2016年3月11日金曜日

薩摩島津家


薩摩島津家は、鎌倉時代来明治に至るまで続く名家中の名家だが、時代の変革期に歴史上に燦然と輝く名君を出すという幸運に恵まれた。

戦国時代には、島津家中興の祖・島津忠良(日新公)を排出。その子・貴久は「島津の英主」と称えられ、貴久の子であるいわゆる「島津四兄弟」は義久、義弘、歳久、家久とそれぞれ文武ともに才能あふれる武将たちであった。

「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」。島津忠良が孫の四人を評した言葉である。

親兄弟であっても下剋上が日常茶飯事であった戦国の世においても、島津四兄弟の結束は固く、島津家興隆を実現させ、豊臣秀吉の九州征伐の前に屈するまで九州全域に勢力を拡大していった。

幕末期には、「蘭癖大名」の代表とされる島津重豪(しげひで)、祖父である重豪の影響を多大に受けた幕末期最大の名君・島津斉彬(なりあきら)、そして斉彬の異母弟で斉彬逝去後の薩摩藩の実権を握った島津久光と立て続けに名君を輩出。

時代の節目に名君が出たことが、鎌倉時代に土着から始まった島津家が明治維新まで名家として続き、維新時には薩摩勢が日本を動かすという結果に繋がった。

薩摩という中央政権の手の届きにくい僻地であったこと、海に面した立地により海外の情報が入ってきやすかったことなど環境に恵まれた面もあるとはいえ、それらの環境を最大限に活用した島津家当主たちの活躍は称賛に値する。それらを総合して「島津は暗君なし」という言葉が生まれ、存在し続けている理由かもしれない。

http://www.shimazu-yoshihiro.com/shimazu/shimazu-meikun.html


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