2016年3月18日金曜日

会津門田町

頼朝の東北征服

      このような、律令国家(大和国家のこと)の北方進出にとって、7世紀に会津を手に入れたことが大きな役割を演じた事は容易に理解できる。この会津の政治地理的役割は、歴代の武家によっても重視され、そして彼らによって利用されている。

      11世紀には「前9年の役」を源頼義が挑発して北方に侵入した。俘囚(服属した蝦夷)の阿部氏を征服しようと試み、長期の苦戦のあと、ようやく俘囚の長で ある清原武則の参戦を得てこれを破った。それに続く「後3年の役」においては源義家が陸奥の守として赴任したが、源氏は依然として東北の覇権を獲得するこ とは出来なかった、この騒乱を経て、蝦夷の勢力はより発展し、東北の一円支配を確立した藤原氏は高度な平泉文化を築き上げた。藤原氏は事実上「独立国家」 を作り上げ、源氏と平家に対して中立的態度をとり、両者の闘争の圏外に立とうとした。
      1185年に頼朝に追われた義経が平泉の秀衡の庇護の下に逃げ込んだが、そのことを絶好の口実として、頼朝はまたもや奥州に攻め込んだ。凡庸な泰衡の指揮 により藤原家は壊滅し、東北地方は頼朝のものとなった。1192年頼朝は征夷大将軍となり、ようやく東北に対する支配体制を確立した。

秀吉と会津

      そして、鎌倉幕府の滅亡、建武の中興、室町幕府、応仁の乱、戦国の乱世、織田信長の台頭、豊臣秀吉による全国の統一というふうに歴史は続いていくが、この 経過は広く知られている通りである。豊臣秀吉の全国統一の基礎は、刀狩による完全な兵農分離、検地による全国の大名石高の明確化、その上に立つ大名知行制 度の有効さの確保であった。秀吉の朝鮮遠征は、もはや大名たちに与えるべき土地の余裕がなくなったことが背景になっていた。秀吉は、反抗する大名を個別に 降伏させて、かれらに忠誠を誓わせる以外のことは出来なかった。九州の島津氏を討って忠誠を誓わせた後も、秀吉にとって不安が残っていたのは、小田原の北 条氏、そして勝手に芦名氏を壊滅させて黒川城に入り、東北のパワーバランスをその手に握って東北の最有力者として振舞っていた伊達正宗であった。秀吉は自 ら小田原を囲んで北条氏を降伏させ、さらに唯一残っていた奥州に向かった。
      ここで会津の問題が、崇神天皇の四道将軍の派遣以来始めて、ふたたび問題になった。今回の東北仕切りにおいては、秀吉は、刀狩り、検地をあらかじめ充分に 行うことを命じた。そして正宗の罪を処断する為、会津、岩瀬、安積を没収し、本領に加えて二本松、安達郡などを安堵することを決定した。徹底的な奥羽仕置 を終えた秀吉は、三日後に京に向かった。

      京にもどった秀吉は、会津の地を蒲生氏郷に与えると事とした。会津は、関東、奥州、北陸の要に当たるところから、この地を最も信頼の置ける武将に託したのである。

      蒲生氏郷による会津引き受け後、すぐに現在の宮城県で一揆が発生するなど、いろいろなことがあったが、ここではひとまず、会津の重要性について、すでに家康が天下を取った時点の観点から検討することにする。

幕府守護のための会津藩

      会津藩の最も際立った特徴は、外様大名の多い奥羽地方をにらんだ、幕府の防衛拠点であったということである。江戸から100-200キロの範囲で、幕府に 忠誠な親藩と譜代による防壁が張り巡らされた。この幕府の布陣において重要な役割が与えられたのは、まず水戸藩、白川藩、会津藩などである。地図を見れ ば、扇の要に座って精神的にこれらを督戦するような形で日光の東照宮がこれをバックアップしていることがわかる。これに対応して、勿来関、白川関、念珠関 (現山形県)の「東北三関」が置かれていた。中でも、下野(しもつけ)街道によって日光に直接通じており、阿賀川によって日本海の北前船交易の重要拠点で ある新潟と結ばれていた会津藩は、最も精強な、かつ機動的な戦闘集団、打撃部隊とも防衛部隊となる役割を負わされていた。昨年のNHK大河ドラマ「新撰 組」を見た読者は、幕府の崩壊局面において京都所司代を引き受けさせられた会津藩主松平容保に率いられる会津藩の役割が、煎じ詰めれば、ほかならぬ幕末の 西南雄藩の討幕運動に対抗して組織された浪士集団の新撰組に課せられた役割と同じであることが理解できたであろう。幕府親藩第一線の会津藩は、この役割 を、新撰組などよりはるかに以前から長期間、大規模に遂行してきたが、戊辰(ぼしん)戦争における敗北によって、悲劇的な終末をむかえたのであった。

