2016年3月17日木曜日

飯山藩


慶長8年(1603年)、松平忠輝が北信濃4郡を支配したとき、その付属大名である皆川広照が4万石で飯山に入ったことが、飯山藩の始まりである。しかし慶長14年(1609年)に広照は忠輝のもとで敏腕を振るっていた家老・花井吉成を讒言したために徳川家康の怒りを買い、改易されてしまった。翌年、越後の堀一族が改易されると、その一族の一人であった堀直寄が飯山に入る。直寄は千曲川の治水工事や新田開発を積極的に推し進めて藩の支配体制を固めようとしたが、元和2年(1616年)に直寄は越後長岡藩へ移封となる。代わって近江国内より佐久間安政が3万石で入る。安政は織田信長の家臣で「鬼玄蕃」の異名を取った佐久間盛政の弟である。安政の後はその子・佐久間安長、そして安長の子・佐久間安次が継いだが、寛永15年(1638年)に安次が夭逝したため、佐久間氏は無嗣断絶で改易となった。
翌年、松平忠倶遠江掛川藩から4万石で入る。忠倶・松平忠喬の二人は地方巧者の野田喜左衛門を登用して用水路開設や新田開発、税制の確立に努めて藩政を安定化させた。宝永3年(1706年)に松平氏は掛川に戻され、代わって播磨赤穂藩から永井直敬が3万3,000石で入る。しかし直敬は5年後の正徳元年(1711年)に武蔵岩槻藩へ移封され、代わって摂津尼崎藩から青山幸秀(幸侶)が4万8,000石で入る。しかしこれもわずか6年後の享保2年(1717年)に丹後宮津藩に移封された。代わって越後糸魚川藩より本多助芳が2万石で入る。この本多氏は、本多正信に近い系統である。
しかし助芳は糸魚川1万石から1万石加増されて2万石になったが、実質的には千曲川の水害のために糸魚川1万石よりも収入が少なかった。このため、家老の本多弥五兵衛の献身的な忠義が幕府に認められたこともあって、享保9年(1724年)に替え地が用意された。また藩領を城下・外様組・川辺組・山之内組に分けて支配した。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、越後高田藩から旧幕府軍の衝鋒隊が飯山に侵入し、城下は戦火に見舞われた。その後北越戦争会津戦争に参戦した。翌年、第9代藩主・本多助寵版籍奉還により飯山藩知事となる。そして明治4年(1871年)の廃藩置県により、飯山藩は廃藩となって飯山県となり、同年末には長野県に編入された。

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