2016年3月18日金曜日

井深梶之助


安政元年(1854)~昭和15年(1940)
 会津藩校日新館の学頭・井深宅右衛門の長男として、若松城下本三之丁(現在の東栄町)に生まれる。母は、家老西郷頼母近思の娘八代子。

 14歳で会津戦争に際会し、一度は父の率いた「第2遊撃隊」とともに小千谷に出撃し、小出では激闘をも経験するが、小出から敗走した後、父命により若松 へ戻った。帰城後は藩主容保の小姓となり、滝沢本陣での白虎隊出撃や、1千の兵を率いた佐川官兵衛の出陣など、籠城戦の始終を君側から目撃することとな る。

 降伏後、他の会津藩士とともに斗南に移住するが、西洋の圧倒的な技術力を知り、その背景となる西洋学を学ぶべく16歳で上京、斗南藩・土佐藩の私塾を転々とした後、横浜の「修文館」の学僕となった。
 その「修文館」で英語を教えていたのが宣教師ブラウンで、この非常に人道的な宣教師の影響を強く受け、ついにキリシタン禁制解除前にもかかわらず洗礼を受けることを決意し、これを受けた。ときに梶之助19歳であった。

 明治10年、ブラウンの塾が発展的に解消して東京一致神学校となり、同19年に明治学院となった。
 梶之助は学院の副総理を務め、36歳でアメリカのニューヨーク・ユニオン神学校に留学し、帰国後、ヘボンの後をうけて総理に就任する。救済事業に尽力し つつ、知育偏重教育の弊を改め、意志と情操の教育を尊重し、有能な技術者や博識な学者のみならず、宗教的かつ円満な人格者の養成を常に主張した。
 
 墓は、青山霊園にある。


http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/aizu-jiten/koumoku-i.htm

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