会津藩成立以前の会津の地

      戦国期に、会津の地は、はじめは、平安期に三浦半島で勢力を伸ばし、文治奥州合戦の功で源頼朝からこの地を賜ったといわれる芦名氏が支配していた。芦名氏 は既に南北朝時代から会津の地で活躍していたといわれる。現在も三浦半島には芦名という地名の海岸がある。筆者は昔すこしばかりこの暖かい芦名の湾でヨッ トを楽しんだ経験がある。なお付け加えれば、当初の三浦半島の主ともいうべき豪族は三浦氏であるが、芦名氏はこの三浦一族の出である。芦名氏は16世紀後 半には、東北で伊達氏に匹敵する力を有していたが、1589年に伊達政宗が摺上原の合戦で芦名氏を破り、会津地域を占領した。これで伊達氏は関東地方をう かがう勢いを示すことができるようになった。
      東北の勢力均衡が破れたことを憂慮した秀吉の奥州仕置により、伊達氏は追い出され、蒲生氏郷が1590年に90万石の領主となり黒川城に入った。この城 は、会津盆地を南から北に流れる阿賀川(当時は黒川と呼ばれた)と東山温泉から流れ出る湯川にはさまれた地点を占める要衝である。

ついでながら、 現在の阿賀川は、那須岳の西、日光の北の会津高原に源を発し、会津盆地の南端から北に流れ、猪苗代湖から流れ出る日橋川(にっぱしがわ)をあわせて盆地の 北端にいたる。ここで只見川と合流して非常に大きな流れになる。尾瀬を水源とする只見川は豊富な水量で有名であり、戦後米国のTVA(テネシー川流域開発 計画)に範をとった20件ちかいの発電所と水利施設を持つ日本最初の大型発電カスケードとなっている。。阿賀川は只見川とのは合流点から西に向かい、福島 県から新潟県内に入る。そして、阿賀野川と名称を変えて新潟県を横断して西に流れ、新潟市で日本海に入る。湯川は後世における改修により、現在では若松市 街で湯川放水路で流れの主要部分を阿賀川に導いている為、本来の流れは小さな川となって、湯川村へ流れて、そこでせしらぎ川に合流して阿賀川へ入る。なお湯川村は、現在は会津米の中心的な産地で、全村ほとんどが水田である。但し、すぐ近くにある猪苗代湖は、すべて東京電力が水利権を有している。非常に美しい景観を有するこれら会津の水系は、観光開発の点から言えば、ほとんど未開拓に近い。

