2016年3月18日金曜日

井深八重



明治30年(1897)~平成元年(1989)
 井深彦三郎の娘として、台北に生まれる。
 母親が早くに亡くなったうえ、父は極めて多忙で家にいることがほとんどなかったため、物心がついたころに父方の叔父である井深梶之助の家に預けられた。
 そこで何不自由なく英才教育を施されて育ち、同志社女学校を卒業後、英語教師として長崎の県立女学校へ赴任する。
 希望に満ち、前途洋々たる1年間が過ぎた22歳の某日、体調に異変を感じ、福岡の大学病院で精密検査を受けたところ、突如病名をふせられたまま御殿場の 神山復生病院に隔離入院させられてしまう。彼女には、当時忌むべき病とされていた「ライ病(ハンセン病)」との診断が下されたのである。

 一族の恥、ということで籍も抜かれてしまった彼女は、失意の底に沈みつつ入院生活を始めるが、自分も感染するかもしれないのに素手で患者をなでさするな ど、笑顔で献身的な看護を続ける院長のレゼー神父と、死と直面しているとは思えない患者たちの明るい姿を目の当たりにすることとなる。この病院には医師は レゼー神父しかおらず、看護婦に至っては皆無。比較的軽い症状の患者が、重い症状の患者の看護をしているという状況で、もはや先には死しかないという絶望 の館であるにもかかわらず、院長の笑顔と信仰に支えられた患者たちはことのほか明るく、互いに支えあうその姿は、限りなく純粋な愛に包まれているようです らあった。

 1年後の再検査で、幸いにも彼女のライ病罹患は誤診ということが判明する。しかし彼女は即座に病院に戻ることを決意し、東京半蔵門にある看護婦学校速成 科で大正12年9月に看護婦免許を取得すると、直ちに財団法人神山復生病院唯一の看護婦として働き始めた。彼女の看護婦としての帰還を、レゼー老院長や患 者たちがどんなに喜んで迎えたことか。井深八重、27歳の秋であった。

 彼女の仕事は、老院長を助けての患者の看護は勿論のこと、病衣や包帯等の洗濯から食事の世話、経営費を切り詰めるための畑仕事、義援金の募集、経理ま で、およそ病院に関わること全般におよんだ。昭和5年にレゼー老神父が病没し、その後は日本人神父が院長を後継したが、彼女の献身的な仕事は変わらなかっ た。

 やがて、長年にわたった彼女の苦労は人も知るところとなり、晴れて報われることとなる。
 昭和34年、ローマ法王ヨハネスク23世からその献身的な看護を表彰されたのに始まり、日本では黄綬褒章が授与され、さらに2年後の昭和36年には、最高の栄誉であるフローレンス・ナイチンゲール記章が授与されたのである。

 その後も彼女は復生病院の看護婦長であり続けたが、平成元年5月15日、御殿場市内の病院において91歳で永眠した。救ライ事業に全生涯をかけた人生であった。



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