2016年3月18日金曜日

井深宅右衛門



文政13年(1830)~明治30年(1897)
 会津藩士井深清太夫家7代。藩の学校奉行を務め、家禄は550石。文武に秀でて博学多識、特に漢籍に深い造詣を持つ。また会津怡渓派の茶道の皆伝書を受けている。
 妻の八代子は西郷頼母近悳の妹、長男は井深梶之助。

 物頭、組頭、町奉行を歴任して、文久2年(1862)江戸常詰の聞番となる。翌年、軍事奉行仮役として京都に上り、慶応2年(1866)学校奉行に転じて会津に帰った。
 戊辰の役には第2遊撃隊の隊頭として越後方面に出陣し、後任を相澤平右衛門に譲るまで、小出をはじめとした越後戦線各地で戦闘を行なっている。
 その後、用人として藩主父子に付き添って籠城戦を戦い、開城後は滝沢村に謹慎、喜徳が東京の有馬邸に移された際にもこれに従い、明治3年に至って赦免さ れた。この間、萱野権兵衛切腹の日の朝、手元の竹の火箸を取り一刀流溝口派の奥義を伝授した相手が、この宅右衛門であった。
 同年10月、家族と共に斗南へ移住したが、同6年に若松に帰り、小学校の教員をつとめたあと、大沼郡書記、南会津郡書記、田島村組戸長などを歴任している。

 晩年は東京に移っていたらしく、墓は青山霊園にある。


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