円忠は実務官僚としての手腕が認められ、建武政府の役人となり足利尊氏に仕えた。尊氏は円忠を重用し右筆方衆とした が、のちに評定衆・引付衆等の幕府の要職に就かせる。ついには暦応元(1338)年守護奉行として重用し、全国の守護を監督、遷転する任務に当たらせた。
 鎌倉幕府創立140年後に倒壊し、建武新政となる。その際、北条高時の弟泰家が亀寿丸を諏訪左馬介入道の子三郎盛高に託したのは、北条得宗家に、長きに 亘り献身的に仕える側近的御内人であったからだ。その上、信濃の大荘園の多くを北条氏一族が地頭を務め、信濃在住の諸族がその地頭代として、或いは荘園の 地頭として恩恵を受けていたからでもあった。諏訪上社を中心とした諏訪氏には、大きな打撃となったが、それでもその影響下にあった滋野系諸氏や薩摩氏同 様、隠然たる影響力を維持していた。盛高は亀寿丸を伴い信濃へ逃れ諏訪上社大祝時継を頼った。
 鎌倉時代、諏訪氏の中には「神(しん、みわ)」氏を名乗るような者も現れた。諏訪神社の信仰が高まるにつれ、神氏として諏訪氏を特別視す るようになってくると、諏訪氏の傍系や縁故のある武士団氏族も神氏を名乗るようになり、諏訪氏を中心に信州における北条氏与党「神党」として結束し一大勢 力となった。それは諏訪氏が北条得宗家の枢要な御内人として、鎌倉幕府の重職を担うようになった事にもよる。「神党」は北条得宗家系に属する一族が、所領 を持つ地域に広く分布している。特に歴史的経過もあって諏訪郡と上伊那郡に多く、佐久、小県地方の「神党」の中核が滋野一族の祢津・海野・望月の諸氏で あった。
 北条氏に代わり小笠原貞宗が信濃守護として入ってきたのが建武2(1335)年であった。小笠原氏は甲斐の小笠原(山梨県櫛形町)を本拠にする源氏で あった。その嫡流は鎌倉に館を構える「鎌倉中」の有力御家人であった。ただ鎌倉末期には、北条得宗家の被官、いわゆる「御内人」でもあった。しかし、北条 氏は平氏の末流であり、小笠原氏は、新田氏、足利氏同様、源氏であったため、裏切りに抵抗はなかったようだ。まして小笠原宗長・貞宗は、諏訪氏と違い譜代の御内人ではないので、北条氏を見限るのも早く、足利高氏に従い戦功を挙げた。それで信濃守護に補任された。
 しかし信濃国内には、北条御内人の最有力者・諏訪氏をはじめ、北条守護領下、守護代、地頭、地頭代として多くの利権を有する氏族がいた。そこに北条氏を 裏切った小笠原貞宗が、守護として侵入し、旧北条氏領を独占し、それに依存する勢力を駆逐していった。信濃国人衆旧勢力は、新政権を排除し自己の所領の保 全・回復をめぐって熾烈な戦いをせざるを得なかった。その北条氏残党の中核にいたのが諏訪氏であった。北条得宗家の重鎮でもあったため、信濃国人衆は諏訪 氏を盟主として、「神(しん;みわ)」氏を称し、「神家党」として結束していた。それが建武2年7月に起きた中先代の乱であった。北条時行は諏訪上社大祝時継とその父頼重(諏訪三郎入道照雲)の後援を得て、建武2年7月、小県や佐久の滋野氏一族と更埴の神氏一統や保科、四宮らの神党を中核軍として蜂起した。その乱以後の争闘が、後醍醐天皇の建武の新政を瓦解させた。
 当時の信濃国司は、建武2年6月に赴任した書博士清原真人で、建武新政府から守護に対して軍事権まで与えられていたが、学究の家系であれば、実効的に活動する能力も無く、動乱期でもあれば脆く北条軍武士団に殺害された。これに呼応して北信の北条氏残党と保科、四宮らの神党は、更埴郡の船山(現千曲市小船山)の守護所を攻めた。船山郷は第13代執権であった信濃守護北条基時が領有し、佐久郡志賀郷地頭諏訪時光が一部地頭職にあった。信濃守護小笠原貞宗は事変を京都へ通報すると、直ちに市河助房村上信貞らを率いて戦った。
