2014年11月26日水曜日


大和政権に組みこまれた会津



      大化の改新以前、7世紀末ごろには陸奥国が設けられて会津郡もその構成に入った。645年の大化の改新によって、東北地方は陸奥(「むつ」の国、7世紀末には「みちのく」の国)として正式に大和朝廷の領土に組み入れられた。会津は、国家の要請に応じて西国には防人(さきもり)、都へは衛士(えじ)を、あるいはその他の労役に人々を送り出した。それらの人々の残した歌が万葉集などに残されている。



      この時代以降、会津という地名は、日本の行政区画として、政治・軍事地理の中での一つの単位としてまとまり、その意義を失うことなく絶えず現れることとなる。大化の改新の法令に従って、会津盆地においては、農地の班田収受制度が実現された。これは会津若松市門田町の東中沢の二箇所において条里制遺構が発見されたことで確かめられている。したがって、国家の規定どおりの班田収受制度(農地は国有とし、国民一人当り一定の田畑を与え、その死後国がその土地を回収する制度。685年に定められ、戸籍の整備とともに実施された)が、少なくとも若松周辺では行われたことが確実になる。

 

   国家の宗教的な中心としては、会津郡では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冊尊(いさらぎのみこと)を祀った伊佐須美(いさすみ)神社と、蚕養国(こがい)神社(嵯峨天皇弘仁2年(811年)。糸、綿、絹等を生業とする人々の崇敬が高い)があり、耶麻郡には磐梯神(いわはし)神社(祭神は大山津見命、宇迦魂命、木花咲夜姫命)がつくられた。大同元年(806)磐梯山が大噴火を起こしたので、この山を鎮めるため勅命により空海が八方位に祀った社の一つで、天地を鎮護するものとされた。大同5年ごろの初期には磐梯神が上格だったが、「延喜式」においては伊佐須美神社が名神大社となって、会津一の座を占めている。



   磐梯(いわはし)神社の座を伊佐須美神が占めた後、会津の地に仏教の伝道がはじまった。激しい論争の中で仏教界の主導権を握ったのは、恵日寺を興した徳一である。彼は南都仏教の都市化を嫌い、山岳仏教に逃れた民間僧であり、磐梯山のふもとに恵日寺を開いた。粗衣粗食に徹したが、学徳の誉れ高く、生き菩薩として庶民にあがめられた。この寺では、磐梯山を正面に据え、磐梯神社が恵日寺の奥の院であるような配置が選ばれた。徳一は空海を会津諸寺の開祖として扱い、その2番目の祖として、真言宗を会津に定着させたという位置に自分を置いた。空海は彼に友好的な態度をとった。恵日寺は寺僧300人、僧兵数千人、寺領18万石となり、会津四郡(会津、耶麻、小沼、河沼)を支配下に置いたといわれる。しかし、天正7年(1589年)の伊達政宗侵入の際にこれに抵抗し、焼かれてしまった。

   恵日寺にかわって、会津中央薬師の正座についたのは、湯川村の勝常寺本尊薬師如来である。勝常寺は創建当時は七堂伽藍を誇っていたが、現在は薬師堂が保存されており、その横にコンクリ作りの保管庫に仏像12体が保管されていて、参観可能である。これらの仏像は、会津各地の諸寺の仏像に大きな影響を与えた。



[出典]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dewaruss/aizu_histroy.htm


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