      黒川の地は15世紀後半から芦名氏の所領として発展してきたが、氏郷はさらに7層の天守閣を持つ城郭と市街を整備し、この地を自分の生地にちなんで若松と名付けた。

      この会津若松の地が、安定した幕府の防衛拠点になるには、家康による天下掌握以後も、かなりの変遷を経なければならなかった。
      蒲生氏郷の死後、その子秀行は、1598年秀吉により下野(しもつけ)の宇都宮に18万石で移された。会津の地には、秀吉の任命により上杉氏が120万石 をもって越後春日山からここに移り、会津若松城主となった。これは、上杉景勝が秀吉の命により越後を統一し、続いて秀吉の小田原征伐に参加し、続いて出羽 検地、奥羽一揆鎮圧、朝鮮遠征参加など、秀吉に尽くした功績の対する褒賞であると共に、秀吉が自分の死後の豊臣家の覇権が家康に奪われることを憂慮した、 彼のパワーゲームであった。
      果たせるかな、慶長3年(1598年)秀吉が死ぬと、大名間の緊張は爆発し、秀吉の遺書に書かれた政治体制、すなわち家康を筆頭とする五大老による秀頼後 見と、石田三成ら五奉行による政務執行という二本立ての仕組みはもろくも破産した。1599年正月19日この両グループの対立が激しさを加えるなか、家康 は伏見城本丸に入り、天下を一人で支配する意思を表示した。他の4大老はそれぞれに帰国し、事実上家康だけが大坂城に残っ た。                                                      
      帰国した上杉景勝は、秀吉のあと天下を握るために画策していた家康との衝突を不可避と見て、これに対する防備の為に、会津若松の近く、阿賀川と湯川の中間地点である神指(こうざし)に有利な場所を選び(現在の会津若松市神指町高瀬)、慶長5年(1600年)より新しい城(神指城)の築城工事を開始した。
      上杉謀反の報を受けた家康は、書面による釈明、上洛を要求したが、上杉側は釈明も上洛も拒否した。
      家康は直ちに上杉討伐を宣言し、慶長5年7月21日江戸城を出発した。しかし、7月17日に上方では石田三成が挙兵し、戦乱が始まった。
      家康は上杉討伐を中止し8月5日小山から江戸に帰り、9月1日に江戸を発って西に向かった。
      この慶長5年(1600年)9月15日関が原において決定的な会戦が行われ、午後2時頃には勝敗が決し、東軍の勝利に終わった。
      家康は9月27日大坂城に入り、天下を掌握した大勝利を固める為の戦後処理を行った。その中心は諸大名の移封による論功行賞と、徳川支配体制の確立であっ た。家康は、大名たちを支配する為に必要な土地を朝鮮などに求めるようなことはせず、最終的には鎖国体制による国内の安定、すなわち厳格な封土割当と、敵 意や失策を見せた大名からの容赦ない土地取り上げ、減封や転封による支配でもって大名たちの締め付けをはかる方向によることとした。後に、会津藩などは、 この体制の「番人」の役目を割り当てられることになる。これは、大航海時代も最終段階にあって、オランダ、フランスが17世紀に入ってすぐ1602年と 1604年にそれぞれ「東インド会社」を設立したという時期における世界の情勢との関係という観点から見れば、きわめて保守的、反動的な支配方法であっ た。そしてこれが、幕府と、その忠実な「番犬」役をつとめた会津藩その他の徳川親藩の運命を決することとなる。とりわけ歴史は会津藩に厳しい運命を振り当 てたことになる。

      翌年(慶長6年8月16日)上杉景勝は伏見城において家康と会見し謝罪した。その結果、上杉は会津の地を取り上げられ、米沢30万石に減封、転封された。

      この神指城跡は、1991年より数次の発掘調査が行なわれ、確認されている。
    調査の詳細は、下記をクリックすれば立派な報告書と写真に接することが出来る。

      他方、蒲生秀行は関が原で功績を立てたために、それを評価されてふたたび若松に戻った。しかし男子が生まれなかったため、蒲生氏は断絶した。
      そのあと1627年加藤嘉明が伊予松山から40万石でここに入封した。しかしその子明成のとき、城の改修による年貢増徴、寛永の大飢饉による農民の逃散などから「お家騒動」が起こり、加藤氏は領地返上を願い出て改易となった。

徳川親藩としての会津藩の成立

      1643年に徳川家光の異母弟である保科正之が、北方最重要の前線を固めるべく最上からこの地に転封されて、本領23万石(ほかに幕府領地の南山預かり地5万5千石)にて家門親藩の会津藩が成立した。(預かり地の石高は幕府の都合で年により変動した)。

      保科正之は徳川秀忠の三男であり、母は秀忠の乳母の侍女お静であった。秀忠は恐妻家で知られ、正妻達子(織田信秀の娘・お市)に知られることを恐れ、生ま れた正之(幼名幸松)は春日局を通じて、秀忠の乳母の友人見性院に預けられ、秘密で育てられた。7歳のとき信州高遠藩主保科正光がこれを預かって養子とい う名目で育てた。1631年このことを知った家光により見出され、高遠藩3万石の藩主となった。
      秀忠の死後家光は異母弟を大切に扱い、1636年山形藩20万石を彼に与え、1643年に会津藩の藩主とした。慶安4年(1651年)家光は死に臨み、正 之に「徳川本家をよろしく頼む」と言い遺した。これに感激した正之は1668年(寛文8年)「会津家訓15箇条」を定め、幕府を守ることを誓ったのであ る。