 7月の市河助房の着到状には「諏訪祝滋野一族謀反を企てるに依り」とあるから、滋野一族は北条時行挙兵に際し、諏訪大祝神党の最有力武士団であった事が知られる。
 時行軍は信濃で北条軍の再結成をすることなく7月18日には関東へ目指した。この性急な進軍が功を奏し、上野・武蔵・相模・伊豆・甲斐などの北条氏所縁の武士団が一斉に蜂起し鎌倉包囲の体制を築き、関東を鎮護する足利直義を孤立させることに成功し、7月25日には、北条時行は終に鎌倉を制圧した。この間滋野一族は、東征軍に参加せず、信濃国内の北条与党と連携し佐久を中心に時行軍の背後を守り、信濃守護小笠原貞宗軍を牽制した。
 信濃では、小笠原貞宗が市河・村上らの信濃国人衆を率い7月14日八幡河原、篠井四宮河原、15日再度八幡河原と福井河原(戸倉市)、そして村上河原で 北条軍に勝利した。四宮・保科・東条らは神党、塩田は塩田北条で信濃北条の中心であった。坂木・浦野は信濃薩摩氏の本拠であった。北信地帯は北条の強固な 勢力圏であり、その勢力保科・四宮は小笠原信濃守護貞宗軍を突破して小県と佐久の滋野一族と合流しようとしたが、千曲川で小笠原軍に阻まれた。しかし、こ の一連の戦いで北条時行は一度も、背後の勢力に脅かされずに、鎌倉に進軍ができたのは明らかであった。
 市河倫房とその子息助保の着到状には「8月1日、望月城に押し寄せ合戦致し、城郭を破却せしむるの条、小笠原次郎太郎同大将として破る所見知らせる也」 とある。小笠原信濃守護貞宗の叔父経氏は、市河倫房率い千曲川を遡り、佐久郡の望月城を攻め8月1日には落城させ、城砦を破却した。以後、望月は南朝宗良 親王軍に従ったという史料も残らない。望月城落城の戦いは、望月氏の死命を制したようだ。
 『吾妻鏡』には薩摩七郎左衛門尉祐能・同十郎左衛門尉祐広・同八郎祐氏の名が、幕府弓始めの射手・随兵・鎌倉番衆や供奉人の列に見られる。建武2年10 月の市河倫房とその子助保の着到状によれば、8月1日望月城破却後の9月3日、小笠原信濃守護貞宗の支配下となり、安曇・筑摩・諏訪・有坂(小県郡長久保 の北)を攻めている。この時大井荘長土呂を攻めている記録はない。だが有坂氏の本貫地は小県郡長和町町役場北2kmの有坂にあり、堅固な山城があった。城 主有坂左衛門五郎は、伴野荘内の諏訪大社神田の一部を領有している。しかも大井荘長土呂郷地頭薩摩五郎左衛門尉親宗と同一人物である。親宗の父は坂木北条城主薩摩刑部左衛門入道であり、建武元年3月、その親と交代で奥州鎮守府の侍所へ出仕している。中先代北条時行挙兵に際し、信濃の北条与党として起ったかどうかは史料上確認できない。この頃、鎌倉に時行がいた。その背後を狙い、陸奥守北畠顕家率いる奥州府の軍勢が進軍の準備をしていた。奥州鎮守府の侍所の要職にあった薩摩親宗が、奥州府の軍中にあったかは不明であるが、その後の薩摩氏の推移を知れば、北条時行に殉じたと見られる。
 市河倫房らは有坂城を落城させ破却している。9月22日には、薩摩刑部左衛門入道が立て籠もる坂木北条城を陥落させている。同月30日、新たに着任する 信濃国司堀川光継を、信濃守護小笠原貞宗と共に浅間温泉で出迎えた。しかし以後、信濃の有坂氏と薩摩氏は四散している。薩摩親宗は、母方の縁を頼り伴野氏 に仕え、有坂五郎と称し穴原(八千穂村)蟻城狼煙(のろし)台にいた。正平7(1352)年、伴野十郎の家臣として宗良親王軍にあり、武蔵野合戦に参加し 笛吹峠(埼玉県嵐山町)で敗退し、小海郷軽井沢に隠棲したという。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/saku2/sa2.htm

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