      このエピソードは講談、浪曲などを通じて広く市井に伝えられている。最近は、「家康の息子浮気で会津生み」などという川柳が若い人達から出るほどである。 本来大名というのは側室を抱えて、男子系統を絶やさないようにしていたのだから、どこでも「浮気」で藩が保ったということが出来る。ところが、会津では、 天下の大藩がこの「浮気」により生まれて、幕府守護の大命題を200年以上も追求し続け、天下の大乱のなかで悲惨な崩壊をとげた、というのであるから尋常 ではない。
      保科家は1695年(元禄8年)に松平の姓と葵の紋が許されて、最も重要な幕府親藩の地位を与えられた。これは、会津藩から「嫡出子でない徳川傍系の藩 主」という外部からの目と藩内の劣等意識を拭い去るものであったに違いない。家康のなし遂げた事業を完全にシステム化して強固な権力を打ち立て、「余は生 まれながらの将軍である」と大名たちに豪語した家光の直系の弟であることが天下に示され、会津藩の意識と士気をますます高揚させるものであったにちがいな い。しかし、「大藩」とはいえ、歴史を振り返るとき、このような「誇り」と「体裁」を維持するのは、藩にとって、そして藩士にとって、非常に高価なものに ついたと言えるだろう。

会津藩家訓と、藩士たちの実際の生活

ここで、保科正之のさだめた、藩の憲法とも言うべき、会津藩家訓とはどんなものであったかを見てみよう。

全15条の第一条で「大君の儀、一身大切に忠勤に励 み、他国の令をもって自ら処すべからず、もし二心を抱かばわが子孫にあらず。面々決して従うべからず」と書かれている。その内容を現代風に言えば、藩の基 本的戦略方向を述べたものであるが、ここでは大君(徳川将軍)への忠勤を、藩主保科正之の子孫、すなわち自分の後を継ぐ歴代会津藩主の義務という形で示し ている。
藩士の義務は、第4条の「主を重んじ、法を畏るべし」 というところで明文化されている。それに先立つ三つの条は、武備の重要性、人事採用の原則、兄弟、上下の分の厳守の強調、「婦人女子の言、一切聞くべから ず」なという文言など、藩主およびその家族の心得が述べられている。
第6条から第13条までは、賄賂、えこひいきの禁止、 藩士に対する賞罰権を家老のみに与え、またつげ口および「利害による道理の歪曲」の禁止、法の厳守など、「風儀」の問題としてまとめて藩内の日常問題に対 する戒めが説かれている。この部分は藩の統治者集団、官吏としての藩士層のおよそ一般的な行動規範である。
14条に、飢饉に備えたコメの備蓄「社倉」の設置が定められているが、同時にこの備蓄の「他用」を禁じている。また15条で奢侈を戒めている。
ここではじめて領民との関係が意識され、同時に経済問 題に触れられている。徳川時代には、会津藩を含め、どの大名も経済問題が大問題であった。実際には、飢饉は領民の動揺、領内一揆の危険を意味した。会津藩 においては、幕府警護という「藩の存在のアイデンティティ」にとっては最も警戒すべき問題であった。

現在の立場から考えると、第1条以外は、当時の藩士に たいする「あたりまえ」の日常的な要求である。会津藩祖の家訓に示された将来へ向けた政治原則、戦略的方向は、結局は第一条の、「将軍を守れ」、という規 定だけであった。しかし、幕末に至って、この規定を守るために京都所司代を引き受けざるを得なかったことは、この藩の悲惨な終末を運命付けたのである。

徳川末期の武士と百姓

      実際には、この会津藩家訓は表向きの看板というべきであろう。この時代には、既にどの藩でも、藩主及び藩士の最大の重大事は、一揆とお家騒動を引き起こさ ないことであった。実際に会津藩をはじめ、どの藩も遭遇した最大の困難は財政問題、コメの作柄、農民の貧窮や逃散、年貢の不納であった。藩士も楽ではな かった。会津藩では、寛延2年(1749年)12月から翌年1月にかけて1万数千人が参加する一揆が起こった。藩では鉄砲組を配置し、発砲して農民を町か ら追い返した。しかし一揆に参加する農民数はますます増加し、1月25日、家老たちを退役させ、貧窮者には年貢を半減し、領内全般に5分下げを実施してよ うやく一揆を収めた。会津藩では藩政時代を通じて全領域に拡大した一揆はこれ一回のみであるが、藩政に深刻な影響を及ぼした。この一揆のあと、年貢の納付 率は、宝暦元年(1754年)とその翌年はそれぞれ46.5%、3%と、いずれも50%以下の低率になった。これでは藩の借財元利合わせて4万2千余両の 返済が出来ず、商人たちにたいして一時返済を中止すると共に、城下町の商人の活動を盛んにする施策を採用した。また農民の年貢を3カ年間出来高に関係なく 定額とした。家臣からは150石以上の者は4分、50石以上は3分、30石以上は2分5厘を徴収(借上げ)して財政危機を切り抜けることにした。これ以外 にも多くの手を打ったが財政困難は解決せず、ついに明和7年(1770年)4月、藩財政の中心人物であった井深主水がひそかに出奔してしまった。

  天明2年(1782年)から3年にかけて更にひどい凶作に見舞われ、藩は2年9月に200俵、4年正月には1000俵の米を放出して領民の救済を図 り、また銀3000貫を幕府から借用したが、この年は参勤交代を免除してもらう窮状であった。天明6年(1781年)に豊作となり息を吹き返した。
  天明7年(1787年)家老田中三郎兵衛玄宰は藩政改革に関する大綱を提出、同じく家老の北原恒茂、三宅孫兵衛、高橋小右衛門らによって審議され、藩 主容頌らによって審議され、藩主容頌の決断で寛政の改革が開始された。改革の中心的推進者には下級の藩士が多かったが、いずれも経済の学に通じていたこと に注目しなければならないであろう。

  寛政の改革は農村の復興から始まり殖産興業、軍事・学制改革に及ぶものであって一応の安定をもたらしたものであるが、これが領民の一揆により始まったものであることを明記すべきであろう。

  しかし、これらの改革は、藩財政の改善の問題を解決するには至らなかった。その状況に重なって、軍事費の増大が」始まった。文化5年(1808年)幕 府は東北諸藩に北方蝦夷地の警備の為に出兵を命じ、会津藩には樺太警備の為の出兵が命じられ、会津藩は600人の軍勢を樺太に派遣した。これは1年足らず で終わったが、今度は江戸湾の警備が命令された。

      ここに述べたのは、会津藩の財政窮乏の一時期の典型的な状況である。この繰り返しは幕末の藩の敗北まで続く。東北各藩も同様であろうが、徳川封建体制は回復力を有していなかった。会津藩が力を注いだ殖産興業も、武士たちの政権の力の及ぶものではなかった。

わが家の先祖に見る実例

      わが出羽家の先祖は、実は譜代木村忠左衛門である。会津藩の資料を見ると、木村忠左衛門は、安永7年(1779年)3月から天明2年(1782年)3月ま で4年間猪苗代城代(要するに本城である会津若松の鶴ヶ城に次ぐ要衝である猪苗代城の守備隊長)を務めていた。石高は500石であった。この天明2年に木 村忠左衛門は木村家の家督を弟に譲り、隠居を申し出た。藩主はこれを認め、同時に、そのとき森台村(現在の湯川村森 台部落)で、地方御家人の出羽家が絶家になっているので、これを復活し相続するよう命じたという。木村忠左衛門が隠居を申し出たのは、一応の表向きは、跡 継ぎの男子が無かったためとでもしたのであろう。この主命に従い、彼は森台村に居を構え、地方御家人という藩士の身分で出羽伝内と名乗るようになったとい う。現在この私もそこに住んでいるわけである。

      地方御家人(じかたごけにん)とは、会津藩の農地の減少対策として、1776年に設けられた制度である。農業の衰退、郷村人口の減少により、手余地(てあ まりち、放棄された農地)が増大し、安永5年にはおよそ1万2900石の手余り地が記録されている。そこで、藩士の帰農が奨励されることとなった。これが 「地方御家人」である。藩士として資格は確保され、参勤交代のときには藩主にお目通りが許された。本田10石につき6両2分、新田には4両の手当てが貸与 され、家作の材木は下付し、引越しのための馬も貸与された。制度施行後10年後には総計8000石以上の耕地の再生がみられた。そればかりでなく、会津藩 においては、この後に来る天明、寛政の改革において、改革派の中心人物が地方御家人から多く輩出して、新しい体制への脱皮を志向するようになったことが画 期的な意義として評価されている。

      木村忠左衛門退陣の場合は、すでに寛延2年(1749年)の一揆もあったことであり、天明2年の飢饉による藩の財政赤字を考慮し、城代が地方御家人として 帰農することは、藩の難局に率先して立ち向かう意味もあったと考えられる。上記のように、辞任帰農の翌年の天明3年は、前年に輪をかけた不作、大飢饉と なった。
     
      当時会津藩の俸禄の支給は藩財政の逼迫の為「四つ成り」方式であった。すなわち公表禄高の4割が支払われるということであった。実際には、このころから借 知(藩による借上げ)という名目で藩士の俸禄の減額支給が常態となる。この天明2年(1782年)は不作、天明3年には凶作、大飢饉であった。家族は妻と 3人の娘があるだけで、男子はいなかった。ただ40歳を越したばかりのの本人の年齢を考慮すれば、この引退、隠居は、藩の難局に呼応して決心された可能性 が大きい。その後、伝内は、砲術の達人満田重蔵を婿養子として迎え、出羽嘉一郎喜時を名乗らせた。
      木村忠左衛門(出羽伝内)の場合は、家禄は減らされなかった。これを弟が引き継いだわけである。これには、上記の自発的引退と共に、木村忠左衛門の「家 系」が考慮されたようである。実は、保科正之の初期家臣団名典のなかに木村忠左衛門忠成という名が見える。これが木村忠左衛門の先祖であるらしい。
      大阪夏の陣で豊臣家の重臣であった木村長門守重成の遺児木村理兵衛忠次が寛永11年(1615年) 保科正之に召抱えられた。豊臣家滅亡のときには木村理兵衛忠次は七・八歳であったと思われる。世間をはばかり然るべき人の庇護をうけて育てられたのであろう。
      豊臣の遺児が徳川直系の保科正之に召し抱えられたのは奇妙に思われるかもしれない。木村重成は、幼少より豊臣秀頼に仕え(ということは、淀君とも近かった ことを意味するであろう)、大阪冬の陣では、佐竹義宣、上杉景勝の兵を今福、鴫野に破って奮戦し、夏の陣で井伊直孝と若江で闘って戦死した天下に隠れもな き豪の者である。秀吉の奥州仕置の際、蒲生氏郷が「天下の剛勇の士」を召抱えることを条件に会津拝領を引き受けた例もあり、大阪城陥落から19年も経った 後では、このようなことが行われたのであろう。
      そして木村忠左衛門忠成はその子供である。本当に彼らが木村重成の血筋を引くであったとすれば、相当の考慮でもって会津藩で遇せられてきたことが考えられる。
      木村忠左衛門(出羽伝内)が家督を譲った弟の木村家について言えば、会津戦争当時の当主は、500石木村兵庫である。会津落城のとき一家は自刃して果てた。

      いずれにせよ、このように徳川後期になると、禄高どおり実際の俸禄が支給されないことは普通になり、会津藩の藩士、特に下級藩士の生活は楽でなかったはずである。


戊辰戦争後の会津

    こういう状態であるから、会津の農民は会津戦争に必ずしも協力的ではなかった。会津藩では会津落城後、世直し一揆として、各地の農民が蜂起して、藩政組織 の末端に在った在地役人の家を襲った。2代目出羽伝内も地方御家人として、会津戦争の時には玄武隊に属し、本宮口に出陣し、弟横沢七郎は青竜隊に属して白 川口に出陣して奮戦したと伝えられる。農民一揆の群れは我が家にもやってきたが、出陣武士の留守家族だ、ということで略奪を免れたという。農民は決してた だの無思慮、無力な存在でもなく、暴徒と化したのでもなかった。
      戦争から帰ってきた2代目出羽伝内は、会津藩降伏後提供された替地、現在の青森県の酷寒の地である斗南藩行きを拒否し、故郷の会津森台村に残留帰農した が、、チョンマゲをつけたままで農業を行っていたという。しかし新政府に反対した「賊軍」ということで差別待遇を受け、明治政府から許されて福島県氏族に 編入されたのは、ようやく明治25年であった。
      戊辰戦争後の会津についてはまだまだ書くことがあるが、掲載はもう少し勉強してからにする。


会津藩の学制

      現在、会津にも、会津藩家訓を「武士道の鏡」として賛美する向きもあるが、このような、藩の必要、藩運営の実体を知らないで、あるいは顧慮しないで「武士 道」を論ずるのは、空論というべきであろう。必要だったのは、経済の知識、農学や産業に関する知識、そして世界の大勢に明るい人材であった。それらを駆使 して藩財政を再建する才覚を持った「武士」が藩にとって必要であった。そのような人材を生み出し、登用することが出来なかった藩は、いずれにせよ滅亡を免 れなかったのである。日本全体を見たとき、幕末には、このような方向で才能と識見、そして組織能力、実行力を発揮した武士や専門家は、幕府の機構内にも、 各藩内、とりわけ情報に恵まれていた西南地域各藩にも、また民間にも、数多く出現していたのである。

   会津では、寛政改革の時期に、学制の改革が進められ、藩校として日進館が創設された。これは藩士およびその子弟を文武両面で教育するものであるが、 幕末には蘭学も講じられるようになった。庶民の為には町講所と藩内15箇所の郷校が藩によって設置された。ほかに寺小屋があり、若松町方だけで20箇所に 達した。
   藩の儒学として朱子学が中心となったが、民間では、中江藤樹の流れを汲む心学が喜多方地域を中心に普及し、会津心学と呼ばれるようになった。 1617年幕府の公的な学問としての朱子学保護のため、一時陽明学の普及が禁止されたが、心学者は農民の教化を目的とするものであり、朱子学や神道と矛盾 しないものとして後に解禁された。

   但し、上記は、会津若松市発行の「会津の歴史」の一部ををそのまま紹介したものである。「会津精神」「会津魂」といわれるものの中身については、更に研究のうえ、本稿読者の皆様にお知らせしたい。

   これらの学校及び民間教育施設で、何がどのように教えられていたか、私は今のところ何も知らない。だだ、この家に転居してから物置を調べたら、4つ の木箱に入った漢籍を見つけ出した。岳父に問い合わせると、これは寺小屋の教科書セットであろうということであった。会津若松の県立博物館に持ち込んで、 学芸員の方にお願いして鑑定して頂いたら、「会津地域で町方や農村の豪家などでよく見つかる標準的な漢籍のセットである」ということであった。私として は、数十冊の水戸光圀が編纂した「大日本史」が入っていたことが特に印象に残ったが、これは本来ならば総計本記合計397巻の大作であるはずであるが、箱 に入れられているのは30冊ぐらいである。明らかに「寺小屋の教科書セット」だろうと納得できた。こういうものも会津において寺小屋レベルで読まれてい た、ということも私にとっては、会津藩の本質的な方向からして、納得できる「新情報」でもある。岳父に照会したところ、この漢籍セットは、わが出羽家の初 代出羽嘉一郎(通称出羽伝助二代目)の次男の漢学者で、江戸で修学し、戊辰戦争敗北後、身分を隠すために事実上安藤家を創始して安藤修三と名乗り、会津に 帰って漢学塾を創設した人の持ち物の一部であろうということであった。安藤修三は、そのご明治政府が郵便事業を設立したときに、初代若松郵便局長に任じら れた人物である。郵便の創設は、明治政府にとって非常に大きな意義を持つ近代化事業であった。地方の学識者や素封家が、この事業にこういう形で選ばれ、動 員された。
   私としては興味はあるが、この漢籍セットは、今のところは納屋の2階において、「ネズミがかじるという批判」(マルクスの言葉)に出会わないようにして保管している。

   現在の会津においては、地方の新聞を見ても、依然として、会津藩家憲15条の幕府に対する至誠こそ会津魂であり、武士道である、という風な賛美が幅 を利かせている。最近、JR会津若松駅前に「ならぬものはなりませぬ」という石塔が立てられた。これは、会津藩家憲を補充する文書で、会津藩士の子供たち の生活規律を規定した「什の教え」の一節であり、藩の規律に対する無条件の服従を説いたものである。今回建設された「石塔」は、自動車の運転者たちに交通 規則順守を呼びかけるものであるらしいが、こういうものが日常生活で大手を振って出てくるのが、会津の現状である。

   心学についても、私は今のところは何も知らない。ただ、これが喜多方方面を中心として拡大発展した、ということと、明治に入ってまず喜多方を中心と して自由民権運動が芽生えたことと関係があるのかもしれないと考えているだけである。「会津の思想」に関しては、いずれ多くの人の意見を聞き、研究の上、 ホームページの読者に私の意見をお知らせしたいと思っている。。



http://www001.upp.so-net.ne.jp/dewaruss/aizu_histroy.htm

0 件のコメント:

コメントを投稿